ぽた郎の超軟弱形而上日記
http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/
ja
2006-08-15T11:17:46+09:00
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大奥,という名の華麗なる倒錯世界
http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001181.html
以前から各所で絶賛の声が漏れ聞こえていたよしながふみの『大奥』(第1巻),ようやく読んでみました。これまで逡巡していたのは,『西洋骨董洋菓子店』がぽた郎的にはちーともおもろいと思わなかった(ただし立ち読み飛ばし読み)のと,氏がかなりコアなBL系作家として鳴らしていたのでちょっと近寄りがたかった(これは多分にぽた郎の偏見)のと,「男女逆転」という陳腐なコピーが先行して勝手にその世界を想像しちゃって少々興ざめだったのと・・・,というしょーもない食わず嫌いのせいです,ごめんなさい,ハイ。やはり一読せねば作品の価値はわかりませんね。結論から言うと,こいつぁすげーぜ。なんでもっと早う読まなかったんや〜っ!と大後悔するほどの傑作です。 ■よしながふみ:「大奥」第1巻,白泉社(ジェッツコミックス), 2005 (画像も同1巻より引用) さても,大奥。この作品の真骨頂はやはり確かに「男女逆転」だが,単に男が女装して女が男装して・・・,の安易なトランスベスタイドではないところが巧妙。時は江戸中期,とある伝染病により男性死亡率が急増,男女人口比は1:4で推移する。このあたりがSF的設定で荒唐無稽ではあるが無理のない伏線となっていると言えよう。男女の社会的役割はほぼ完全に逆転しているが,服装や仕草などの文化的属性は現実世界そのまま。大奥内の男同士の確執はまさにBL系,その倒錯ぶりをいかんなく発揮している(それとて従来のよしなが作品に比べればうんとソフトなのだそーだ)。しかし一方,いわゆる「男らしい」気っ風のいい貧乏旗本の倅・水野祐之進といわゆる「女らしい」おきゃんな豪商の一人娘・お信の偲ぶ恋と大岡裁き大団円,などという歌舞伎や時代劇にありがちの伝統的・典型的な人情ものも「男女逆転」の世界にありながらちゃんと巧妙に織り込んでいるのが作者の力量の見せ所。うまい。 時に八代将軍吉宗公の天下。吉宗といえば,暴れん坊将軍の松平健やNHK大河ドラマの西田敏行が脳裏から離れない人も多いかとは思うが(まあ少女マンガの読者層にはあんまし関係ないかな・・・?),よしなが版吉宗はきりりと痩身の,決して美女とは言えないが意志的で剛胆なキャリアウーマン風の女性として描かれている。豪放磊落で質素倹約(吝嗇?)なのは史実そのままに,従来のメディアでインプリンティングされた巨漢のイメージを軽やかにいなしながら払拭することに成功していると言える(画像左参照。ちなみに最後のコマの冷や汗顔の花魁風女性は間部詮房で実在の人物)。これがまた,吉宗がカッコいいのよ〜。惚れた〜。権謀術数あり義理人情あり,女も男も惚れてしまうであろう豪快さ,天晴れ。同様に,腹心の加納久通(実在の人物)も普段はひとの良いおっとりとしたぽっちゃり型のおねいさんとして描かれるが,こと政治的駆け引きとなると,きりりと目が据わって老獪な政治家に豹変する(画像右参照,ちなみに男性は大奥総取締大年寄藤波某,これは実在の人物ではないが,史実では大奥で権力を奮った月光院に相当すると思われ)。惚れた〜。総じて,『大奥』に登場する女性達はみなひとくせもふたくせもあり,人間として魅力的な人物として描かれている。それに対し,男性は準主人公役の水野を除き,どいつもこいつも軽薄で浅はかで小狡くて情けない。これもよしながワールドの重要な世界観だろうか。 畢竟,このマンガは,すべからく男性が客体(=モノ・対象物)として描かれているのだ。上様の総触れ(大奥への登殿儀式)のシーンなぞ,水も滴るいい男の大群が一人の女に平伏する光景は圧巻である。よしながはもしかしたらこれを描きたいがためにこの世界を作り出したのではないか(笑)・・・と思わず勘ぐってしまう。それほどまでに倒錯した美しい世界。それがよしなが版大奥にほかならない。同時に,よしながは単に美男をセクシャルな対象物として愛でるだけでなく,その裏側にある差別や搾取に光を与えるのも忘れてはいない。例えば,作者は大奥の御三の間・杉下(もちろん男性)に次のように語らせている。拙者の実家は三十俵三人扶持の御家人だった。御家人の中でも最低の禄高よ。しかも拙者の家はおぬしの家とは違って,金のために毎晩せがれを客に取らせるような親だった。十四の時から毎晩だ。最中の焼けた火箸を押しつけてくるようなものや病気持ちの女もいて・・・。十八で婿に行った時にはやっとこの地獄から抜け出せるのだと思って本当にうれしかった・・・。ところが婿に行った先で何年も子供が生まれなくてな,結局拙者に種が無いのだということになって離縁されたのだ。最後には食事もろくに与えられなかった。 (句読点はぽた郎が補筆)このように現代のジェンダー論における女性搾取の訴えをそのまま逆転して描くことにより,この世界(そして実世界)の差別のありようを残酷なまでに如実にえぐり出しているとも解釈できる。その点で,現実世界の男性優位女性下位・男性支配女性搾取的の構図を単純明快に逆転させた設定は,女性読者にとっても男性読者にとっても奇妙な親近感と違和感を同時に与えてくれるジェンダー論的教科書として良いお手本だと見なすことも可能である(事実,この作品は2005年にセンス・オブ・ジェンダー賞特別賞受賞を受賞している)。「男女逆転」が単に美男を侍らすがためだけの装置ではないところが,この作品の懐の広さであり,幅広い人気の秘訣かも知れない。 更に一歩進めて分析すると,単なる「男女逆転」のギミックな世界観だけに終始しないのがこの作家の深謀遠慮なところ。野暮を承知で第1巻のエピソードを雑駁に分類すると,大凡以下のようになるかと思われる。 第1巻 ├祐之進とお信の恋 ・・・ 従来型男女の恋(時代劇・人情もの) ├大奥の日常 │ ├小姓の視点 ・・・ BL系?美男ワールド │ └杉下の視点 ・・・ 男性版おしん? └吉宗と久通の政治劇 ・・・ 時代小説風 これをみて明らかなように,美男が支配者たる女性に平伏する倒錯大奥ワールドはエピソード構成の一部に過ぎず(もちろんこれがこの作品の最も重要な要素には違いないが),人情ものや史実を交えた政治劇(側用人廃止や一日二食一汁三菜の倹約令,大奥女中50人解雇など)など,時代考証もきちんと踏んだ上での歴史物としての読み応えも十分あり,歴史マンガとして十二分に成功していると言える(更にちなみにぽた子さん曰く,この和服の豪華絢爛オンパレードは10代20代のひよっこマンガ家じゃあ描けないよねー。とのことでした)。このような定石の上に立つなればこそ,「男女逆転」という一見笑止千万な設定が,単なるパラレルワールドではなく史実や我々の現実世界と少しずつゆるやかにリンクする巧妙なダブルバインドを構成し,荒唐無稽ながらも強烈な説得力を以て様々な層の読者に受容される所以ではないだろうか。第1巻終盤からは,吉宗自らがこの男女逆転の江戸社会に疑問を持ち,史書を紐解く・・・という感じで物語は擬史小説の体裁を帯びてくる。うーん,このマンガ,しばらく目が離せそうにない。 さても次なる悩みは,他のよしなが作品を読むや読まざるや。うーん,怖いもの見たさもあるが幻滅するのも必定との噂もアリ・・・。どなたかお詳しい方,カムアウトもとい,御指南下さーい(笑)。...
2. comic
potaro
2006-08-15T11:17:46+09:00
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プレイヤーと観客の幸福な関係
http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001173.html
「愛のあるブーイングを!」とはmorioさんの明言。プレイヤーの真摯な姿勢は観客を魅了し,観客の厳しい目はプレイヤーを磨く。プレイヤーはまずなによりも,金よりも名声よりも,マスコミ対策や評論家受けではなく,自分自身を全身全霊で表現することが肝要。観客も,単なる結果や形式に拘泥せず,にわか精神論や似非評論家ごっこではなく,プレイヤーが生み出すただただ美しく崇高な行為を全身全霊で感じ取るべし。・・・それはサッカーであってもスケートであっても,音楽であっても同じこと。 ■二ノ宮友子:「のだめカンタービレ」, 講談社 Kiss KC,1~15巻 (上記画像は15巻より引用)【註1】 些か唐突に私事ではありますが,ぽた郎は学生時代,いわゆるクラシック音楽にどっぷりハマっておりまして,平均して月に3・4回はコンサートに行くほど,音楽に入れ込んでたりしました(嗚呼,昔は若かった・・・(笑))。ところが,あるときからぷっつり行かなくなってしまい,コンサートからも足が遠ざかって現在に至ります。コンサートに行かなくなったのは,クラシックが飽きちゃったというのと,仕事が忙しくて行けなくなったというのもありますが,今思い起こすと,あんまし感動できるコンサート(ライブ)に出会わなくなっちゃったから,という理由もあったのだと思い出しました。そうなのです。クラシックはライヴな感動が少ない。「感動」というと,昨今,メーターの針が振り切れちゃったような感動の押し売りが音楽界だけでなく映画界やスポーツ界でも蔓延ってて誤解を招きそうですが,私が欲しいのは「ブラボー!」というワザとらしい掛け声でも咽ぶような感涙でもなく,「思わず」背筋がゾクっとする身震いとか,「自然に」静かに広まるスタンディングオベーションとかそういうものです。これはもちろんプレイヤーの方にも問題があるかもしれませんが,観客もその責任を大きく負っていると思います。 なにしろ,クラシックのコンサートでは,どの演奏家もどの演奏に対しても判で押したようなお行儀のよい拍手(そして,最後の曲だけはアンコールをちゃっかり要求する盛大な拍手)。その一方で,やれ楽章の途中では拍手をしてはいけないとか,最後の一音の残響が鳴り止むまで拍手してはいけないとか,そういう暗黙のがんじがらめのルールばっかり。思い起こすと,某超有名外国オケが疲れた長旅の後に疲れたしまりのない演奏をしたにもかかわらず拍手喝采で,ヲイヲイ, 一万円も取ってこんな演奏で拍手しちゃっていいのかよ・・・と思ったり,マイナーなオケでマイナーな曲だけど,オケも渾身の演奏でこいつはスゲーぜっ!と思っても,メインじゃないからすぐ拍手が鳴り止んじゃって自分一人で最後まで一生懸命手を叩いてたり・・・,と「お行儀のよい」観客の反応にゲンナリすることがしばしばでした。毎回毎回,一律平等のお行儀のよい拍手と能面のような反応。一方でコンサート会場の帰り道では評論家風を吹かせたスノッブな方々が滔々と分析を披瀝する。そんなに文句があるんならちゃんとブーイングすればいいのに,そんなに絶賛するんならちゃんとスタンディングオベーションしてあげればいいのに・・・。これじゃあ,プレイヤーもやる気でないよね。プレイヤーと観客がせっかく同じ空間にいるのに,あたかもスタジオレコーディングをするような,あるいは自宅でオーディオ鑑賞をするような,そんな寒々しいコンサートはもうたくさん。そういう思いがぽた郎をコンサートから遠ざからせた一因ではないかと思います。 とまあクラシック(とそののコンサート)からすっかり足が遠ざかっていたぽた郎ですが,ご他聞に漏れず「のだめ」を読んで再認識。クラシック再評価です。モーツァルト狂の伯爵をして「ラヴェルって・・・いいな」,と思わず言わしめたように,しばしアンチ・クラシックだったぽた郎をして「クラシックって・・・いいな」,と漏らさずをえない深い感銘。いままで忘れててゴメン・・・,てなカンジ。思い起こせば,数少ないながら,ちゃんと私もシアワセな体験をしてました。休憩前のサブの曲なのに拍手が鳴り止まなくてそこでミニアンコールが始まったり,第一楽章が終わっただけなのに思わずパラパラと拍手が漏れて指揮者が指揮台から降りて丁寧にお辞儀をしたり,怒涛のフィナーレでそのまま怒涛の拍手になだれ込んじゃったり・・・,と稀に熱い「ライブ」に遭遇したこともありまた。あるいは教会で行う小規模アンサンブルの慈善コンサートなどでは,ホンマにプレイヤーがのびのび楽しく弾いていて,ヴァイオリンからヴィオラへ本当ににっこりアイコンタクトをしながら旋律を受け渡したりするのを目撃したことがあります。ヴァイオリンの弦が切れて演奏が一時中断したハプニングの最中,リコーダー奏者がやおら即興曲を披露して曲の途中で大絶賛の拍手があったこともありました。そういう幸福な一体感を経験すると,やっぱりコンサート(ライブ)って病みつきになるのよね~。愚かにもぽた郎はそれをすっかり忘れてました。のだめ,ありがとう。 15巻で描かれたのだめの記念すべき初リサイタルで,奇しくも彼女が発した挨拶は「楽しんで演奏するので,みなさんも頑張って聞いて下サイ」。この言葉こそがこのマンガの本質を,そして人気の秘密を端的に象徴していると言えるでしょう。(そしてそれと見事なまでにコントラストをなすのが,9巻のコンクールでの無残な敗北。コンクールの結果ではなく,自分自身を見失った哀れなのだめ。) 観客を魅了するのは,結果でも点数でも分析でも評論でもなく,自分自身を表現する喜びを全身で表しているひたむきなプレイヤー(演奏者・選手)の姿に他ならないのデス。いい演奏をしているのだめは本当にいきいきと楽しそうで,観客もそれに知らずのうちに引き込まれ魅了されるしかありません(引用図参照)。ほんとうに全ての時間と全ての空間が彼女のために在り,彼女も観客もただただその一瞬の邂逅に感謝するしかない・・・,そういう幸福感。それは所詮,デフォルメが可能なマンガの世界だから,という批判も当然あるでしょうが,やっぱり現実の世界でもそういう幸福なプレイヤーと観客の関係は,確実に存在するのです。 「この際内容はどうでもいい。結果しかない。」なんて情けないこと言うなよ。そんなタワゴトを言ってるプレイヤーを誰が楽しんで観るというの? そんなくだらないことを要求する観客に対して誰が真剣にプレイすると思うの? もっと純粋な目で(耳で)鑑賞しようよ。おらが国が勝つとか負けるとか,そんな瑣末的なことでわけのわかんない一体感を持つより,もっと本当に美しいプレイを,幸福な瞬間を,自分の目で見つけようよ,みんな。(・・・アレ?音楽のハナシをしてたんじゃなかったっけ?(笑))...
3. music
potaro
2006-06-22T01:00:51+09:00
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神仏習合(其之二):丹生と金剛,ミイラと空海
http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001174.html
イキナリ神仏習合とはちょっと話題が逸れるけど,さっそく閑話休題すんません。浮おじさんのとこで丹生(硫化水銀)のことが話題になったので,そーいえば,と早速気になる本を取り寄せて読んでみました。 ■松田壽男:「古代の朱」, ちくま学芸文庫, 筑摩書房 (2005). 原始日本人が使ったアカ色には二種あった。一は水銀系のアカ,つまり硫化水銀 (HgS)。一は鉄系のアカ,すなわち酸化第二鉄(Fe2O2)である。水銀系のアカが(中略)純粋のアカ色を呈するのに,鉄系のアカはベンガラといわれ,やや黒ずんで紫色に近い。この鉄系のアカは古く「そほ」といわれた。古代の日本人は漢字を学んで「赭」という字をあてた。これにたいして水銀系のものは「まそほ」,つまり正真正銘のソホであるとし,「真赭」と表現されている。のちに,おそらく天平時代と推測されるが,鉛系のアカができた。科学的にいうと四酸化鉛(Pb3O4)である。一般に鉛旦(えんたん)といわれた。鉛旦はまた黄旦(こうたん)と書かれているように,赤と黄の中間で,俗にいうミカン色である。うーん,うっとり(笑)。こういう文章を読んでるとシアワセになりますねぃ〜。これぞ人文科学と自然科学の幸せな結婚。事実,古代のハイテク技術である金属鋳造と当時の知識のアーカイヴである社寺って,実は切っても切り離せない関係なのです。例えば八幡信仰と銅,金屋子神社と鉄,金山彦神と金・・・,そしてその背後には渡来系の技巧集団と武器と戦争と政治が,あるいは大事故と人身御供と祟りと怪談が・・・。このあたりを追ってくと,ホンマに奥が深そうで現実に戻ってこれなくなっちゃうかも。 さて,神仏習合。空海が開いた高野山・金剛峯寺と丹生都比売神社は神仏習合の好例としてあまりにも有名ですが,著者は,この高野山と丹生都比売神社の関係を面白いモノで結びつけています。・・・それは,ミイラ。即身成仏です。 日本製のミイラにまつわるいちばん大きな謎は,日本の風土が湿潤であって,ミイラの製造にはもっとも適していないという点である。それにもかかわらず,現在までミイラはたくさん残っている。死臘のばあいはいざ知らず,ミイラとなると,何らかの手段が加えられているのにちがいない。そこに私は水銀のもつ防腐作用を考える。 だいいち,空海が真言宗の本拠と定めた高野山は,全山が水銀地帯である。高野山の壇上,つまり中心地には丹生,高野の両明神の社がある。また空海の墓側にも,墓を護るかのように両明神が祀られている。高野明神は高野山の地主神であるが,丹生明神は後述のように水銀の女神にほかならない。 ・・・(中略)・・・ たんなる高僧としてだけでなく,空海は,学者として知識人として平安朝第一の人物であった。彼は中国に渡って専門の仏教をより深めたことはいうまでもない。その上にいろいろな学問を身につけ,いろいろな新知識を日本にもち帰った。水銀の薬物としての性能を巧みに応用して,中国人が不良長寿の薬として珍重した丹薬の製法も,また水銀を死屍(しし)に注入すれば防腐剤として作用する事実も,みな空海によって日本に輸入されたと考える。(中略)空海自身が弘仁七年(816年)に高野山を開基したのも,水銀に関係あり,と私はにらんでいる。うーむ。なるほどー,やはりそうだったのか。東大寺大仏殿を建立したときも宇佐八幡神が勧進されたけど(こちらは銅に関係する技術神。このハナシもいずれまた後日書きたいと思います),金剛峯寺の縁起もやはり技術神系の神と深い関連があったのですな・・・。 神様仏様,と今日の我々は「別の宗教」として八方美人的に節操なくお参りしているように見えますが,実はやはり,この二つの宗教は単純に「二つ」とカウントできないほど,根っこのところで深く深く結びついているのです・・・。我々ノ文化ハ斯ク形成サレタリ。誰や?神と仏をムリヤリ離婚させたんは? 蓋し,神仏習合の迷宮は深く愉し。今宵も深い沼にズブズブ・・・。...
1. book
potaro
2006-06-19T23:13:35+09:00
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神仏習合(其之一):権力ヨリ強要サレタル信仰ニツイテ
http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001172.html
統計上では,日本の宗教人口は二億人を越えると言われている。なんと人口の二倍。つまり,日本に住んでいる多くの人は,神様も仏様も両方拝んでいる。それでなんら不思議に思ってない。こんな奇っ怪な国(あるいは文化)は他にはそうそうない。そんないい加減でテキトーでほほえましい日本が,私は大好きだ。 「神仏習合」とは,一般には明治初年の神仏分離令以前の中世の宗教形態を指すが,そもそも「習合していた」という表現はいったん強制的に「分離された」後の状態である現代の我々から見た形態であって,当時の当事者(民衆,僧侶,神職)たちの多くは,「習合している」ことすら無自覚であったであろう。現代でもそんな無自覚で無意識的な,そして知らずのうちに権力の暴力的な手からするりと軽やかにすり抜ける,慎ましくも逞しい民衆の息づかいが,確実に残っている。そんな路地裏の小さな日本が,私は大好きだ。 ■安丸 良夫:神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈, 岩波新書 (1979). ・・・神社改めは,明治三年ごろから各地でおこなわれるようになったらしい。氏神と村との結びつきは,村の成立そのものに由来する長い伝統をもっていたが,それまで,氏神は一村に一社とはかぎらなかったし,氏神の神体が仏像であるばあいや,氏神というより氏寺といったほうがふさわしいものも少なくなかった。さらに村の氏神(産土社)のほかに,各家や同族団に氏の神があるばあいもあり,それ以外にも多くの小祠もみられた。 こうした多様な神仏関係から,国家によって神社祭祀が体系化されたとき,村の氏神(産土社)だけが選びだされ,しかも,氏寺や仏像を排して,一村一社の神道式の氏神の成立が目標とされたのである。(中略)こうして,村々に祀られていた多様な神仏のなかから,産土神だけが浮上してきて他を抑え,いま私たちが村や町で見るような氏神が成立した。私たちが神社の様式としてごく自然に思いうかべてしまう鳥居,社殿,神体(鏡)や礼拝の様式なども,その大部分は,こうした国家の政策を背景として成立したものであった。 ・・・(中略)・・・ 廃藩置県によって集権国家樹立の基礎を固めた明治政府は,四年以降,近代国家体制樹立のためのさまざまの政策を推進した。伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系は,一見すれば政教一致という古代的風貌をもっているが,そのじつ,あらたに樹立されるべき近代国家体制の担い手を求めて国民の内面性を国家がからめとり,国家が制定する規範と秩序にむけて人々の内発性を調達しようとする壮大な企図の一部だった。そして,それは,復古という幻想を伴っていたとはいえ,民衆の精神生活の実態からみれば,なんらの復古でも伝統的なものでもなく,民衆の精神生活への尊大な無理解の上に強行された,新たな宗教体系の強制であった。 (下線部はぽた郎による)引用長文にて恐縮至極。しかし,現在我々が「日本の古き良き伝統」と呼んでいる神道および神社が,明治黎明期に相当な強権と混乱を以て「人工的に」巧妙に歴史を塗り替えた,ということに自覚的な日本人は少ない。もちろん,明治以前にも神道なるものは存在したが,(実はここが重要な点であるが)それまで平安・鎌倉時代から連綿と続いていた「伝統的な」神道(例えば吉田神道,両部神道,山王神道など)は明治初期に完全に断絶してしまい,江戸末期に突如として興った「新興宗教的な」神道(本居宣長,平田篤胤を源とする国学→国家神道)に完全に駆逐された,という事実を知っている日本人も非常に少ない。 某国の某総理大臣が某神社に私人だか公人だかよくわからない状態で参拝を強行し,やれ愛国心だの古き良き伝統だのを喧伝している。ま,それぞれ信念なり戦略なりはおありだろうから,ここでは政治的観点からはとやかく言わないが,上記の明治期の宗教史上あと戻りできない大きな断絶の文脈の上でその行為を俯瞰すると,甚だ胡散臭くかつ滑稽な行為としてしか捉えることができない。どうやらこの国では,総理大臣や官房長官が参拝するピカピカの神社にお参りしないと国を愛すことにはならないそうだ。しかし,それより,路地裏や辻にひっそりと佇む神や仏(あるいはそれすらも判じ得ない名も無きもの)に,私は愛着を感じぜずにおれない。それではこの国や文化を愛することにはならないのだろうか? (神仏習合の深い森は,広大かつ豊穣で,興味が尽きない。これからしばらく,シリーズで続けようかと思います。)...
9. metaphysical soliloquy
potaro
2006-06-08T23:29:23+09:00
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古本,掘り出し物二点。
http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001170.html
久々に「天牛書店」に行きました。比較的家の近所なのに最近あんまし行けてません。自転車じゃないとちょっとシンドイ距離なのと,行ったら行ったでバカスカ買っちゃうので迂闊に足を踏み入れるのがヤバイというのとで,まあ仕方ないということでしょうか(笑)。今日はなんか呼ぶものがったのか,フラリと立ち寄って店内をそぞろ歩きフト足を止めると,目があっちゃっとのです。「Buy me.」と本が呼んでる(笑)。ヤバイ,目が合ってしまった・・・,ここで会ったが百年目。入荷したばかりの整理中で値札がなかったので,店員さんに恐る恐る値段を訊いてみる。ヤバイ,買えちゃう値段だ・・・。 木下杢太郎:「百花譜 百選」,岩波書店,1990(第2刷). (B4判変型・函入豪華版,定価24,800円) 外函に若干の難があるせいか(とはいえ鋭利な傷ではなく,上の本の重みでできた軽い凹み),発売当時の定価より大夫安く買わせていただきました。帰ってネットで調べてみると,岩波のHPでは「重版予定なし」とのこと。これはラッキーな買い物。中味は完全美本。状態もよいし,なにより色合いが美しい〜。ちなみにこれは正確には「本」でなく,100葉のスケッチの複製版です。これがまたよい。実はぽた郎は植物画好き。古今東西の植物画(本草図とかボタニカルアートとか)を集めるのはもはやライフワークですな。これも深き沼です。ハイ。 竹田聴州:「近世村落の社寺と神仏習合 丹波山国郡」,法蔵館,昭47(第1刷).(A4版・函入り,定価4,800円) こちらは定価よりうんと高く値が付いてました(しかも偶然にも上の「百科譜」と同じ値段)。まあしゃーない。最近のマイブームは「神仏習合」なんで,資料が欲しかったところ。帰ってネットで調べてみたら,国書刊行会から全集版の一部として復刻版が出てるらしいですが,これがベラボーに高い。他の古書店でも今回買った値段の2倍以上の値がつけられてたり,ということで,ちと高かったけど,やっぱり適正価格かも。さすが天牛さん。というわけで,衝動買いというにはちと高い出費だけど,久々により掘り出し物が買えました。しかし,この豪華本,どこに置くんや・・・,また本棚増やさなきゃ。そちらの方も深刻なモンダイ(笑)。 ...
1. book
potaro
2006-05-27T23:51:35+09:00
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博物館惑星,理想への漸近線
http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001164.html
SF小説はあまり得意な方ではないのです。あんまし好んで読む方ではないな。著名作家の著名作品を「教養」的に読む,という点では,私の中ではクラークもジョイスもアシモフもトルストイも全く同列なのです,すみません・・・(と誰に対して謝ってるんだか)。というわけで,あまりSFに愛がない私が「このSFはすごい!」と嬉々として声を大にしてもあまり説得力を持つわけではないというのは自分自身でも重々わかってますが,それでも言いたい。言わせてもらいます。管浩江の「博物館惑星」は凄い!・・・と。 ■管 浩江:「永遠の森 ー博物館惑星ー」,ハヤカワ文庫JA 何をいまさら・・・。この作品は既に2000年に星雲賞や日本推理作家協会賞などの数々の賞に輝いた(殆ど総なめにしたと言ってもよいくらい)当時相当に注目された日本のSF史上最も記憶に留められるべき秀逸な作品のうちの一つ・・・だそーです。どうもそうらしい,と正直に伝聞で書くくらい,ホンマにSFに疎いワタクシ。しかもこの本を手に取ったキッカケというのもぽた子さんがたまたま何の気なしに買ってきてそのへんに放置してあった本を文字通りたまたま手に取ったに過ぎない・・・というなんともトホホな経緯。ほんまSFファンの方スンマセン・・・。 しかし,読み手のポテンシャルの低さにもかかわらず,この作品は素晴らしい。世界観が美しい。控え目に泰然と,しかし憂いと苦悩も静かに甘受する,静謐で老成した世界。コンピュータに「直接接続」された特権者がこの世界で何を企てるのか? ギブソンや史郎正宗だったら,悪の組織の工作員や政府の特別捜査員といったところ。それはそれで,波瀾万丈血湧き肉躍る,清く正しいSF世界だろう(嗚呼,確かに。もはやサイバーパンクすらも「清く正しい」世界になってしまった)。そのような「血湧き肉躍る」強力な武器をひっさげて,管浩江的未来世界は何を企むか・・・というと,それが「博物館」。そう,博物館(美術館や植物園,動物園まである・・・まさに「博物館法」に則った正しい博物館)なのです。この発想,素晴らしすぎ・・・。誰がこんな発想しますか?フツー。そんなすばらしい能力持っちゃったら,フツー世界制覇の野望とか,悪に対する使命的正義感とかちゃうの? ところがこの世界の住人たちは,そんなごたいそうな動物的欲望には殆ど無縁で,ひたすら「美」と「人類の叡智」に奉仕するわけです。まさに植物的達観。事実,この世界では脳外科手術を受けネットワークに「直接接続」された異能の博物館学芸員たちが,ラグランジュ・ポイントの人工小惑星に建造された人類の理想郷とも言える壮大な博物館を舞台に活躍する。いや,「活躍する」・・・と言っても,ここが管ワールドのもう一つの魅力。これら異能の直接接続者たちは,その人類最高峰の技術と知識を手に入れながらも,日々,救いがたく官僚的な上司の愚痴を言い,解決不能な縦割り行政を恨み,殺人的な仕事量に忙殺され,己の無能さと理想との乖離に悩む・・・。とまあ,なんとも今日的でありがちな,身近で退屈な日常が淡々と続くのだ。なんという愚かで矮小な愛すべき人間たち! そして凡庸な日常の中に起こるたいしたことがない些細な事件・・・。これってホンマにSFかいな? 管浩江の世界観は,実は絶妙なバランスで成り立っている。テクノロジーに裏打ちされた近未来,人類の理想である美の砦,そして人間臭い繊細な心理描写・・・。それらどれか一つのファクターだけでも物語としては十分成り立つことは,管の精緻な筆運びからすれば一目瞭然。それはそれで独立した物語として成功させることも可能だろう。しかし,管は敢えてギミックなSF大作に盛り上げもせず,蘊蓄くさい美術談義にも陥らず,下世話な人情話にも惰せず,絶妙な成分配合で豊穣な世界を作り上げる。・・・理想的な世界? いやいや,主人公が盛んに愚痴をこぼすように,これはまだまだ理想の境地ではないだろう。幸福な「博物館惑星」を以てしても本当の人類の「理想」には到達し得ない。愛すべき登場人物達はみなそれを達観しているのかもしれない。しかし,一歩一歩理想に近づきつつあるこの世界に生きる彼らは凛々しく美しい。一歩一歩近づき,そのたびに遠ざかる理想。漸近線とは無限の彼方でも決してそれに到達し得ない哀しき目標なのだ。だからこそ,それでも理想に近づこうとする行為は崇高的なまでに美しい。それを具現する世界を構築する,美しく巧妙に設計されたこの装置,それこそが「博物館惑星」なのだ。その理想まであともう一歩,という美しい世界,それは理想的なまでに美しい。こんなSFがあったなんて。...
1. book
potaro
2006-05-23T23:12:50+09:00
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ギリシャ,プチ予習ちう。
http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001154.html
Καλησπερα! 来週からアテネです。いや,オリンピックじゃなくて(ってそれはトリノか)。いちおう仕事です,仕事。今回も会議でほぼ全日程カンヅメなんで,あんまし観光とか出来なさそうですが,地図で見るとアクロポリスとかアテネ市街のど真ん中にあるし(大阪城公園みたいなもんかな?)フラリと散歩にいけそうかも。今回は珍しくヒコーキもホテルも大夫前に取ったし,ロンリープラネットも買ったし,比較的旅支度は順調です。今回こそ直前にドタバタせずに済みそうかも(笑)。
3. music
potaro
2006-02-18T23:28:35+09:00
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公正な報道とは。
http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001153.html
三日連続,政治的な話題で恐縮至極。深夜の帰宅で深夜の夕食を食べながらネットニュースを見てたいら,堀江氏が逮捕されていた。ま,これについては多くの人が多くのことを語っているので(語るであろうので),ここでは多くは語るまい。ただ,ライブドア社の姿勢について,おそらくたぶん誰も指摘してくれないと思うので,とりあえず一言。【速報】ライブドア社長ら4人を逮捕 http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1657419/detail?rd 「逮捕はやむを得ない」 IRと会計専門の早稲田大学の花堂靖仁教授に聞く http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1657479/detail 1月23日のlivedoor動画ニュース(ライブドア関連ニュース - 「ライブドア社長ら4人を逮捕」「ライブドア 『お知らせ』を発表」「堀江氏逮捕受け 社内の反応」「堀江氏支援と捜査は『別問題』」「ライブドア株 売り止まらず」) http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1657868/detail 自社のトップが逮捕された報道機関というのはなかなかお目にかかれるものではないが,ライブドアは自社リソースのニュースの中で,自社の社長を指してちゃんと「堀江容疑者」と呼んでいた。当然と言えば当然だが,報道の公平性からすれば,これは立派。明日になったらニュースの洪水で隠れてしまうだろうが,その点はちゃんと評価してあげたい。ライブドアもこういう風に公平で公正な態度を地道に積み重ねて行けば,そのうち汚名返上することもあるだろう。それが「信用」というものだ。信用は,金では買えない。 ...
6. politics
potaro
2006-01-23T23:10:47+09:00
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情緒と合理,安心と安全
http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001152.html
昨日に続いて,もひとつオヤヂくさい説教を垂れてもよかですか。今,新聞やテレビをにぎわせているもう一つの「大事件」,牛肉輸入問題です。これについても,まあ一億総評論家状態で数多の意見が出されてますが,やはり,誰もことの本質を言い当ててない。そんな気がします。唯一,それを言っているのは,しかも以前から予見しているのは,伏木亨の『人間は脳で食べている』(註1)くらいなんじゃないでしょうか? 結局のところ,日本政府もマスコミも,それから肉食大好きの国民も,首尾一貫としていません。場当たり的に右往左往。自分たちが何を求めているのか,相手にどう求めて行けばいいのか,わかってません。そりゃあ国際問題,良くも悪くも政治的駆け引きもあるでしょう。でも,首尾一貫とした戦略がなければ,結局は相手の思うつぼ。他の外交問題も含め,戦略なさすぎ。とほほ状態です
6. politics
potaro
2006-01-22T14:42:10+09:00
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市場とは誰のものか?
http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001151.html
自分は株はやらないし,株のことを語るのもなんだかオヤヂ臭い(と思われそーな)んであまり好きじゃないのよ。しかし,なんでしょうかね,この昨今の狂乱は? 何かが狂ってないでしょーかね? テレビとかインターネットで百家争鳴の議論の中,誰もことの本質を捉えていないのは何ででしょうかね?(いや恐らく良心的な研究者などはそう言ってるんだと思いますが,残念ながらマスメディアにまでは声が届かないのかもしらんな・・・。)というわけで,マスメディア経由の発言ではなかなか掌を打つような発言が見あたらないので,我慢できずに自分で書いてみることにしました。経済の専門でもなんでもないシロート発言なんですが。やっぱりオヤヂの説教臭くなってしまいますが。
6. politics
potaro
2006-01-22T01:33:35+09:00
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日記を毎日書く人はエライ。
http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001141.html
明けまして(今更ながら)おめでとうございます。今更ながらの新年のご挨拶でございます。世の中には三日坊主という言葉もございますが,その三日間すら日記を書かなかったぽた郎は,さしずめマイナス三日坊主ということでしょうか(笑)。てゆうか,遡ってみたら,なんと8月以来この「形而上日記」を書いてませんでした。ありゃ〜。(x_x) 日記(ブログ)を書けてない,というのは,私にとって決して日記を書くことに飽きたとか倦んだというわけでは決してないのです。書きたいことは山ほどあるのですが,兎にも角にも時間がナイ,暇がナイ。日々あれこれ考え,あれこれ書きたいと思い,日々何かに追われ,流れて行く・・・。そんな繰り返しです。当初は書けない日記が流れて行くのにイライラしたり悶々としたりして,いっそのこと全部やめや〜っ!とも思ったりしましたが,最近は,ま,書けないのもしゃーない。細々とたまにポツポツと書くのもええやろ,それも定めか・・・とも思ってきました。 日記が書けないのは,何かに追われてるとき。何か,とはたいてい期日や責任が重くのしかかった差し迫った仕事。こういうときって,純粋に書く時間はあっても,精神的に書けないんですよね,一行も。以前は,〆切終わってホッと一息,さて日記でも書くか,という時間もあったのですが,去年あたりから,〆切連峰の峠の連続で,ホッと一息つく余裕もナシ。一息ついたらついたで,ほんまにボヘ〜っと放心モードで日記も書く余裕ナシ。そんな一年でした。多分今年もそう。とはいえ,このまま日記をフェードアウトしてしまうのも,なんか仕事人間になってしまいそうでイヤなんで,そうならないための最後の心の砦として,この日記も開店休業中ながら閉店せず,なんとか精神的安定を保っている今日この頃デス。 唐突ですが話は少々変わりまして,昔,ぽた郎が小学生のころ,アンネ・フランクの日記とかユンボギの日記とかを学校で読まされたわけですが,それを読んで目からウロコ,カンドーしました。がびーん。「日記って毎日書かなくてもいいのか・・・。」・・・そうです。日記は書けるときでいいのです。書けないときは書かなくてもいいのです。ぽた郎は幼いながらも,天啓のようにそう理解しました(笑)。それ以来,ぽた郎は日記を毎日続けて書くことが出来なくなってしまいましたとさ・・・。(ヲイ,それがオチかいっ) ま,そんなわけで,これからも,ダメダメ低空飛行ながら,ボチボチポツポツと気まぐれに書き続けて行きたいと思います。みなさま,こんな軟弱な日記ですが,もしよければ,今後ともよろしくお願い致します・・・。...
9. metaphysical soliloquy
potaro
2006-01-04T23:51:30+09:00
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ロンリープラネット主義!
http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001125.html
来月はアイルランド出張です。んで,先日,梅田に出てガイドブックを買ってきました。
1. book
potaro
2005-08-25T23:31:57+09:00
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高校野球なんて大嫌い
http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001134.html
まあなんというか,やっぱりね,という感想しか持ち合わせないのが世間一般の印象じゃないでしょーかねー,高校野球。 ・ASAHI.COM:駒大苫小牧野球部長、6月と8月に部員に暴力 謹慎処分 http://www.asahi.com/sports/bb/TKY200508220308.html ・Yahoo!ニュース:<高校野球>明徳監督が不祥事隠ぺいを弁明、被害者に金銭も http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050804-00000120-mai-spo こないなしょーもない事件ばっかし起きるんなら,もういっそのこと高校野球なんて一切やめたらどないですか。・・・な〜んていうと,真剣に野球やってる高校球児とか,毎年高校野球をホンマに楽しんではる人たちからオシカリを受けそーなんで,も少しマトモな案を出させてもらいます(笑)。 【案1】不祥事は厳罰。暴力事件は10年間出場停止。喫煙発覚は3年間出場停止。 一部の報道では,関係のない部員がかわいそうとかいう同情意見もあるようですけど,所詮野球は団体スポーツ。「関係ない」の一言で責任逃れできるもんちゃいます。特に暴力やいじめなんかは組織的に行われるのが殆どですし,見て見ぬふりなんぞ,それこそ清く正しい高校球児のやるこではありません。内部告発もどんどんOK。不正や悪行には目をつぶらず,この際,膿を出して貰いましょう。高校球児はあくまで全国青少年のお手本,監督や部長はあくまで世間の大人のお手本。それが少しでも守れない野球部はお家取りつぶし。一旦「伝統」をすべて放棄して,一から出直すんですね。だいたいプロ野球以上に戦力偏りすぎだし,不祥事起こした強豪校が淘汰されるのもスポーツ精神的には却って健全でええんとちゃいますか。あぶれた球児たちは地元に帰ってノーシードで甲子園目指したらいーんじゃないでしょーか。それが本来の高校野球というもんだよ。不祥事は10年間出場停止。それぐらい厳罰にせんと,暴力や違反の温床は直らんわな。 【案2】喫煙や飲酒の類は不問。ただし,丸刈りは禁止。 誰や,高校野球に精神性や神聖性を持ち込んだんは? そんなもんマヤカシや〜。高校球児だって所詮ヒトの子。そりゃあちょっとくらい酒や煙草もやりたくなるだろうし,やんちゃもしたいお年頃。そういう火遊びはフツーの高校生と同じレベルでガツンと学校で叱っといて,野球は野球でペナルティーなし。もちろん陰湿な暴力事件は司法に裁いてもらって下さい。それはそれ,これはこれ。選手には名実ともに野球に専念してもらいましょう。ただし,「さわやかな」とか「ひたむきな」とか「健全な」とかいうタワケた形容詞は使用禁止。全員丸刈りも軍隊調で権威主義的だから禁止。選手宣誓もいらんー。逆に茶髪やピアスやヒゲは解禁。野球がうまければそれでOK。もっと自由に伸び伸びさせたらええやん〜。それくらい割り切らんと。 さて,どないでしょう? タカラヅカじゃあるまいし,もう今ドキ高校野球に「清く正しく」を求めるなんて,ちゃんちゃらオカシイわ〜,というのは誰も口に出さんけど周知の事実。大本営発表ももうムリがたたって末期症状ですね。高野連も小手先ばっかりの処分だの改善勧告だのでお茶を濁さんと,どっちかハッキリ腹を括らんかい,ゴルァ。・・・と,そう思いませんか?>みなさん (^^)...
6. politics
potaro
2005-08-24T13:42:17+09:00
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ギュスターヴ・モロー展,死と眩暈の色彩
http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001133.html
フランス国旗の青・白・赤(トリコロール)は自由・平等・博愛を意味するが,ギュスターヴ・モローのトリコロールはさしずめ,死・性・血を象徴すると言えようか。モローの絵はそれほど,「死」のイメージに満ちている。青はくすめばくすむほど青ざめた精神や腐敗する死体を指し,冴えれば冴えるほど強力な毒をもつ鉱物を暗示する。赤はある時には煌びやかな虚飾の緞子(どんす)や宝石となり,ある時は文字通り首から滴り落ちるどす黒い血となる。そして,白は美しく理想化された裸体として象られるが,それは生き生きと躍動する肉体ではなく,裂けば赤い血が迸(ほとばし)りやがて青い腐敗が始まるのを約束された,儚くも美しい束の間としての「生=性」の容れ物に過ぎない・・・。例えば,「出現 L'Apparition」,あるいは「ケンタウロスに運ばれる死せる詩人 Poête mort porté par un centaure」を見よ。現実の生から一切目を背けた病んだ精神が生み出す閉じた幻想世界。「死」に彩られた過剰な色彩の世界は,我々の脳裏に焼き付いて容易に離れない。それが故に,我々はモローの織りなす宇宙に畏怖と眩暈を覚えずにいられないのだ,まるで美しい死神に魅入られたように。 【註】リンク先の画像は Bunkamura ザ・ミュージアム ギュスターヴ・モロー展のサイトの一部です。...
4. art & craft
potaro
2005-08-22T23:50:48+09:00
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幼少の砌,クラシックなぞ・・・。
http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001131.html
自慢じゃないけど,ぽた家(=ぽた郎&ぽた子)はいわゆるクラシック音楽のCDをほとんど持ってません。枚数にして20枚くらい。所有音盤全体からするとわずか1%程度。少なー。(ただし,ぽた郎の超極私的定義でバッハ以前とウェーベルン以降は「クラシック」としてカウントしておりませんのでご了承を(笑))でもって今日は実家に泊まってるんで,ぽた父のクラシック・コレクションを PowerBook の iTunes にガバガバ焼いてます。久々にちゃんと聴くクラシックは悪くないな〜,うん。インバルのマーラーはアッサリしてて繊細で美しい。ヨーヨーマは若い頃より音がエッチになってきたよね〜。渡辺暁雄+日本フィルのシベリウスなんて最高。シベ7なんて涙なしには聴けないよー。ぎゃぼー。 で,写真はぽた郎が幼稚園から小学生のころよく聴かされていた(自分から好んで聴いていた)「子供のクラシック」というLP全集。まだ実家にありました。すごい。最近ぽた郎妹に子供が生まれたんで,ぽた郎父は親バカならぬジジバカでこれを赤ちゃんに聴かせてるのですと。赤ちゃんにLPを聴かせるとは,これまた渋い。デジタライズされたCDやMP3の音を聴かせるより情操教育にはよさそう。でも子供のころからクラシックばっかり聴かせ続けると,大人になってクラシック嫌いになっちゃってジャコパスとかイーノとかはにわオールスターズとかそんなんばっか聴く偏った人間になっちゃいますよ・・・(ん?誰のこと?)。ご利用は計画的に。クラシックはほどほどに。 【註】この記事は「はてな日記」に書いたものをコチラに移動させました。...
3. music
potaro
2005-08-20T23:57:44+09:00