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June 19, 2006 | 神仏習合(其之二):丹生と金剛,ミイラと空海
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イキナリ神仏習合とはちょっと話題が逸れるけど,さっそく閑話休題すんません。浮おじさんのとこで丹生(硫化水銀)のことが話題になったので,そーいえば,と早速気になる本を取り寄せて読んでみました。
■松田壽男:「古代の朱」, ちくま学芸文庫, 筑摩書房 (2005).
原始日本人が使ったアカ色には二種あった。一は水銀系のアカ,つまり硫化水銀 (HgS)。一は鉄系のアカ,すなわち酸化第二鉄(Fe2O2)である。水銀系のアカが(中略)純粋のアカ色を呈するのに,鉄系のアカはベンガラといわれ,やや黒ずんで紫色に近い。この鉄系のアカは古く「そほ」といわれた。古代の日本人は漢字を学んで「赭」という字をあてた。これにたいして水銀系のものは「まそほ」,つまり正真正銘のソホであるとし,「真赭」と表現されている。のちに,おそらく天平時代と推測されるが,鉛系のアカができた。科学的にいうと四酸化鉛(Pb3O4)である。一般に鉛旦(えんたん)といわれた。鉛旦はまた黄旦(こうたん)と書かれているように,赤と黄の中間で,俗にいうミカン色である。うーん,うっとり(笑)。こういう文章を読んでるとシアワセになりますねぃ〜。これぞ人文科学と自然科学の幸せな結婚。事実,古代のハイテク技術である金属鋳造と当時の知識のアーカイヴである社寺って,実は切っても切り離せない関係なのです。例えば八幡信仰と銅,金屋子神社と鉄,金山彦神と金・・・,そしてその背後には渡来系の技巧集団と武器と戦争と政治が,あるいは大事故と人身御供と祟りと怪談が・・・。このあたりを追ってくと,ホンマに奥が深そうで現実に戻ってこれなくなっちゃうかも。
さて,神仏習合。空海が開いた高野山・金剛峯寺と丹生都比売神社は神仏習合の好例としてあまりにも有名ですが,著者は,この高野山と丹生都比売神社の関係を面白いモノで結びつけています。・・・それは,ミイラ。即身成仏です。
日本製のミイラにまつわるいちばん大きな謎は,日本の風土が湿潤であって,ミイラの製造にはもっとも適していないという点である。それにもかかわらず,現在までミイラはたくさん残っている。死臘のばあいはいざ知らず,ミイラとなると,何らかの手段が加えられているのにちがいない。そこに私は水銀のもつ防腐作用を考える。うーむ。なるほどー,やはりそうだったのか。東大寺大仏殿を建立したときも宇佐八幡神が勧進されたけど(こちらは銅に関係する技術神。このハナシもいずれまた後日書きたいと思います),金剛峯寺の縁起もやはり技術神系の神と深い関連があったのですな・・・。
だいいち,空海が真言宗の本拠と定めた高野山は,全山が水銀地帯である。高野山の壇上,つまり中心地には丹生,高野の両明神の社がある。また空海の墓側にも,墓を護るかのように両明神が祀られている。高野明神は高野山の地主神であるが,丹生明神は後述のように水銀の女神にほかならない。
・・・(中略)・・・
たんなる高僧としてだけでなく,空海は,学者として知識人として平安朝第一の人物であった。彼は中国に渡って専門の仏教をより深めたことはいうまでもない。その上にいろいろな学問を身につけ,いろいろな新知識を日本にもち帰った。水銀の薬物としての性能を巧みに応用して,中国人が不良長寿の薬として珍重した丹薬の製法も,また水銀を死屍(しし)に注入すれば防腐剤として作用する事実も,みな空海によって日本に輸入されたと考える。(中略)空海自身が弘仁七年(816年)に高野山を開基したのも,水銀に関係あり,と私はにらんでいる。
神様仏様,と今日の我々は「別の宗教」として八方美人的に節操なくお参りしているように見えますが,実はやはり,この二つの宗教は単純に「二つ」とカウントできないほど,根っこのところで深く深く結びついているのです・・・。我々ノ文化ハ斯ク形成サレタリ。誰や?神と仏をムリヤリ離婚させたんは? 蓋し,神仏習合の迷宮は深く愉し。今宵も深い沼にズブズブ・・・。
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June 08, 2006 | 神仏習合(其之一):権力ヨリ強要サレタル信仰ニツイテ
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統計上では,日本の宗教人口は二億人を越えると言われている。なんと人口の二倍。つまり,日本に住んでいる多くの人は,神様も仏様も両方拝んでいる。それでなんら不思議に思ってない。こんな奇っ怪な国(あるいは文化)は他にはそうそうない。そんないい加減でテキトーでほほえましい日本が,私は大好きだ。
「神仏習合」とは,一般には明治初年の神仏分離令以前の中世の宗教形態を指すが,そもそも「習合していた」という表現はいったん強制的に「分離された」後の状態である現代の我々から見た形態であって,当時の当事者(民衆,僧侶,神職)たちの多くは,「習合している」ことすら無自覚であったであろう。現代でもそんな無自覚で無意識的な,そして知らずのうちに権力の暴力的な手からするりと軽やかにすり抜ける,慎ましくも逞しい民衆の息づかいが,確実に残っている。そんな路地裏の小さな日本が,私は大好きだ。
■安丸 良夫:神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈, 岩波新書 (1979).
・・・神社改めは,明治三年ごろから各地でおこなわれるようになったらしい。氏神と村との結びつきは,村の成立そのものに由来する長い伝統をもっていたが,それまで,氏神は一村に一社とはかぎらなかったし,氏神の神体が仏像であるばあいや,氏神というより氏寺といったほうがふさわしいものも少なくなかった。さらに村の氏神(産土<うぶすな>社)のほかに,各家や同族団に氏の神があるばあいもあり,それ以外にも多くの小祠もみられた。引用長文にて恐縮至極。しかし,現在我々が「日本の古き良き伝統」と呼んでいる神道および神社が,明治黎明期に相当な強権と混乱を以て「人工的に」巧妙に歴史を塗り替えた,ということに自覚的な日本人は少ない。もちろん,明治以前にも神道なるものは存在したが,(実はここが重要な点であるが)それまで平安・鎌倉時代から連綿と続いていた「伝統的な」神道(例えば吉田神道,両部神道,山王神道など)は明治初期に完全に断絶してしまい,江戸末期に突如として興った「新興宗教的な」神道(本居宣長,平田篤胤を源とする国学→国家神道)に完全に駆逐された,という事実を知っている日本人も非常に少ない。
こうした多様な神仏関係から,国家によって神社祭祀が体系化されたとき,村の氏神(産土社)だけが選びだされ,しかも,氏寺や仏像を排して,一村一社の神道式の氏神の成立が目標とされたのである。(中略)こうして,村々に祀られていた多様な神仏のなかから,産土神だけが浮上してきて他を抑え,いま私たちが村や町で見るような氏神が成立した。私たちが神社の様式としてごく自然に思いうかべてしまう鳥居,社殿,神体(鏡)や礼拝の様式なども,その大部分は,こうした国家の政策を背景として成立したものであった。
・・・(中略)・・・
廃藩置県によって集権国家樹立の基礎を固めた明治政府は,四年以降,近代国家体制樹立のためのさまざまの政策を推進した。伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系は,一見すれば政教一致という古代的風貌をもっているが,そのじつ,あらたに樹立されるべき近代国家体制の担い手を求めて国民の内面性を国家がからめとり,国家が制定する規範と秩序にむけて人々の内発性を調達しようとする壮大な企図の一部だった。そして,それは,復古という幻想を伴っていたとはいえ,民衆の精神生活の実態からみれば,なんらの復古でも伝統的なものでもなく,民衆の精神生活への尊大な無理解の上に強行された,新たな宗教体系の強制であった。 (下線部はぽた郎による)
某国の某総理大臣が某神社に私人だか公人だかよくわからない状態で参拝を強行し,やれ愛国心だの古き良き伝統だのを喧伝している。ま,それぞれ信念なり戦略なりはおありだろうから,ここでは政治的観点からはとやかく言わないが,上記の明治期の宗教史上あと戻りできない大きな断絶の文脈の上でその行為を俯瞰すると,甚だ胡散臭くかつ滑稽な行為としてしか捉えることができない。どうやらこの国では,総理大臣や官房長官が参拝するピカピカの神社にお参りしないと国を愛すことにはならないそうだ。しかし,それより,路地裏や辻にひっそりと佇む神や仏(あるいはそれすらも判じ得ない名も無きもの)に,私は愛着を感じぜずにおれない。それではこの国や文化を愛することにはならないのだろうか?
(神仏習合の深い森は,広大かつ豊穣で,興味が尽きない。これからしばらく,シリーズで続けようかと思います。)
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January 04, 2006 | 日記を毎日書く人はエライ。
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明けまして(今更ながら)おめでとうございます。今更ながらの新年のご挨拶でございます。世の中には三日坊主という言葉もございますが,その三日間すら日記を書かなかったぽた郎は,さしずめマイナス三日坊主ということでしょうか(笑)。てゆうか,遡ってみたら,なんと8月以来この「形而上日記」を書いてませんでした。ありゃ〜。(x_x)
日記(ブログ)を書けてない,というのは,私にとって決して日記を書くことに飽きたとか倦んだというわけでは決してないのです。書きたいことは山ほどあるのですが,兎にも角にも時間がナイ,暇がナイ。日々あれこれ考え,あれこれ書きたいと思い,日々何かに追われ,流れて行く・・・。そんな繰り返しです。当初は書けない日記が流れて行くのにイライラしたり悶々としたりして,いっそのこと全部やめや〜っ!とも思ったりしましたが,最近は,ま,書けないのもしゃーない。細々とたまにポツポツと書くのもええやろ,それも定めか・・・とも思ってきました。
日記が書けないのは,何かに追われてるとき。何か,とはたいてい期日や責任が重くのしかかった差し迫った仕事。こういうときって,純粋に書く時間はあっても,精神的に書けないんですよね,一行も。以前は,〆切終わってホッと一息,さて日記でも書くか,という時間もあったのですが,去年あたりから,〆切連峰の峠の連続で,ホッと一息つく余裕もナシ。一息ついたらついたで,ほんまにボヘ〜っと放心モードで日記も書く余裕ナシ。そんな一年でした。多分今年もそう。とはいえ,このまま日記をフェードアウトしてしまうのも,なんか仕事人間になってしまいそうでイヤなんで,そうならないための最後の心の砦として,この日記も開店休業中ながら閉店せず,なんとか精神的安定を保っている今日この頃デス。
唐突ですが話は少々変わりまして,昔,ぽた郎が小学生のころ,アンネ・フランクの日記とかユンボギの日記とかを学校で読まされたわけですが,それを読んで目からウロコ,カンドーしました。がびーん。「日記って毎日書かなくてもいいのか・・・。」・・・そうです。日記は書けるときでいいのです。書けないときは書かなくてもいいのです。ぽた郎は幼いながらも,天啓のようにそう理解しました(笑)。それ以来,ぽた郎は日記を毎日続けて書くことが出来なくなってしまいましたとさ・・・。(ヲイ,それがオチかいっ)
ま,そんなわけで,これからも,ダメダメ低空飛行ながら,ボチボチポツポツと気まぐれに書き続けて行きたいと思います。みなさま,こんな軟弱な日記ですが,もしよければ,今後ともよろしくお願い致します・・・。<(_._)>
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June 05, 2005 | テレビには時間どろぼうが棲んでいる。
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少し前に,おのひろきさんや@nakさん,いっとくさんのブログでテレビの功罪に関する発言がありました。ざっくり分けるとおのさんがテレビ不要派,@nakさん,いっとくさんがテレビ受容派,という感じでしょうか。これだけだとテレビ不要派が少ないので,私も「どちらかというと不要派」として参戦することに致します(笑)。
ぽた家はもう10年来,基本的にテレビがない生活をしてます。ぽた郎自身は15年来くらいかな。正確にいうと,7〜8年前までは家に当時としてはでっかい25inchのテレビがありました。これはぽた郎が学生時代,レンタルビデオで映画を見まくっていたので必需品だったからです。テレビは殆どみませんでした(いや,ウゴウゴルーガとか,ヘンな深夜番組は観てたかな(笑))。ぽた子さんと一緒に暮らし始めてからも殆ど定期的にみる番組もなく,テレビがジャマなので(本と自転車にそのスペースを侵略された),押し入れにしまわれてしまう始末。引っ越し前,ちょうどリサイクル法施行直前を期に廃棄処分にしました。現在はテレビ・コンバータを買って,旧iMacに繋いでたまーに見る程度です。ちなみにテレビ・コンバータを買った理由は,前回のワールドカップを見るためでしたが(意外にミーハー(^^; ),最近はサッカーはパブで見た方が断然楽しいということを発見。ますますおうちでテレビ,という必需性が失われていきます。去年はぽた子さんが語学番組に凝っていたののと,ぽた郎のお気に入りのアニメがあったので,毎週定期的に見ていましたが,それでも日平均にしたら30分未満。今は二人とも忙しくなって(特にぽた子さんは語学番組の女の子のキャラが好みではなくなっちゃったとい超個人的なしょーもない理由で),またまたぱったりとテレビを見ない生活に戻ってしまいました。二人とも,完膚無きまでに「テレビなくても全然OK派」です。
さて,最近ぽた郎は2週間入院をするというあまりめったにない体験をしましたが,いろいろ新鮮だった体験のうち,非常に印象に残っているのが,やはり「テレビ」です。テレビを普段見ない人間にとって,テレビというのは非常に五月蠅い。まさに文字通り五月の蠅のように不快な電波を放出しまくってます。まず,音がうるさい。談話室で聞きたくもないのに聞かされるというのも苦痛ですが,自分のベッドの上で必要に迫られて(JRの脱線事故があったので職場と連絡を取ったり情報収集してた)観ているときも,イヤホンから流れてくる音が非常に五月蠅い。長時間は耐えられない体になってます。それから,光が五月蠅い。消灯後,カーテンを閉めてテレビを観ている人も多いのですが,天井やカーテン越しに写るヒステリックに明滅する光が五月蠅い。おもわず,ああ,あれが直接目に入ってるのか・・・,どう考えても目にいいわけはないよな・・・と頷いてしまいます。テレビという箱を端から冷静に眺めると,やはりどうしても非常に奇異な装置に見えてしまいます。
もちろん,テレビそのものあるいはテレビから流れるコンテンツが全て悪で全て不要,というわけではありません。私は映像文化は非常に好きですし,気に入ったものは自分から積極的にお金を払ってでも入手します。テレビでも非常にいいもの(「いいもの」の定義は非常に難しいので,ここでは「私にとっていいもの」程度にしておきます)が少なからず存在することは知っています。ですから,ぽた家としてはテレビをまったく排除する選択肢はあまり取りたくありません。かといってリビングや居間の正面にでーんとテレビを配置し,生活の全面に出てきてもらうのも好みではありません。というわけで,その一つの解決法として,押し入れにしまって必要なときにゴロゴロだしてくる,とか,テレビコンバータにして必要な時に立ち上げる(iMacはもはやコンバータ専用機なのでそれ自体を立ち上げるのに時間がかかる),とか,少々面倒な作業をワンクッションおいておくという方法に,ぽた家はなんとなく落ち着きました。どーしても観たい番組があれば,手軽に手元のリモコンをプチ・・・というのではなく,いくつかの面倒な起動作業を経て,それでも面倒くさくなければ観る。そんな感じです。(その結果,今現在は全く観ない日々が続いてますが・・・。)
ちなみに,テレビに対して消極的,という点ではおのさんに味方しますが,一点だけ,意見の異なる点があります。それはCMです。私はテレビ文化の神髄はCMにあると思ってます。CMなくしてテレビなし。CMには秀逸な映像多し(最近のはよく知りませんが・・・たぶん)。NHKもCMすればいいのに・・・とさえ思ってます(余談ですが民放の番組が低俗化しやすいのはスポンサーからお金を貰っているせいではなく,視聴率を過剰に気にするからです。翻ってNHKもある程度民間からお金を貰わないと,そのぶん国家に過剰に依存することになりかねないと私は思います)。もし一日中CMばかりやってるテレビがあったら・・・,それこそ私は「積極的に」テレビを観ちゃうかもしれません。(笑)
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February 11, 2005 | 弱きもの,汝の名は悪魔なり
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物騒な凶悪犯罪が起こる昨今,迂闊に「悪魔」を擁護する論を張ると,ややもすると大な誤解と偏見を被りかねない。ここは慎重に行こう。ここでは,ひとまず,「悪」と「悪魔」の相関性は置くとする。確かに悪魔は悪を犯すかもしれない。しかし,「悪魔」と呼ばれる必要十分条件は「悪を犯すこと」ではなく,「神に悪魔と呼ばれること」なのだ。それに過ぎない。前回のミトラ神を追って,深い本の森に分け込んでしまった。迷うがままに彷徨ってみよう。以下,またしても恐縮だが,長々と引用。
■J.B.ラッセル(野村美紀子訳):「悪魔 古代から原始キリスト教まで」,教文館 (1984).
反対物の共在は天界の戦いという概念によって表現されることがある。しばしば一群の神々が若い世代の神々によって位を追われ,悪とみなされるようになる。キリスト教徒はギリシアとローマの神々からデーモンを作った。オリュンポスの神々はティーターンを有害な霊に変え,テュートン人の神々は巨人族を征服した。インド=イラン人の宗教にははじめ二組の神々がいた。アシュラ(インドではアシュラ,イランではアフラ)族とデイヴァ,またはディーヴァ族である。イランではアフラ族がディーヴァ族を征服し,アフラ族の指導者が主神アフラマズダ,光の神になった。ディーヴァは悪霊の地位を与えられて,闇の王アーリマンの手下になった。インドではディイヴァ族がアシュラ族を倒した。ある意味ではインドで起こった結果はイランの場合の反対だが,深い意味では,起こったことはきわめて近い。一群の神々が他の神々に征服されて全体として悪霊の地位へ逐いやられたのである。(中略)「神」と悪魔は永劫の昔から存在し,力を合わせてきた。あるいは両者は兄弟である。あるいは「神」が悪魔を創造する。あるいはさらに近い関係で「神」が悪魔を生む,あるいはみずからの本質から作り出す。
(中略)
ヘブル人ははじめ,ヤーウェが神なる原理の唯一の顕現である,と主張した。かれらの神は「神」になった。だがかれらは自分たちの唯一の神が可能な限り至善であることを欲した。こうしてかれらは暗黙のうちにまた無意識に,「神」の悪の面を善の面から分離して,善の面を主,悪の面を悪魔とよんだのである。それでもかれらの宗教の原理は本質的に一神論だったから,かれらはふたつの別々の原理の措定の前では踏みとどまらねばならなかった。そのため悪の精神である悪魔は変則的な地位にとどまることになった。一方では悪魔は悪の作り手であって,悪魔が存在することによって主は世界に存在する多数の悪に対する直接の責任を逃れた。その一方で悪魔は独立の原理ではなく,主の被創造物,さらには僕であるとさえされた。この変則性が潜在的な一元論と二元論との緊張を生むことになった。悪魔は旧約聖書ではめだつ存在ではなかったが,外典,黙示文学,新約聖書ではおおいに発達した。たんにつまらない迷信の添加などということではなく,悪魔は「神」自身のうちから生じたのであり,善の主の対をなす存在,双児の一方であり,神の影なのである。(下線部はぽた郎による)
■ジョルジュ・ミノワ(平野隆文訳):「悪魔の文化史」,白水社文庫クセジュ (2004).
そもそも,多神教は悪魔をそれほど必要としてはいない。それもそのはずで,数多の神々が存在するところお互いが牽制しあい競合関係が生まれるのは必定であり,しかも,こうした神々は,利害に応じて善人にも悪人にもなりうる曖昧な存在であるから,それだけで悪の存在を説明するに足りうるのである。一神教はこれとは正反対で,悪魔なしでは立ち行かない。唯一神である限り,その神がすべての源とならざるをえない。つまりは,善のみならず悪の源泉にもなってしまう。この大問題を回避する方法は一つしかない。すなわち,悪の存在を説明できる逃げ口上を,なんとか見つける以外にない。この逃げ口上がまさしく悪魔であって,これ以上に解決法は見当たらない。ただし,全能者の創造した世界を,なぜより劣った存在が混乱せしめうるのかを,まだ説明する必要は残されているが。
神は「絶対者」に近づけば近づくほど,より強力でより善良,かつより普遍的になるが,同時に,神にとって悪魔の存在は,もはや必要不可欠なものにならざるを得ない。悪魔の概念が,キリスト教という宗教において,最も高い完成度にまで練り上げられた理由も,この辺りに求めうるだろう。逆説的なことに,サタンのみが神を救いうるのである。サタンのおかげで,現世における理不尽な肉体的・精神的苦痛を説明することが可能となるからだ。もし,このサタンがいなければ,全能にして無限に善なる唯一神なんぞを,一体誰が一瞬たりとも信じるであろうか。完璧なはずの神が,これほど悲惨な世界しか作れないのだから,当たり前の話である。ジョン・ウェスリー(1703〜91年:英国の宗教改革者。メソジスト派の開祖)の喝破した通りで,「悪魔なくして神なし」ということに相成る。もちろん,逆も真なりであって,いわば,このカップルに別れ話はありえない。
(中略)
・・・すべての一神教は,実は偽装した二元論にほかならない。悪の神が下位にることを信じて貰おうとして,どんな言い訳をしたところで,この本質は変わらない。大抵の場合,至高の神という不公平な審判者を措定して,善に軍配を上げようとするのである。ユダヤ=キリスト教という一神教もまた,この枢要な問題に直面せざるをえない。すなわち,一体いかにして,悪の敵すなわち善なる唯一神の全能と,悪の執拗なる存在とを,両立させうるのか,という問題にである。(下線部はぽた郎による)
秀逸な批評の引用のあとには,多くを語るまい。とはいえ,ちょっとだけ蛇足を。(イブに知恵を与え賜うた楽園の蛇も足があれば疎んじられなかったろうか?) 「悪魔」とは「悪」を成したかどうかが問題ではない。「神」から烙印を捺された者がすなわち「悪魔」なのだ。そして,神は己の意のままにならない者には烙印を捺したがる。「神」を「合衆国」あるいは「ブッシュ」と,「悪魔」を「イラク」あるいは「フセイン」と置き換えて見よ。まるでかの国の国務長官(おそらく大天使長に相当するのだろう)の就任演説である。「神」はうっかり倒してしまった「悪魔」を懐かしみ,己の地位を守るために新たに「悪魔」を探すことに躍起になるよりほかはない。もちろん,「悪魔」に安易に同情するのは禁物であるが,「悪魔」=「悪」と直情的に結びつけるのは,それこそ「神」の思う壺ではないだろうか? 「神」からも「悪魔」からも離れて,怜悧な理性の目を以て物事を見よ。歴史は,そして宗教学は,そう教えている。
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February 06, 2005 | ミトラ君の大冒険,あるいはシンクレティズムとメタモルフォーゼ
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少し前になるが,Qyouさんのブログのコメント欄で,ミトラ教の変遷についてにわかに盛り上がった。それ以来,ふつふつと思いを巡らしている。ユーラシア大陸の神々のメタモルフォーゼとシンクレティズムについては,学生時代にミルチア・エリアーデにハマって宗教学関係の本をだいぶあれこれ読みあさったものだ(と言っても系統立てて勉強したわけではないのであくまで乱読)。久々にぽた家書庫の宗教学関連書をひっくり返してみる。以下,備忘録的に抜粋。
■岡田明憲:「ゾロアスター教 神々への賛歌」,平河出版 (1982).
このヤシュト(ぽた郎註:ゾロアスター教の賛歌のうちのひとつ「ミフル・ヤシュト」のこと)の献ぜられるミスラは,ヴェーダ神話ではミトラの名をもってインド・イラン起源の重要なる神格であるばかりでなく,キリスト教以前のローマ帝国において国教的地位を占めたミトラ教の主神でもある。さらに矢吹慶輝博士以来,仏教の阿弥陀仏の起源に関係する事は我国でも何回か言われており,さらに最近では,この神を仏教の弥勒に関連づける見解が有力である。このように,宗教史の研究においては,このミスラの位置は非常に重要なものがある。
ヴェーダのミトラは,ヴァルナと共に双神としてアーディティア(光明)神群の主神である。そして本来の正確は天空神であった。ただヴァルナの夜天に対して,ミトラは昼天だったと考えられる。ザラスシュトラ(ぽた郎註:日本ではゾロアスターあるいはツァラトストラとも表記)自身は,ヴァルナをミトラより切り離してアフラ・マズダーとしてその主神に据えたのに対し,ミトラ=ミスラを無視している。これはガーサー(ぽた郎註:宗教改革者ゾロアスター自身の説教)を見れば明白である。そして,この双神たる位置より切り離されたるミスラは,次第に太陽神と同一視されて,民衆の間にこの神に対する信仰が盛んになっていった。
■岡田明憲:「ゾロアスター教の神秘思想」,講談社現代新書 (1988).
ユダヤ教の個々の天使が,ゾロアスター教の天的存在の中の特定の何と関係するのかということは,いまだ不明な点も多い。しかし,はっきりと,その関係を指摘できるものもある。その一例として,この世を主宰するユダヤ教の天使,メタトロンと,ゾロアスター教のミスラの関係について述べよう。メタトロンは天使たちの王とも称され,小ヤーウェとさえ言われる。すなわち,彼は神自身につぐ権力の所有者なのである。否,彼は,しばしば,神自身にも匹敵する存在と考えられた。メタトロンの住居は神の住居である第七天とされ,タルムードの賢者アヘルは,この天使を二番目の神としたゆえに異端者となる。
ゾロアスター教のミスラは,古くは,アフラ・マズダーと並ぶ神格であった。ゾロアスター自身は,ミスラ崇拝を拒否してアフラ・マズダーを唯一の最高神としたが,イランの一般民衆の間では,ミスラ信仰は盛んであった。そこでゾロアスター教は,イランの民衆宗教として確立する過程で,このミスラ信仰を自己の中に取り入れざるを得なかった。
(中略)
ミスラの正確には,メタトロンとの類似を見いだせる多くの点がある。ミスラの語義は「契約」であり,彼は契約の守護神とされる。メタトロンも契約の守護天使であり,神と大地が人間の貸与にあたって取り交わしたとされる契約書は,メタトロンの手になるものである。またメタトロンは背が高いことで有名だが,ミスラも,先述のヤシュトで「丈高き者」と称される。
メタトロンが夜警にたとえられるのは,ミスラが眠らずして常に人を監視するとするのに共通する。監視者としてのミスラに関係して,彼は「万の眼を持つ者」と言われる。ユダヤ教の伝説にも,エノクが天界に引き上げられて,無数の眼を備えたメタトロンになったとする説がある。さらに,メタトロンの顔は太陽のようであるとされるが,ミスラもしばしば太陽神と同一視されるのである。
■井本英一:「死と再生 ユーラシアの信仰と習俗」,人文書院 (1982)
イランのミトラ(ミスラ)は山岳の頂上で祭壇をもうけずに祭られ,マゴス僧(ぽた郎註:ヘロドトスの表記でゾロアスター教の僧侶のこと(だと思いますたぶん・・・))は(牛の)犠牲を屠り,神々の誕生を歌った。のちにそれは女神アナーヒターと合祀された(ヘロドトス『歴史』1・131-2)。ゾロアスター教の聖典『アヴェスタ』ヤシュト10章にも契約神ミスラが高山の山頂にいて善悪両面を持ち,両軍の戦場の中間にあって請われた方に味方するとある。またミスラは終末の戦闘に現れて善者に味方するが,また牛の主として広大な牧地の所有者とも呼ばれる。
この軍神的な正確がローマ兵に受け入れられ,かつては西はロンドンにまで伝播したミトラス教では,ミトラスは(山頂の)岩あるいは河岸のイチジク樹の下の岩の洞穴から松明を手にして暗闇を照らしながら生まれた。ミトラスは,牡牛を洞穴に引きずり込み殺害する。牛の血や四肢から有用植物や動物が生まれ,牛の精は動物の守護者になる。
(中略)
ミトラス教ではミトラスはイチジク樹下の岩から生まれるが,弥勒は竜華樹下でゾロアスター教の救済者サオシヤントと同じように三たび出現す樹,生命の水,境界石(洞穴)の表象が顕在的にも潜在的にも両者に見られるのである。一生補処の梵語エーカジャーティ・プラティバッダの意味は「(死のない)生のみにつながれた」であり,『法華経』などでは最終身と訳しているが,ゾロアスター教のメシア思想と同じ構造を持っていることは注目に値する(『旧約』のメシア思想はゾロアスター教の影響とする学説が一般的である)。
(中略)
『中阿含教』所収の「説本経」には,俗世と聖世の弥勒の二つの別がある。(中略)このように仏教ではかなり薄れてしまったとはいえ,弥勒に二面性があることがまだうかがえる。阿夷多(ぽた郎註:原文では「多」は「口へん」に「多」)や阿逸多は梵語アジタの写音で,無能勝と訳されているが,これはミトラス教の太陽・無能勝ミトラスと契合する。ちなみに,太陽はインド・イランにおいてもミトラの持つ属性の一つで,夜光燦然,暗闇を照らすなど別の形で表現されることがある。『当麻曼荼羅縁起』には曼荼羅の糸を染めた染井や役行者の植えた桜樹,また夜々光を放つ弥勒の形をした巨石が出てくる。
■宮田登:「ミロク信仰の研究 新訂版」,未来社 (1975).
仏教における弥勒の正確については,その研究の成果(ぽた郎註:高取正男,宇井伯寿らの研究)が以下のように語ってくれる。すなわち弥勒の語義はサンスクリットのマイトレーヤの音訳である。本来の原義は古いインドの伝統的な神格ミトラである。ミトラ神は『ヴェーダ』に現れるところでは,インド,イラン,さらにギリシャからエジプトにわたる地域に知られた一種のはやり神であって,契約とか約束の意味を示すものであるという。
こうした意味を持つ名,つまり弥勒という名の男が仏陀釈迦の弟子の一人にいて,彼はきわめて天才であったというが夭折した。釈迦の初期の教団内部で卓越した存在であった弥勒は,人々の間で永く記憶に留められ,やがて伝説化するに至った。かくして将来の仏陀として理想化された弥勒の説話がさまざまに説かれるようなったのである。
(中略)
八重山のミロク踊については,その伝来について次のような云い伝えがある。
寛政三年(1791),黒島首里の大浜用倫が上国の帰途逆風にあい,安南に漂着した。安南では当時豊年祭で弥勒仏が出ていたのを見て,弥勒面を乞うて帰途についたのだが,所用のため,随行の百姓新城筑登之に,自作の弥勒節を付してその面を託した。用倫は客死したが,筑登之は,歌と面と衣装を持ち帰った。これがそもそものはじめという。
芸能化したミロク踊りが整った時期に関してはおそらく右の伝承は歴史的事実に基づいているといってよいのかも知れない。そして布袋の弥勒面の伝来も,あるいはそうしたきっかけによるのかも知れない。しかし,ミロク踊が,近世中期に安南から伝播したが故に,これをまったくの外来要素とする理解の成立しがたいことは,今まで述べてきたことから明らかであろう。弥勒面といってそれが布袋のことであるのは,中世以来よく知られたことであった。『十訓抄』に,「布袋和尚は弥勒の所作なり」とする布袋は,中世末期,京の町衆の間で,福神の一つとしてもてはやらせていた。
(中略)
布袋に体現された弥勒は,巷間にあって,民衆と交わる,いわば日本の宗教社会における隠身の聖ごとき存在であったことが推察される。長汀子=布袋の伝説は,唐末の混乱期に顕在化した民衆の弥勒下生待望の一表現と見なされよう。
■J.B.ラッセル(野村美紀子訳):「悪魔 古代から原始キリスト教まで」, 教文館 (1984).
ローマ帝国にもっとも広く普及したのは,キリスト教を別にすればミトラ教だった。これはイランのマギ教(ぽた郎註:ここではゾロアスター教およびその派生宗教のことを指す)の教義と豊穣の思想とを組み合わせた宗教で,ミトラ教の中心となる神話によれば,世界の原理はアイオーン,無限の時間である(ズルヴァンと考えあわせよ)。アイオーンからオールマズドまたはユピテルという名の男性原理である天,スペンタアルマイティまたはユーノーという名の女性原理である大地,プルートンまたはハーデスとおなじとされた地下の霊アーリマン,が生まれる。(中略)戦いは永く続くが,アーリマンの威力がしだいに大きくなり,人類は次つぎにその支配下にはいって,ついにアーリマンがこの世の主にある。だが世界滅亡の直前に,原始の雄牛の再来である巨牛があらわれ,ミトラが降ってアーリマンとその軍勢を相手に最後の戦いを挑むであろう。死者は墓からたち現れ,ミトラがかれらを裁いて,善人と悪人を分けるであろう。オールマズドが悪人とアーリマンとデーモンどものうえへ焼き尽くす火を送るであろう。幸福と善との永遠の支配が続くであろう。キリスト教の終末論との類似に驚くばかりであり,アーリマンとユダヤ=キリスト教のサタンとの類似も同様である。ミトラ教とキリスト教はほぼ同時に出現したので,観念の相互影響が,少なくとも民間の水準ではあったものと考えてよかろう。両者の類似はおもに,オルペウス教とイランの思想を共通の二元論の背景とすることから生じた。
ミトラ教の祭儀の要素の中にも,のちに異教徒や魔女の概念に同化されていったものがある。ただしほとんどの豊穣の祭儀と異なり,ミトラの祭儀に参加するのは男性だけだった。信徒たちはたいまつをもって夜ひそかに,しばしば洞穴や地下室 --祭儀がひろまって経済的ゆとりができてからは,広いミトラ礼拝堂-- に集まり,聖なる食事をともにした。中心になる儀式は雄牛犠牲である。(中略)ミトラ教徒のあいだでもピュタゴラス学派の間でも,陶酔的な踊りや性的乱交は儀式に含まれていなかった。しかしこうした行為があるとかれらの敵が主張した理由は,わからないことでもない。このような装飾を伴って,ヘレニズム時代の秘境の儀式は異教の集会や中性の魔女のサバト,こんにち人工的に復興された魔女の儀式のための,定まった形式になったのである。
■葛野浩昭:「サンタクロースの大旅行」,岩波新書 (1998).
ヨーロッパでは,古くから各地でさまざまな冬至祭が催されてきました。帝政時代のローマでは,太陽神ミトラを祭る冬至祭(「無敵の太陽」とよばれました)が12月25日に行われました。また,種蒔きと農耕の神であるサトゥルヌスの祭も,12月17日から24日まで,どんちゃん騒ぎとして祝われました(このサトゥルヌスは英語の土曜日 Saturday の語源です)。前章でもふれたように,イエス・キリストの誕生日が12月25日に定められたのは,ミトラの冬至祭を取り入れたからです。
さて,引用ばかりでだいぶながくなっちゃったが,まとめてみよう。上に見たとおり,インド・イランのローカル神として誕生したミトラが,東に向かえば実在の人物マイトレーヤと同一視され弥勒(ミロク)になり,さらに布袋和尚とも習合して沖縄のミロク神(ミリク神とも)となって蓬莱の国に上陸する(最も東の端の地としては,柳田国男が「海上の道」で触れたように,鹿島の国かもしれない)。西に向かえば,ユダヤの天使メタトロンと習合し,あるいはミトラ教(ミトラス教)となって原始キリスト教と激しい覇権争いをする。キリスト教にはついに破れるも,クリスマスやサバトといった儀式に形を変えて,薄く広くその影響を浸透させていく・・・。なんとも雄大で気の長い旅だ。しかし,ユーラシアの西と東でやっぱりちょっとずつ繋がっているという,時空を超えた生命力(何しろ神様なのだから!)が微笑ましい。シンクレティズムとメタモルフォーゼを繰り返しながら,神々は人と人,民族と民族の間を渡り歩いていく。それは「神」を「文化」と置き換えてもおなじこと。人類の叡智と逞しさを(そして愚かさをも)深い感慨を以て感じぜずにはおれない。それが「宗教学」の醍醐味なのだ。・・・そうそう,ということで,最後にもうひとつだけ引用を。
■ミルチア・エリアーデ(島田裕巳,柴田史子訳):「世界宗教史 II ゴータマ・ブッダからキリスト教の興隆まで」, 筑摩書房 (1991).
・・・救済の約束は,ヘレニズム宗教の革新性と主要な特徴を示している。(中略)救済への希望は,当時のすべての精神的潮流と同様,シンクレティズムの影響のもとで展開されたのである。続きもあります。>>
事実,シンクレティズムはこの時代の支配的な特徴であった。シンクレティズムは古来,盛んに記録されてきた現象で,ヒッタイトの宗教やギリシア,ローマの宗教の形成においても,またイスラエルの宗教や大乗仏教,道教においても重要な役割を果たしてきた。しかし,ヘレニズム - ローマ時代のシンクレティズムは,そのスケールの大きさと驚異的な創造性において際だっている。シンクレティズムは,活力を失ってその不毛さを露呈するどころか,あらゆる宗教的創造の条件であるように思われる。
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December 22, 2004 | 幸せの低さ自慢。
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幸せの敷居の低さを自慢する(?)人がいてはると,自分ももっと低いもので自慢してやろう,とがんばって低い低いものを探してしまいます(笑)。とはいえ,幸せは「探す」と見つからないものだというのはメーテルリンクによって証明済み。探すことをあきらめて,探すことを忘れて日常に忙殺されると,ふと,エアポケットのように,突然,ストンとやってくるものなのデス。低い低いシアワセが。
この日やってきたシアワセ(やはり「幸せ」より「シアワセ」の方がここでは馴染むかもしれない)は,福岡出張でのひととき。怒濤の弾丸列車から降り立ち(時速300kmというのは決して人間をシアワセにしない,と最近思う),仕事の待ち合わせ時間まで,あと30分。時計に目をやりながら,福岡でのお気に入りの珈琲屋を目指す。計算すると滞在時間は15分が限度。少々苛立ちながらも,それでも意地になって頑張って早足で目指す。扉を開ける。カウンターに座る。・・・すると,時間が止まる。街の喧騒から隔てられ,ここだけ時間のとまった別世界。モカ・マタリを頼む。丁寧にネルでドリップされるその雫を見つめる。カップに注がれた黒い液面を,しばし見つめる・・・。
ああ〜シアワセ。(^^; やっぱりここに来てよかった。これよこれ。このコーヒーさえあれば,も〜ワタシ,シアワセ〜っ。・・・って,なぜか理由もなくトゲトゲしていた自分がアホらしく見え,ここ数日の閉塞感が一気にふっ飛んじゃいました。
ほんまは小一時間まったりしたかったけど,予定どおりきっかり15分しかいられなかったけど,幸せ感一杯で,そのあと鼻歌まじりでスタスタ仕事に向かいました。たかだかコーヒー一杯で(それは時としてウィスキー一杯だったり蕎麦一枚だったりもするが)お気楽極楽のシアワセ・・・。と,敷居の低いシアワセに浸る自分を改めて発見。それ自体もまた幸せナリ。
みなさんも,敷居の低い幸せ,持ってますか?(^^)
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November 10, 2004 | ただいま。
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ひさびさに日記を再開しようと思う。今回はちょっと村上春樹風(?)。
仕事関係の宴会のあと,若い連中だけの二次会に誘われた。酒を自粛中,という理由で陽気な誘い断り,ぼくはひとり梅田の雑踏に取り残された。以前のぼくなら踵を返して行きつけのバーに向かっただろうし,最近のぼくならそのまま職場に直行し仕事を続けるところだろう。しかし,今日ははやく自宅に帰って頭と体を休ませたい気分だった。駅へ向かう途中,夜遅くまで開いている本屋にふらふらと引き寄せられた。現代新書のデザインが変わっている。こんなことも知らなかったなんて。ぼくは導かれるままにその本を手に取りレジへ向かった。本の名前は,「ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論」。電車の中でぼくはそっと本を開いた。至福が広がる。抽象的論理数学の世界がなぜかほっとする。ぼくはこの数週間(いや,数カ月?数年?)本当に「生きて」いたんだろうか? 目の前にある現実をたんたんとこなし,思考し,行動する(してきたはずだ)。あれは確かに現実なのに,ぼくはどこにいてどこからぼくを眺めていたのだろう? 現実ばかり見ていると現実を忘れてしまう。たまには立ち止まって,形而上の世界に分け入らなくては・・・。開いた本から伝わる不思議な温もりを感じながら,ぼくの体は血の気を取り戻し,ようやく久々に地に足がついたような気がした。「ぼく」がぼくに戻ってきた。
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June 05, 2004 | プロ失格
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C:2
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おのひろきおんらいんやQyouさんのブログで青山学院大学国際政治経済学部助教授の瀬尾佳美の自転車についてのコラムが紹介されておりまして,そのコラムが結構大きな波紋を呼んでいることを最近知りました。本来これは自転車に関する内容なので「軟弱ポタリング日記」のネタなのでしょうが,ここでは敢えて「形而上日記」で別の角度から述べてみたいと思います。なぜって,このコラム,一読して「まともに反論する値なし」とぽた郎は思ってしまったからです。ではなぜ,このコラムがここまで反響を呼び,私自身もわざわざ日記でとりあげなければならないほどなのか? ここではそれを明らかにしたいと思います。
さて,今回の事件(この反響はもはや「事件」と言って良いでしょう。瀬尾の発言はその後本質的な内容から離れ,2ちゃんねるや瀬尾の個人的掲示板を舞台に中傷と記事削除の泥仕合にまで発展しているようです)の問題の本質は,実は瀬尾自身の説明足らずの提案にも粗暴な文章表現にもあるのではありません。一番の原因,ことの発端は瀬尾がその言説を(おそらくよく考えずに)自分の勤務先のサーバを利用して流布せしめたことにあるのではないかと,私は考えます。
仮にこれが,まったくの匿名の個人のホームページに掲載されたとしましょう。あるいは本名を名乗っても自分の職業的立場や所属先をあまり前面に強調せず,一個人の立場として私的なホームページで私的な意見を述べたと仮定しましょう。その場合は如何でしょうか? 多少の意見交換や言い合いはあったかも知れませんが,2ちゃんねるで取り上げられるほどの大事に発展したでしょうか? おそらくそれは言説の稚拙さから黙殺されるか,あるいは極めて小さい集団の中でひっそりと閉じられた議論が成されるのみだったのではないかと予想されます。
逆に,勤務先にも自身の発言の責任が帰するものとして,勤務先の上司や同僚,広報担当者と入念に(あるいは一応の)議論をした末に発表するという作業を仮定しましょう。その場合,おそらくは勤務先の良識的なあるいは体面的な意見から,あのような独断と偏見に満ちた表現は随分緩和され,「まともな」文章(すなわち感情的な反論を容易に誘発させないような周到に構成された文章)として発表されるのだろうと容易に予想できます。
すなわち,問題の本質はここにあります。彼女が自分の社会的地位を過剰に(あるいは不正に)利用して,あたかも公的=パブリックに,極めて私的=プライベートな言説を述べたということです。一般の常識を持ち合わせた社会人であれば,所属する会社や団体の名前を使って発言することに極めて慎重と熟慮を要することは,誰でもあたりまえのこととして認識していると思います(すくなくとも私はそのような「一般常識」を期待したいです)。私的=プライベートに発言する場合と,公的=パブリックに発言する場合では,その言葉の重みが違います。であればこそ,敢えて公的な発言の機会を最大限活用したり,敢えて私的な発言として抑制したり,と常識的な社会人は判断するわけです。(余談ですが,政治家の「失言」はこれを半ば意図的に踏み越えることに原因があるものと思われます。)問題の瀬尾の発言は,その一般社会常識が完全に欠落しています。
一般企業であれば,その会社の名の下に「公的に」流布される言説(パンフレットから書物,インタビューからホームページの記事まで)は厳格に管理されているため,構成員の私的な発言がうっかり公的なものとして(文字どおり会社のカンバンを背負って)公表されることは殆どないでしょう。大学という組織は「学問の自由な自治」という名の下に,その管理が多少ゆるいのかもしれません。まあ端的に言ってしまえばザルなだけかもしれませんが。そのような状況下においては,構成員一人一人が健全な常識と良識を持って自分自身を律して行動するほかありません。そもそも大学人は理論と言説が武器なわけですから,そのタテマエは堅持して貰いたいと思います。昨今,しょーもない大学教授の不祥事が後を断ちませんが,少なくとも大学人の「理論と言説の説明責任」というタテマエだけは,放棄しないで貰いたいものです。
ここでは瀬尾の言説の内容までは立ち入りません。2ちゃんねる等で取り扱われているように,発言者本人の人格にまでも及んで云々するつもりは毛頭ありません。直接会って話したら非常にいい人なのかもしれませんし,優秀な研究者であったり人望の厚い教育者であるのかもしれません。しかし,ここで問題としているのは,あくまで件のコラムの公表の方法とその姿勢です。公的私的を混同して自説を野方図に振り回す姿には,残念ながら愚かしいを通り越して怒りすら禁じ得ません。それが私の感想です。そしてこれは,「反論するに値なし」と思っていてもこれに反論をせざるを得ない良識的な方々の,恐らく共通の認識なのではないでしょうか。
というわけで,結論。今回の青山学院大学国際政治経済学部瀬尾佳美助教授の行為は「プロ失格」。それから,いわずもがな,青学院大学国際政治経済学部の管理責任も問われるべきでしょう。感情的議論も含めてざっくばらんに議論をしたいのなら,まずプライベートなホームページを立ち上げなさい(大学からの直リンクも当然やめること)。パブリックで冷静な議論をしたいのなら,まず自分の書いた原稿をおなじ職場の人にチェックして貰ってから載せなさい。これは社会の常識です。
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March 25, 2004 | シニフィアンとシニフィエ
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自転車仲間のblogでにわかにblogのauthor論が盛り上がっているので,トラックバックの実験を兼ねて(大変失礼!),議論に参加することにする。
blog(あるいは般的なWebリソース)にauthor(あるいは署名,文責名)がありや,なしや? ということだが,結論かうと,ぽた郎としては,どっちでもよいと思う。いや,投げやりな保留的意見ではなく,どっちでもおもしろい,という積極肯定的見解ではあるが。
author とblog本文の関係はソシュールの記号論でいう,「シニフィアン」と「シニフィエ」の関係に似ている。つまり,「意味するもの」と「意味されるもの」。あるいは「記号形態」と「概念内容」。
例えば,ぽた郎という記号(シーニュ)は,「ぽ・た・ろ・う」という記号形態(シニフィアン)と「ああ,あのいつも真っ黒なヒゲのおっさんね・・・。」とか「ああ,あの軟弱者ね。」とかいう概念内容(シニフィエ)の二つの要素に分けられる。ネット上で普段ぽた郎とやりとりしている人やオフ会で会ったことのある人ならば,「ぽた郎」というシーニュが意味するところの「本人」や「ネット人格」(すなわちこれがシニフィエ)がある程度わかるが,はじめてこのページにやって来る人は「ぽ・た・ろ・う」というシニフィアンからはシニフィエが容易に連想できないので,シーニュとしての「ぽた郎」が何を意味するのか(どんな人なのか)わからない。逆に誰かがまったくの偶然で同じハンドル名を使い日記を書いたとすると,「ぽ・た・ろ・う」というシニフィアンから連想されるシニフィエ(この場合は,言い回しとか主張とか)がいつもと違うぞと,読み手は混乱する。
このように,普段,直接対面で会う対人関係と違い,ネット社会上ではシニフィアンとシニフィエは容易に乖離しやすい。シニフィアンとシニフィエの誤った(安易な)結合によって,誤解や先入観も生まれやすい。そういったちょっと特殊な空間が作り出されていると言えよう。
「blogにauthorがありや,なしや?」という議論は,まさにこのシニフィアンとシニフィエの乖離(および不完全な結合)が問題にされているのだと,ぽた郎は分析している。この理論から言うと,@nak(あ)氏の「サイトの書き手の自己(サイト)紹介はそのサイト・書き手のことを知るために必要なんじゃないかと私は思う」という主張は,シニフィアンとシニフィエの乖離によるコミュニケーションの阻害を危惧している立場であると考えられる。また,おのひろき氏のように「書き手の名前が必要だとも思わないです」という意見は,シニフィアンという恣意的なフィルターを介さずに,シニフィエが真に「意味されるもの」として理解されることを期待する立場であると言えよう。
同様に,たけもと氏の「簡単なプロファイルくらい置いてくれた方が、情報を読み取るためのフィルタを構築する助けになる」という見解はまさにシニフィアンの効果的側面を端的に表したものであるし,こぐ氏の「・・・というくらいの自己紹介なら、日記本文を読んだほうがよくわかりそうです」という言説はシニフィアンを通しての歪んだ視線を危惧しているとも言えなくない。
ボードリヤールの広告論を持ち出すまでもなく,我々の取り巻く(特に資本主義的商業主義的)環境は,このシニフィアンとシニフィエの乖離と結合が間断なく繰り返されるダイナミックな空間にほかならない。シニフィアンとシニフィエは完全に一致するものではなく,話者や視聴者によってその「意味するもの」と「意味されるもの」は微妙なズレを生じざるを得ない。それこそがコミュニケーションでなのだ。故に,我々はコミュニケーションに苦しみ,愉しみ,喜び,怒り,それを繰り返しながら成長し,生活していくしかないのだ。ネット上では,それがさらに加速し,先鋭化しているのかもしれない。
最後に,ぽた郎自身の見解。「おもしろければどっちでもよいです。(^^)」 発言者(シニフィアン)がわかるからこそ楽しめる読める記事(シニフィエ)もあるし,非常にうまい共感の持てる記事(シニフィエ)なら,発言者の名前や趣味などと行った妙な先入観(シニフィアン)がない方が面白い場合もある。要するに面白いものは面白い,面白くないものには興味は無い,というある意味残酷なスタンスです(笑)。いずれにせよ,blog(そして全てのWebリソース)は,良い意味でも悪い意味でも,消費されつづける「記号」に過ぎないのだ。
続きもあります。>>|
March 21, 2004 | 書評の目,日記の目
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今週もなかなかやってくれました。朝日新聞の日曜日の書評欄。高橋源一郎はやっぱりうまいよね。
■高橋源一郎:星野智幸著「ロンリー・ハーツ・キラー」への書評,朝日新聞2004年3月21日(日)書評欄
小説を読んでいて「これは面白いな」と感じると,「書評してみたいな」と思いはじめる。でも,そういう時にはをつけなくちゃならない。途中から「書評をする」頭で読むようになりがちで,簡単にいうと,作品の「奥」に隠される「本質」を暴き出そうとしながら読んでしまうのだ。それはね,読書中には,ほんとはやっちゃいけないことなんだよ。これはヤラれました。イタいとこを突かれた。ホンマにタカハシ大先生は,まるで冗談のようなフツー言葉でズバリ正論を吐かれる。脱帽。
この警句は我々アマチュアにもバッチリあてはまります。「書評をする」とか「本質を暴き出そう」とかそんな大それたことは意図せずとも,「日記を書く」目で物事を見るようになりがちになってしまうというのは,確かに見透かされてます。事実,ワタクシ,昨日の円山応挙展では,日記の文章を考えながら応挙の画を見てました。いかんいかん。これはあざとい。素直な眼で画をみなきゃ。感想を考えるのなんて,あとでもいいのに。反省至極。
そろそろ日記と言う麻薬が利き過ぎてきたかな。日記に支配されないように日記を書く。難しいですね。それは「日記」を「言葉」と置き換えても同じこと。
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January 02, 2004 | 日記を書くこと。
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ぽた郎の日記は,(昔も今も相変わらずだが)その日のうちにあったこと,思ったことをその日のうちに書くということは殆どない。ある本を読んだら,あることを考えたら,それを延々とあるいは悶々と,気まぐれに思い出したときに反芻し,ようやく言葉という形になった時点ででろでろとこの世に表出させる。瞬時に考え瞬時に言葉に発する,それは仕事ではやらねばならないのでやってる(フリをしている)が,自らの日記にそんな日常まで持ち込みたくないのだ。反芻しても消化せずに流れていってしまったものは仕方ない。それに耐えられたものだけが残る,あるいは残す。故に「日記を書く」のは重い行為なのだな。そんなアホで徒労な行為がぽた郎はいたく気に入っている。(気に入りすぎて日常に帰られんようにせんとな。)
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January 01, 2004 | 日記を始める。
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かつてぽた郎は学生のころ,日記を書いていたことがあった。そして長らく日記を書くのを止めていた。意図的に。もちろん,「軟弱ポタリング日記」や「あるちゅ〜のーと」は毎年中断しながらも細々と続けているが,これは単なるメモである。戯れに「日記」と名付けたりもしているが,ぽた郎の中では「日記」ではない。日記を書く,というのはやはり特別な行為なのだ。
「日記を書く」という作業は重い。
ひとたび「日記を書く」ことを意識してしまうと,生活そのものが「日記を書く」ために存在してしまうかのようだ。日記を書くために考え,日記を書くために行動し,日記を書くために喋る。一挙手一投足,「これは日記に書かなきゃ」と思い,「これもまだ書いてない,あれもまだ書いてない」と苦悶の日々が続く。思考がすべて日記に支配されてしまうのだ(この関係はひとたびカメラをもつと,視線がすべてカメラに支配されてしまうのと似ている)。少なくともぽた郎にとっては甘美なまでの非日常的非生産的な行為であったのだ。
学生時代は有り余る時間を持て余し,日記に支配されながら生活を送ってもそれなりに低空飛行ながら破綻せずに切り抜けられた。陰々滅々で日記の泥沼にはまることもあれば,日記のおかげでなんとか精神的破滅にも陥らず危ういバランスを保てたと言える。しかし,今,(とりあえずまともな)仕事をもち,日々の雑務に追われる毎日ではたして「日記を書く」などという重い,愉悦の,自虐的な作業を続けることができるであろうか?
これが今まで日記を書くことを意図的に止めていた理由である。ではなぜ,ここにきて再開するのか?
ふと,なんとなくそろそろ頃合いかな,とある日突然思ったのだ。思ってしまったら,その瞬間から,「日記を書く」ことに支配されてしまう。1行たりとも日記を書かずとも,生活の全てが「日記を書く」ことを前提に一挙手一投足からめとられてしまう。甘い,悦楽の罠に。当面の目標は,日常とちゃんと両立できるか,かな。学生時代は2・3日日常に帰ってこれなくても,まあ許されたが。日常に帰ってこれなくなったら,仕事に破綻を来すようだったら,日記をやめよう。
「日記を書く」ことは重い。重いが故に己を己であることをあらためて思い出させてくれる甘美な装置である。故に,日記を始める。