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August 15, 2006 | 大奥,という名の華麗なる倒錯世界
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以前から各所で絶賛の声が漏れ聞こえていたよしながふみの『大奥』(第1巻),ようやく読んでみました。これまで逡巡していたのは,『西洋骨董洋菓子店』がぽた郎的にはちーともおもろいと思わなかった(ただし立ち読み飛ばし読み)のと,氏がかなりコアなBL系作家として鳴らしていたのでちょっと近寄りがたかった(これは多分にぽた郎の偏見)のと,「男女逆転」という陳腐なコピーが先行して勝手にその世界を想像しちゃって少々興ざめだったのと・・・,というしょーもない食わず嫌いのせいです,ごめんなさい,ハイ。やはり一読せねば作品の価値はわかりませんね。結論から言うと,こいつぁすげーぜ。なんでもっと早う読まなかったんや〜っ!と大後悔するほどの傑作です。
■よしながふみ:「大奥」第1巻,白泉社(ジェッツコミックス), 2005 (画像も同1巻より引用)
さても,大奥。この作品の真骨頂はやはり確かに「男女逆転」だが,単に男が女装して女が男装して・・・,の安易なトランスベスタイドではないところが巧妙。時は江戸中期,とある伝染病により男性死亡率が急増,男女人口比は1:4で推移する。このあたりがSF的設定で荒唐無稽ではあるが無理のない伏線となっていると言えよう。男女の社会的役割はほぼ完全に逆転しているが,服装や仕草などの文化的属性は現実世界そのまま。大奥内の男同士の確執はまさにBL系,その倒錯ぶりをいかんなく発揮している(それとて従来のよしなが作品に比べればうんとソフトなのだそーだ)。しかし一方,いわゆる「男らしい」気っ風のいい貧乏旗本の倅・水野祐之進といわゆる「女らしい」おきゃんな豪商の一人娘・お信の偲ぶ恋と大岡裁き大団円,などという歌舞伎や時代劇にありがちの伝統的・典型的な人情ものも「男女逆転」の世界にありながらちゃんと巧妙に織り込んでいるのが作者の力量の見せ所。うまい。
時に八代将軍吉宗公の天下。吉宗といえば,暴れん坊将軍の松平健やNHK大河ドラマの西田敏行が脳裏から離れない人も多いかとは思うが(まあ少女マンガの読者層にはあんまし関係ないかな・・・?),よしなが版吉宗はきりりと痩身の,決して美女とは言えないが意志的で剛胆なキャリアウーマン風の女性として描かれている。豪放磊落で質素倹約(吝嗇?)なのは史実そのままに,従来のメディアでインプリンティングされた巨漢のイメージを軽やかにいなしながら払拭することに成功していると言える(画像左参照。ちなみに最後のコマの冷や汗顔の花魁風女性は間部詮房で実在の人物)。これがまた,吉宗がカッコいいのよ〜。惚れた〜。権謀術数あり義理人情あり,女も男も惚れてしまうであろう豪快さ,天晴れ。同様に,腹心の加納久通(実在の人物)も普段はひとの良いおっとりとしたぽっちゃり型のおねいさんとして描かれるが,こと政治的駆け引きとなると,きりりと目が据わって老獪な政治家に豹変する(画像右参照,ちなみに男性は大奥総取締大年寄藤波某,これは実在の人物ではないが,史実では大奥で権力を奮った月光院に相当すると思われ)。惚れた〜。総じて,『大奥』に登場する女性達はみなひとくせもふたくせもあり,人間として魅力的な人物として描かれている。それに対し,男性は準主人公役の水野を除き,どいつもこいつも軽薄で浅はかで小狡くて情けない。これもよしながワールドの重要な世界観だろうか。
畢竟,このマンガは,すべからく男性が客体(=モノ・対象物)として描かれているのだ。上様の総触れ(大奥への登殿儀式)のシーンなぞ,水も滴るいい男の大群が一人の女に平伏する光景は圧巻である。よしながはもしかしたらこれを描きたいがためにこの世界を作り出したのではないか(笑)・・・と思わず勘ぐってしまう。それほどまでに倒錯した美しい世界。それがよしなが版大奥にほかならない。同時に,よしながは単に美男をセクシャルな対象物として愛でるだけでなく,その裏側にある差別や搾取に光を与えるのも忘れてはいない。例えば,作者は大奥の御三の間・杉下(もちろん男性)に次のように語らせている。
拙者の実家は三十俵三人扶持の御家人だった。御家人の中でも最低の禄高よ。しかも拙者の家はおぬしの家とは違って,金のために毎晩せがれを客に取らせるような親だった。十四の時から毎晩だ。最中の焼けた火箸を押しつけてくるようなものや病気持ちの女もいて・・・。十八で婿に行った時にはやっとこの地獄から抜け出せるのだと思って本当にうれしかった・・・。ところが婿に行った先で何年も子供が生まれなくてな,結局拙者に種が無いのだということになって離縁されたのだ。最後には食事もろくに与えられなかった。 (句読点はぽた郎が補筆)このように現代のジェンダー論における女性搾取の訴えをそのまま逆転して描くことにより,この世界(そして実世界)の差別のありようを残酷なまでに如実にえぐり出しているとも解釈できる。その点で,現実世界の男性優位女性下位・男性支配女性搾取的の構図を単純明快に逆転させた設定は,女性読者にとっても男性読者にとっても奇妙な親近感と違和感を同時に与えてくれるジェンダー論的教科書として良いお手本だと見なすことも可能である(事実,この作品は2005年にセンス・オブ・ジェンダー賞特別賞受賞を受賞している)。「男女逆転」が単に美男を侍らすがためだけの装置ではないところが,この作品の懐の広さであり,幅広い人気の秘訣かも知れない。
更に一歩進めて分析すると,単なる「男女逆転」のギミックな世界観だけに終始しないのがこの作家の深謀遠慮なところ。野暮を承知で第1巻のエピソードを雑駁に分類すると,大凡以下のようになるかと思われる。
第1巻
├祐之進とお信の恋 ・・・ 従来型男女の恋(時代劇・人情もの)
├大奥の日常
│ ├小姓の視点 ・・・ BL系?美男ワールド
│ └杉下の視点 ・・・ 男性版おしん?
└吉宗と久通の政治劇 ・・・ 時代小説風
これをみて明らかなように,美男が支配者たる女性に平伏する倒錯大奥ワールドはエピソード構成の一部に過ぎず(もちろんこれがこの作品の最も重要な要素には違いないが),人情ものや史実を交えた政治劇(側用人廃止や一日二食一汁三菜の倹約令,大奥女中50人解雇など)など,時代考証もきちんと踏んだ上での歴史物としての読み応えも十分あり,歴史マンガとして十二分に成功していると言える(更にちなみにぽた子さん曰く,この和服の豪華絢爛オンパレードは10代20代のひよっこマンガ家じゃあ描けないよねー。とのことでした)。このような定石の上に立つなればこそ,「男女逆転」という一見笑止千万な設定が,単なるパラレルワールドではなく史実や我々の現実世界と少しずつゆるやかにリンクする巧妙なダブルバインドを構成し,荒唐無稽ながらも強烈な説得力を以て様々な層の読者に受容される所以ではないだろうか。第1巻終盤からは,吉宗自らがこの男女逆転の江戸社会に疑問を持ち,史書を紐解く・・・という感じで物語は擬史小説の体裁を帯びてくる。うーん,このマンガ,しばらく目が離せそうにない。
さても次なる悩みは,他のよしなが作品を読むや読まざるや。うーん,怖いもの見たさもあるが幻滅するのも必定との噂もアリ・・・。どなたかお詳しい方,カムアウトもとい,御指南下さーい(笑)。
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June 22, 2006 | プレイヤーと観客の幸福な関係
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「愛のあるブーイングを!」とはmorioさんの明言。プレイヤーの真摯な姿勢は観客を魅了し,観客の厳しい目はプレイヤーを磨く。プレイヤーはまずなによりも,金よりも名声よりも,マスコミ対策や評論家受けではなく,自分自身を全身全霊で表現することが肝要。観客も,単なる結果や形式に拘泥せず,にわか精神論や似非評論家ごっこではなく,プレイヤーが生み出すただただ美しく崇高な行為を全身全霊で感じ取るべし。・・・それはサッカーであってもスケートであっても,音楽であっても同じこと。
■二ノ宮友子:「のだめカンタービレ」, 講談社 Kiss KC,1~15巻 (上記画像は15巻より引用)【註1】
些か唐突に私事ではありますが,ぽた郎は学生時代,いわゆるクラシック音楽にどっぷりハマっておりまして,平均して月に3・4回はコンサートに行くほど,音楽に入れ込んでたりしました(嗚呼,昔は若かった・・・(笑))。ところが,あるときからぷっつり行かなくなってしまい,コンサートからも足が遠ざかって現在に至ります。コンサートに行かなくなったのは,クラシックが飽きちゃったというのと,仕事が忙しくて行けなくなったというのもありますが,今思い起こすと,あんまし感動できるコンサート(ライブ)に出会わなくなっちゃったから,という理由もあったのだと思い出しました。そうなのです。クラシックはライヴな感動が少ない。「感動」というと,昨今,メーターの針が振り切れちゃったような感動の押し売りが音楽界だけでなく映画界やスポーツ界でも蔓延ってて誤解を招きそうですが,私が欲しいのは「ブラボー!」というワザとらしい掛け声でも咽ぶような感涙でもなく,「思わず」背筋がゾクっとする身震いとか,「自然に」静かに広まるスタンディングオベーションとかそういうものです。これはもちろんプレイヤーの方にも問題があるかもしれませんが,観客もその責任を大きく負っていると思います。
なにしろ,クラシックのコンサートでは,どの演奏家もどの演奏に対しても判で押したようなお行儀のよい拍手(そして,最後の曲だけはアンコールをちゃっかり要求する盛大な拍手)。その一方で,やれ楽章の途中では拍手をしてはいけないとか,最後の一音の残響が鳴り止むまで拍手してはいけないとか,そういう暗黙のがんじがらめのルールばっかり。思い起こすと,某超有名外国オケが疲れた長旅の後に疲れたしまりのない演奏をしたにもかかわらず拍手喝采で,ヲイヲイ, 一万円も取ってこんな演奏で拍手しちゃっていいのかよ・・・と思ったり,マイナーなオケでマイナーな曲だけど,オケも渾身の演奏でこいつはスゲーぜっ!と思っても,メインじゃないからすぐ拍手が鳴り止んじゃって自分一人で最後まで一生懸命手を叩いてたり・・・,と「お行儀のよい」観客の反応にゲンナリすることがしばしばでした。毎回毎回,一律平等のお行儀のよい拍手と能面のような反応。一方でコンサート会場の帰り道では評論家風を吹かせたスノッブな方々が滔々と分析を披瀝する。そんなに文句があるんならちゃんとブーイングすればいいのに,そんなに絶賛するんならちゃんとスタンディングオベーションしてあげればいいのに・・・。これじゃあ,プレイヤーもやる気でないよね。プレイヤーと観客がせっかく同じ空間にいるのに,あたかもスタジオレコーディングをするような,あるいは自宅でオーディオ鑑賞をするような,そんな寒々しいコンサートはもうたくさん。そういう思いがぽた郎をコンサートから遠ざからせた一因ではないかと思います。
とまあクラシック(とそののコンサート)からすっかり足が遠ざかっていたぽた郎ですが,ご他聞に漏れず「のだめ」を読んで再認識。クラシック再評価です。モーツァルト狂の伯爵をして「ラヴェルって・・・いいな」,と思わず言わしめたように,しばしアンチ・クラシックだったぽた郎をして「クラシックって・・・いいな」,と漏らさずをえない深い感銘。いままで忘れててゴメン・・・,てなカンジ。思い起こせば,数少ないながら,ちゃんと私もシアワセな体験をしてました。休憩前のサブの曲なのに拍手が鳴り止まなくてそこでミニアンコールが始まったり,第一楽章が終わっただけなのに思わずパラパラと拍手が漏れて指揮者が指揮台から降りて丁寧にお辞儀をしたり,怒涛のフィナーレでそのまま怒涛の拍手になだれ込んじゃったり・・・,と稀に熱い「ライブ」に遭遇したこともありまた。あるいは教会で行う小規模アンサンブルの慈善コンサートなどでは,ホンマにプレイヤーがのびのび楽しく弾いていて,ヴァイオリンからヴィオラへ本当ににっこりアイコンタクトをしながら旋律を受け渡したりするのを目撃したことがあります。ヴァイオリンの弦が切れて演奏が一時中断したハプニングの最中,リコーダー奏者がやおら即興曲を披露して曲の途中で大絶賛の拍手があったこともありました。そういう幸福な一体感を経験すると,やっぱりコンサート(ライブ)って病みつきになるのよね~。愚かにもぽた郎はそれをすっかり忘れてました。のだめ,ありがとう。
15巻で描かれたのだめの記念すべき初リサイタルで,奇しくも彼女が発した挨拶は「楽しんで演奏するので,みなさんも頑張って聞いて下サイ」。この言葉こそがこのマンガの本質を,そして人気の秘密を端的に象徴していると言えるでしょう。(そしてそれと見事なまでにコントラストをなすのが,9巻のコンクールでの無残な敗北。コンクールの結果ではなく,自分自身を見失った哀れなのだめ。) 観客を魅了するのは,結果でも点数でも分析でも評論でもなく,自分自身を表現する喜びを全身で表しているひたむきなプレイヤー(演奏者・選手)の姿に他ならないのデス。いい演奏をしているのだめは本当にいきいきと楽しそうで,観客もそれに知らずのうちに引き込まれ魅了されるしかありません(引用図参照)。ほんとうに全ての時間と全ての空間が彼女のために在り,彼女も観客もただただその一瞬の邂逅に感謝するしかない・・・,そういう幸福感。それは所詮,デフォルメが可能なマンガの世界だから,という批判も当然あるでしょうが,やっぱり現実の世界でもそういう幸福なプレイヤーと観客の関係は,確実に存在するのです。
「この際内容はどうでもいい。結果しかない。」なんて情けないこと言うなよ。そんなタワゴトを言ってるプレイヤーを誰が楽しんで観るというの? そんなくだらないことを要求する観客に対して誰が真剣にプレイすると思うの? もっと純粋な目で(耳で)鑑賞しようよ。おらが国が勝つとか負けるとか,そんな瑣末的なことでわけのわかんない一体感を持つより,もっと本当に美しいプレイを,幸福な瞬間を,自分の目で見つけようよ,みんな。(・・・アレ?音楽のハナシをしてたんじゃなかったっけ?(笑))
続きもあります。>>|
July 27, 2005 | 佐藤史生,少女マンガのジェンダー観
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mixiのコミュで「佐藤史生」という超マニアックなコミュがあります。佐藤史生をご存じの方は偉い!ゼヒお友達になって下さい(笑)。というくらい,今や忘れられてしまった超マイナーな漫画家。でもかつて地道に流行って,その隠れ信者は決して少なくないハズ。私も「一番好きな漫画家かは?」と未だに「佐藤史生」とキッパリ答えてます(たいていの場合,相手は「誰それ?」と困ったような顔をしますが・・・)。
で,その「佐藤史生」というマニアックなコミュで細々とマニアックな会話が展開されております。その中で,佐藤史生のジェンダー観についての記事がありましたので,それに触発されて,書いてみることにします。トランスジェンダーやセクセレスは少女マンガではむしろもはやポピュラーなジェンダー観ですが,佐藤史生のそれは多くの少女マンガと同じように見えながら,まるで幻視者が現世を視るがごとく,凡百の作家を凌駕する独特の視線で描かれているような気がしてなりません。私が拙い言葉を手繰るより,うってつけの評論を思い出しましたので,それを引用します。たとえば,藤本由香里の評論に以下のような記述があります。
■藤本由香里:「私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち」,学陽書房, 1998
一方で少女マンガは,すでにみてきたように,新しい,さまざまな形のジェンダーイメージを提供してきた。それがよしんば,半ば空想の世界から生まれたにせよ,イメージというものは,実際に社会を変える力をもつ。少女マンガがそうしたイメージをつくりだせたのは,現行のジェンダー・システムの中で女性が常に劣位におかれ,搾取されがちであったこと(何度も述べた性に対する恐れはその帰結である),そのために現行のしすてむにさほど執着を持たなかったこと,そして生物学的にみて性自認がしっかりしているので,多少ジェンダーの要素をとりかえたところで,自分が女だということに根本の不安を感じずにすむ,ということがあげられる。結果として少女マンガの中では男と女は連続体だと考えられている。このようななかで,ひとは”どっちつかず”にはならない。自分の居心地のよい場所を選ぶだけだ。藤本の批評はジェンダーバイアスがかかりすぎるきらいがあり全体的に完全に賛同するわけではありませんが,この部分に関しては,思わずポンと掌を打ってしまいました。改めて読むとやはり,うまい。特異なジェンダー観を持つ少女マンガの中でもさらにユニークな佐藤史生の深遠な世界観(の一部)を非常に端的に表していると言えるでしょう(そしてもうひとりが山岸涼子というのも非常に興味深い組み合わせです)。ジェンダー論的には非常に魅力的で評論の標本になりそうなキャラクターが多い佐藤史生の作品の中で,唯一取り上げられたのが,最も滑稽かつ醜悪な(それが故に魅力的でもあるという反語表現も成り立つ)このキャラクター。佐藤史生のジェンダー観の本質を突いた(そして佐藤ファンの虚を突いた)選択は,まさに瞠目に値します。
もっとも少女マンガの中にも”どちらにもなれない”人間を扱った作品もあるが,私が知る限り二つしかなく,その二つとも問題の人物は「男性」に設定されているのが注意をひく。
一つは山岸涼子「キメイラ」で,これは文字通り,男と女が一つの身体でキメイラ状にまざりあった半陰陽者を扱っている。(中略)
もう一つは佐藤史生「オフィーリア探し」で,これも,レズビアンバーに勤める若い女性が続けて二人殺され,犯人をたぐっていくと,颯爽とした背の高い女にばけた男だったという筋書きである。しかし,女としては颯爽とした美しい肉体が,男としてはなぜこれほどまでに無惨な,できそこないに転ずるのかーー「その前に立って悄然と声もなく,ただおのれを恥じるこの感覚は何なのだろう?」ここにはまた,別の問題が口を開けている。男の性別越境を阻害するのは男ばかりではないのである。【註】原著には同ページに佐藤史生の「オフィーリア探し」から数カットのコマが引用されています。
斬新とはいえ読者の興味をただ満足させるためのジェンダー観の氾濫であれば,少女マンガももはやマニエリスム的な衰退を始めたと言えます。そうではなく,ざらついた鉛味の読後を敢えて与えて読者を突き放すような,辛辣な「毒」のある視点を提供してくれる作家もまだいるのです。そういった数少ない孤高の漫画家のひとりが,佐藤史生です。「ワン・ゼロ」の連載終了以降,まとまった長期連載は書かず,忘れられたころにポツリポツリと作品を発表する超寡作ぶり。しかし,まだ断筆宣言や引退宣言は出されていないはず(笑)。今後の作品を是非期待したいものです。いつまでもしぶとく,のんびりと待つことにします。それが,(私のみならず)佐藤史生ファンの心意気というもの。まだその世界に触れたことがない方も,是非,ミノタウロスの迷宮がごとき佐藤史生ワールドに分け入ってみて下さい。
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July 25, 2005 | 杉浦日向子先生逝去
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http://www.asahi.com/obituaries/update/0725/001.html?ref=rss
突然の訃報で愕然です。杉浦日向子先生が逝去されました。ええ,先生と呼ばせて頂きます。人生の師。直接お会いしたことはないけれど,そう勝手に思ってる「弟子」は密かに多いに違いないでしょう。そんな魅力のある漫画と文章を書き続ける素敵な姉御でした。その渾々と湧き出る知と悦楽の泉も突然涸れ,もう我々の乾いた喉を潤しては呉れないのですね・・・。まだ46歳。若い,若すぎる。惜しい,惜しすぎる。日本文化にとって大きな損失です。・・・とはいえ,江戸時代の平均寿命は30歳程度。日向子先生なら,「エエモウ,十分長生きしたわ,ホホ」とか軽ろやかに笑って旅立ったんでしょうか。冥福をお祈りします
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February 27, 2005 | マンガ評論コミュ,立てました。
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そーいえばこちらで書くの忘れてましたが,数日前からmixiのコミュニティーで「マンガ評論」というコミュを立てさせていただきました。探したけどありそうでなかったもので・・・。マンガ評論って,マンガの世界でも評論の世界でもハミゴですきま産業的ですよね。でも私はそういう路地裏的文化が非常に気に入ってたりします。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=115459
なお上記リンクはmixiのメンバーじゃないと見れません。mixiにまだ入ってないけどとりあえず見てみたいぞ〜っ!という方は,ぽた郎にDM頂ければよければご招待致しますよ。(^^)
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February 26, 2005 | ニューヨーカー日本へ帰る。成田美名子論
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よく「京都のよさは30代にならないとわからない」とか言われますが,やっぱり日本文化のよさ,というのはオトナにならないと難しいでしょうかね? 日本文化(特に古典文化)の豊穣で複雑な世界は確かにそれを認識するのはある程度の訓練が必要なのかも知れませんし,あるいは単に学校や社会の教育のせいかもしれません。ま,ここではそういった政治的文化的要因の分析は置くとしましても,この国では(いや,どこの国でも?)若者の自国の古典文化に対しての軽視・無関心は避けられないのが現状のようです。
かく言うぽた郎も,子供の頃ピアノを習わせられてたというのもあってか,どっぷり「西洋かぶれ」な人生を送ってきました,今改めて思い起こせば・・・。「音楽」といえば当然クラシックもロックも含めて西洋音楽だったし,「絵」といえば当然西洋画だったし,「映画」を見に行くと言えば当然洋画だったし・・・,好んで読んだ「マンガ」の舞台も日本ではなくヨーロッパやアメリカの方が多かったような気がします。そう,ぽた郎は子供の頃,日本(の特に古いもの)があまり好きじゃありませんでした。いや,苦手でした,と言うべきかな。なにか得体の知れないぶよぶよじめじめと生ぬるい暗くて湿ったモノ・・・,そういう感じでした。少なくとも20代前半までは。こういう感覚って,ぽた郎に限らず,結構多くの人がそう思ってる(思ってた)んじゃないかな〜? どうでしょう?
さて,ここで成田美名子の登場です。成田美名子は言わずと知れた少女マンガの大家。もう巨匠の域に入りつつあつと言っていいかもしれません。テレビアニメにはなってないのでもしかしたら一般には知名度は低いかもしれませんが,マスコミに消費されないのが質の高さを維持する一端かもしれないですね。「エイリアン通り(ストリート)」「CIPHER(サイファ)」「ALEXANDRITE(アレクサンドライト)」と次々とヒット作を飛ばし,華やかで洒脱なアメリカンストーリーを書く漫画家・・・。作品群を敢えて辛口に短評すると,才色兼備の男女が己の弱点をさらに克服し成長する青春グラフィティー,特にアメリカが舞台なのがミソ,というところでしょうか。まさしく少女マンガとして大ヒットするための舞台装置を十二分に備えています。おそらくこういう評価だと思います,これまでは。その成田美名子がいま日本を書いてます。そう,ズバリ「お能」のマンガ。これはビックリ。最近どうしちゃったの〜? 成田サン,という感じです。(もちろん,いい意味で。)
■成田美名子:「花よりも花の如く」(1〜3巻),白泉社 花とゆめコミックス
伏線はありました。「エイリアン…」から「ALEXANDRITE」まで,80年代から90年代前半まで実に15年近くアメリカを舞台にしていた成田美名子が,前作「Natural」で遂に日本に帰ってきました(舞台を日本に移したということ)。舞台を日本に移したものの華やかな才色兼備たちのゴージャスストーリーは相変わらずやな〜,とも思ってたのですが,「Natural」はなんと,その後,「弓道マンガ」「神社マンガ」に進展しちゃったのです! もちろん「Natural」の段階では,弓道や神社は主人公およびサブキャラクターの成長に際しての付随的な舞台装置にしかすぎませんが,そのディテールは精緻を極め,若い読者の新たな興味を喚起しただろうことは想像に難くありません。
さて,今回の「花よりも花の如く」の登場人物は前作の「Natural」のそれをほぼ引き継いでいますので(その手法は成田美名子の作品群の特徴でもありますが),手法も装置も前作と一見同じように見えますが,実は全く違います。さらにパワーアップされています。「Natural」が主人公の成長に主眼が置かれ,装置は副次的なものであったのに対し,「花より…」はまさに装置=お能に主眼が置かれています。「Natural」の主人公は常に「バスケ」と「弓道」の間を揺れ動いていますが,「花より…」の主人公は「お能」なしには存在しえません。「Natural」ではあの主人公を描きたいために(作品の中で成長させたいために)あとから「バスケ」や「弓道」という装置を付与したという形ですが(もしかしたらそれが弓道でなく陸上とかロックバンドとかでも物語は十分に成立していたかもしれません),「花より…」はズバリ「お能」を描きたいためにあの主人公を登場させた,という色合いが濃厚です。そう,作者本人が巻末のエッセイマンガで述べている通り,彼女は今お能にどっぷりハマってます。そしてこの装置としての「お能」は,たとえばオペラだったりミュージカルだったりでは,作者の描きたい物語が成立しないのです。もしかしたら歌舞伎だったり文楽だったりしたら物語が成立したかも知れません(それでもなぜ歌舞伎や文楽でなくお能なのか?ですが,ここから先は作家の創造的天啓に委ねたいと思います)。いずれにせよ,日本回帰,それが現在の成田美名子のキーワードです。
考えてみればうまい手法です。例えば「ALEXANDRITE」の後,すぐさま「花よりも花の如く」の連載を開始したと仮定しましょう。恐らく読者はそのあまりのギャップに愕然とし,相当数のファンを無くすことになりかねません。たまたまお能が好きでかつマンガにも好意的な年代層がいたとしても,そういう新たな読者層を開拓できる確率はそう多くありません。とりあえず作者は,舞台を日本に移しながらも前作の青春グラフティーものを踏襲し続け,ストーリーが展開するうちに巧妙に「弓道」「神社」という日本的なものを織り交ぜて若い読者を啓蒙しなら,最後に一気に自分の世界=「能」に引きずり込む! ・・・実に鮮やな手口です。もちろん,作者本人がこういうことを数年前から用意周到に意図しながらやってきたわけではないというのは明白です。作者本人も作品を描くという行為を通じて成長(あるいは変遷)しているのでしょう。しかし,裏を返せば,それを無意識でできること自体が良い作家の条件とも捉えられます。NYからお能へ。作者本人が成長する過程を辿りながら,読者も自然と促されて日本へ回帰してくる・・・,そういう壮大な装置を,実に10年近くかけて成田美名子は作り上げてきたんだなぁ〜,としきりに感心する今日この頃です。この作品が世に広まり,多くの若い読者が日本の良さに(若い頃から)開眼されることを望みます。
なお,蛇足ですが,成田美名子は初期の作品で自分の生まれ故郷=青森を舞台にいくつか作品を描いています(「あいつ」「2年4組シリーズ」)。「Natural」や「花より…」ではしばしば青森を舞台に重要な話が展開し,青森が成田作品の回帰すべき「根っこ」であることが暗示されています。そして「花より…」の最近のの連載(「メロディ」誌)では,主人公たち能楽師一行はなんとNY講演を行っており,かつての成田作品の精神的故郷,NYにも回帰して行きます。過去を断ち切っての帰郷でなく,螺旋のように循環する永遠の運動としての「回帰」。やはり成田美名子の永遠のテーマは「成長」なんだな・・・,と深く思います。しばらくお能が続くでしょうが,そのあとはどーなるんでしょうか? やはり目が離せない作家です。
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January 27, 2005 | 日本アニメの限界と臨界,プラネテス論。
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NHKのアニメ,プラネテスが終わりました。正確に言うとBS版ではとっくに終わってるんで,地上波の再放送が終わったわけですが。ぽた家はBSが見れないので,ぽた家的には今回ようやく,という感じ。ま,それはともかく,毎週ほとんど欠かさず見てしまいました。ぽた家的には非常にに珍しい。それほどぽた家(=ぽた郎&ぽた子)としては原作に惚れ込んだ,ということですが,アニメの最終回を見終わって,二人で異口同音,「くっだらねーっ!」・・・と絶句。ネット上で見る限りアニメの方も評価する方は多いようですが,ぽた家的には非常に不満が残るアニメでした。いや,ディテールなどはよくできてるんですけどね。なんだかんだ文句たれながらも毎回見ちゃいましたし,楽しんだのは事実ですが。それにしてもヒドい。最悪ですわ。というのがぽた子さんとぽた郎の共通の評価。・・・というわけで,なぜ世間では好評だったのに,ぽた子さんもぽた郎も酷評するのか,その辺を分析的に書いてみたいと思います。感想 impression じゃなくて,批評 criticism,のつもり。
■幸村誠:プラネテス,講談社モーニングコミックス,全4巻 (2001-2004).
■アニメ版 プラネテス 原作:幸村誠,脚本:大河内一楼,監督:谷口悟朗, 2003年,サンライズ/NHK).
ジャパニーメション Japanimation という和製英語が国際的にも認知されつつあるように,日本のアニメーションは日本の主要輸出品として,あるいは現代日本文化の代表として,胸を張って世界に紹介できるものだと言えよう。精緻な設計と製作工程は浮世絵にも譬えられるし,勧善懲悪に堕さない巧妙なストーリーや背景は日本の近代文学にも比肩するとも言われている。これはイギリスやフランスなど海外に行ってちょっとした大きな街の比較的大きな書店に入ると,それが実感できる。たいてい本棚1ハイから2ハイ,それ全体で大きなコーナーを形成している。なにしろ日本文学や日本のガイドブックよりも,そして自国のコミックスよりも遙かに大きなスペースを取って陳列されているのだから・・・。ともあれ,それほどまでに世界中からリスペクトされている我が国の「文化」であるが,ひとつだけ,弱点というか,文化としての限界があるにように私は思えてならない。
日本のアニメはジェンダーが個化されている。それが日本のアニメの最大の欠点であり,文化的限界でもあると言えよう。日本アニメに登場する女の子はすべからく「良妻賢母」に描写され,それを見て育つ女の子も男の子も,そうなるように,それがアタリマエのよう幼少から「教育」されるようにできているのだ。アニメの女性キャラは魅力的だったり共感的だったり,コケティッシュだったりエロティックだったり,様々なキャラクターが存在するも,その通奏低音はみな,男の子(あるいは男)にとって都合のよい女としてしか要求されないことが透けて見える。ある時は「夫」が支配しやすい貞淑で誠実な「妻」のイメージであるし,ある時は「息子」が安心して甘えることのできる無限に優しい「母」のイメージでもある。彼女たちは時として判断をし,主張をし,行動するが,それらは全て「男」にとって都合のよい範囲内で許可された行動様式でしかない。もちろんこれはそのアニメの制作者や監督があからさまに意図したことではないし,表面的にはそうでないメッセージを送っているものもある。しかし,アニメはマンガや小説と異なり,制作にあたって発生した莫大な金額を回収せねばならないためある程度商業的に成功させねばならず,自ずと「万人に受け入れられる」「売れる」ものを作らざるを得ない。そこに大衆の深層心理としての保守的なジェンダー観が働く落とし穴が待っているのではないだろうか。
「男にとって都合のいい女」・・・。例えば,「プラネテス」を例に取って,例証することは容易に可能である。特にメインキャラクターのうちの一人であるタナベの人物描写が原作のマンガとアニメとでは雲泥の差だ。原作ではタナベは「自らの意志を持つ女性」として描かれている。最終的には結婚することになるハチマキに対しては最後まで安っぽい恋愛表現は見せず,淡々と飄々と彼女自身の独自の価値観で生き,行動し,そしてハチマキを受け入れることを選択している。テロリスト・ハキムに対して本気で引き金を引こうとするハチマキを,熱烈なキスを以て阻止するのもタナベの確固たる意志であるし(そしてこの重要で象徴的なシーンがアニメ版には欠落している),ハチマキと結婚後も働く女として自立して宇宙で活躍している(この設定もアニメ版では割愛されている)。深い信頼関係で結れているものの,依存関係にはない,自立した者同士の対等な関係して描かれるタナベとハチマキ。それが原作のキイとなる人物設定であり,それが故にエンディングの「愛することだけは止められないんだ」いう一見クサいセリフが,クサくならずに成功する絶妙な伏線を張っていると言えるだろう。
一方,アニメ版で描かれるタナベはまさにステレオタイプ的キャラクターに堕している。原作より若干年齢設定が若く童顔に描かれたり,ハチマキとの子供じみた恋愛場面が登場するのはまだいい。しかし,「愛です!」を安売り連発し元気がよいだけで思慮が足りない「若い女の子」として描写されるあたりから強い違和感を覚えてくる。アニメ版タナベの行動原理はほとんどハチマキを中心にしか動かないし(依存性),原作では見られないオロオロ感やウジウジ感がそこここに描かれている(非自律性)。普段は明るく強がりだがいざというときには守ってあげなきゃと男に思わせる,男にとっては甚だ都合がよい典型的な性格(そしてそれは原作とはまったく逆)。極めつけが最終回の最後のシーン。なんと彼女は妊娠している。いや,セックスや妊娠が悪いわけでは決してないが,原作で重要なテーマであった精神的な「信頼関係」(=「愛」)が安易に「妊娠」という物理的なものに転嫁されちゃってよいの?とツッコミを入れたくなる。どうせ妊娠まで描くのであれば,出産後も一児の母としてバリバリ宇宙で働く(原作のフィーのような!)強い女性というところまで描いてもよさそうなのに,それをするつもりはないらしい。しかも妊娠中はハチマキの実家で家事手伝いとして暮らしているようで,2070年代という設定の割には昭和時代のような家族観。おいおい,本気でこれで終わりかよ・・・,とゲンナリしたまま見ていたら,ほんとに終わってしまった。なんというステレオタイプの見本のようなアニメ・・・。
アニメ版プラネテスのディテールを見れば,非常に良くできたすばらしい作品であることは一目瞭然である。原作を旨く補完する緻密なSF的背景,ギミックな小物,スケールの大きい政治的ストーリー展開・・・。文句を垂れつつも最終回まで毎週ほとんど欠かさずに見てしまった所以の魅力は確かに認めたい。しかし,だからこそ,秀逸な舞台設定の上に立つ杜撰で保守的なジェンダー観がどうしても鼻につくのだ。そして,せっかく原作でいきいきと描かれていた新しい世代の「自立した女性」が,各断片的シーンを巧妙に繋ぎ合わせながら無惨にも改竄されるのを見るのは,全くもって忍びない。もしかしたらアニメを見慣れた人たちはそれに気づかないのだろうか。幼少の砌からアニメを見て世の男と女はこういうものだと教えられて育ってきているのだとしたら・・・。それが誰も意図しない,そして我々日本人が払拭することのできない不気味な大衆の深層心理にほかならないのだ。
今世界をリードする文化的最先端の日本のアニメーション。その地下水脈に流れる前時代的思想は容易には払拭しがたい。日本のアニメはこれが限界なのか? その暗闇にメスを入れ,この殻を破るアニメが出てきて欲しい。文化的狭視観の限界を臨界に変えた時,日本のアニメは真の意味で無限の発展を遂げ,国際的に評価されるとになるであろう。その日が来るのを切に祈って止まない。
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November 24, 2004 | ブラッドベリご健在。
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東京出張の間,ぽっかり時間調整の時間ができちゃったので,近くの古本屋でほんのちょとだけ時間を潰すことに。ふらふらと店内を彷徨ってると,またまたワタシを呼ぶ本が・・・。で,手に取ってすかさずレジに連れてきました。たまたまもりおさんとこで「華氏911」のハナシから「華氏451」のハナシになり,ブラッドベリのことが頭の隅の残ってたので。で,今回,古本屋でこの本と目があっちゃったわけです。まさに It jumped into my eyes. というやつですね。
■レイ・ブラッドベリ:「塵よりよみがえり」,河出書房新社 (2001).
ブラッドベリって,もう過去のヒトとか,もうだいぶ昔に死んじゃったヒトとか(ひどい!ぽた子さん・・・)思われてるフシもありますが,まだまだ立派にご健在ですのよ〜。みなさん,ご存じでした・・・? 1996年に書いた「バビロン行きの夜行列車」も詩的にブッ飛んでてカッコよかったけど,今回の2000年に書いた「塵より・・・」も気になってたところ(でも新刊を買わけでもないのがワタシの軟弱なところ)。改めて読むと,こちらもや〜,なかなかです。ブラッドベリの詩的で修辞学的な表現は晩年になってますます磨きがかかってますね・・・。なんかもう悟りを開いちゃってるような究極の境地です。
ところで,今回のブラッドベリの作品は幽霊ものファンタジーで,表紙はチャールズ・アダムズ(アダムズファミリーの原作者)です。ということは,ブラッドベリ自身も当然それを念頭においてるでしょうし,大半のアメリカ人はおどろおどろしくもコミカルなアノ絵を思い浮かべながらこの作品を読み進めるんだと思います。が,しかし。私は読んでる最中,ナゼかずっーと萩尾望都の絵を頭に思い浮べていました。この作品を読んでると,「ポーの一族」の原作がまるでブラッドベリだったかのような錯覚すら覚えます。萩尾がブラッドベリの原作をベースに描いてるのは「ウは宇宙船のウ」だけなんですが,私の頭の中ではブラッベリ=萩尾の絵というのが,なーんか当然の公式のように棲み着いてます。でもそう思ってる日本人はたぶんワタシだけではないはずだ! ねえ,そう思いませんか?
【12月13日一部語句修正】
続きもあります。>>|
November 19, 2004 | プルートウ,あるいは良質なパロディについて
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発売時の興奮にすっかり乗り遅れちゃいましたが,遅まきながら書いてみます。こういうのは読んでからしばらくたって冷静さを取り戻し,思考が沈澱するまで待つのが肝心ですからね・・・。
■浦沢直樹:「プルートウ(豪華版)」,第1巻,小学館ビッグコミックスペシャル
「パロディ」,とは現代(特にTV文化)においては,下品で攻撃的な嘲笑や下世話な諧謔と同じ意味のものとして貶められているが,語源的にはギリシア喜劇まで遡ると,他者の作品を引用し別の文脈に置換することによりオリジナルの作品に敬意をこめた批判を放つ,慎み深い行為であることにほかならない。バッハはヴィヴァルディやブクステフーデのパロディをせっせと書いていたし,ジェームス・ジョイスの「ユリシーズ」はそのままズバリ,ホメロスのパロディとして有名だし,ああそういえば,この前買った Burton & Ozone の「クープランの墓」も素晴らしくよくできたパロディだと言えるだろう・・・。
オリジナルの手塚作品では「地上最大のロボット」という副題が示すように,単にロボット同士の戦いという,子供がわくわくするエンターテイメント的要素が強い(それでも,お茶の水博士がアトムに向かって盛んに説く「非戦」の精神は手塚ならではの哲学で心打たれるものがあるが)。それに対し浦沢作品では,エンターテイメント的戦闘シーンはまったく皆無であり,正体を現さない凶悪犯人による犯行動機不明の連続殺人事件・・・といった社会派ドラマの性格を帯びてくる。虚しく殺されていくロボットたちもそれぞれ人生があり家族があり仲間があり,人間以上に人間らしい。いや,人間でないからこそ,人間のあるべき理想的な姿を投影できるのかも知れない。彼らは,その卓越した能力を自慢したり吹聴したりすることなく,極めて慎ましく穏やかに人間社会に溶け込んでいる。これまでの浦沢作品に登場する,優しく強く,そして憂いと迷いのあるヒーロー(もしくはアンチヒーロー)を,オリジナル作品の設定を借りながら,まさしく理想的に具現していると言えるだろう。これだけでも浦沢の力量に舌を巻かずにはいられない。そして,浦沢的迷宮ストーリー。読者はこの連続殺人事件の犯人や結末を知っているはずなのに,いや,知っているはずだからこそ,浦沢作品の幻惑に引き込まれる。自分の記憶していた過去(手塚作品)は果たして本物か・・・?(果たして原作通りストーリーが進むのか・・・?) 「過去の記憶」が鮮やかであればあるほど,未来の予定調和が確信できない。これは浦沢作品の主人公(アトムではないところがまた巧妙)が,正確であるはずの自らの人工知能の記憶を疑うことと奇妙に一致している。主人公の迷いは読者の困惑と同時進行で進み,オリジナルの物語に二重三重の螺旋の迷宮として絡みつく。ちなみに単行本以降の雑誌連載を追跡すると,連続殺人が進むにつれ,犯行が「世界一のロボットは誰か?」といった単なる牧歌的動機ではなく,政治的軍事的様相を呈して来るところが浦沢作品ならでは。イラク戦争や武器輸出三原則などのアナロジーも垣間見え,巧妙かつ痛烈な現代社会批判として読み取ることも可能である。読者は古き良き60年代に思いを馳せつつ,昭和が夢見た輝かしい21世紀を懐かしみつつ,現在今存在する混迷の21世紀の現実を受け入れつつ,この物語の舞台である(年代が特定されていない)遠い未来を夢想する・・・。こういった,オリジナル作品を核とした重層的な物語世界の構築こそが,良質なパロディの真骨頂にほかならない。浦沢直樹は今や誰もが挑戦したくて挑戦できなかった偉大な巨人=手塚治虫に対し,まさに真剣勝負でこの対決を挑んでいる。浦沢以外に誰がこの仕事をできるだろう?
良質なパロディとは,オマージュよりも親密で,アレンジよりも愛が深く,リメイクよりも慎み深い。そのことを改めて思い出す秀逸な作品が久々に登場した。物語はまだ始まったばかりであるが,この作品が今世紀を代表する芸術作品として数えられるであろうことは想像に難くない。今後の展開が待ち通しい。
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June 12, 2004 | SF漫画二題
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ひさびさにまとまった休みが取れたので,兼ねてより気になっていたマンガを幾つか買い漁る。そのうちの二つがコレ。いわゆる「本格ハードSF」漫画,二編である。
■幸村誠:「プラネテス」全4巻,講談社
■太田垣康男:「MOONLIGHT MILE」第1〜8巻,小学館
実は,「本格ハードSF」漫画は非常に少ない。何を以て「本格ハードSF」と呼ぶかはいろいろと議論があるところだが,ここではとりあえず,ESPやヒューマノイド型ロボットが出て来ない,現代科学のシームレスな延長線上にある未来を扱った小説,とでも定義しておこう。とりあえずこの定義に則ると,SFマンガは数多くあれど,実は「本格ハードSF」漫画は非常に少ない。強いて挙げれば星野之宣くらいか。・・・と少なくとも私はそう断言したい。
そのような中で,世紀の変わり目を前後して秀逸な作品が二つ登場した。前者「プラネテス」は1999年1月に「モーニング」連載を開始し(作者の事実上デビュー作で掲載時は読み切り),2004年1月に連載修了(とりあえず「第一部完」となっている)。後者「MOONLIGHT MILE」は2000年12月に「スペリオール」に連載を開始し,現在も連載中である。殆ど同時期に連載を進め,同じように現在のシームレスな延長線上としての近未来(前者は2070年代,後者は2010年代)を舞台にしているという点で,まさに好敵手というべき二本である。このように突如彗星のように現れた二つの本格ハードSF漫画であるが,実は作風はまったく対照的なのが興味深い。
前者「プラネテス」は若い宇宙飛行士の精神的成長物語とも読み取れる。主人公はしがないデブリ屋(宇宙の屑鉄回収業者)から一念発起してエリート宇宙飛行士たる木星航路のメンバーに挑戦し,悩み,道を失い,助けられながら,最後には目標を達成する,挿入話に登場するサブキャラたちもやはり挫折や逡巡を超克し成長する。物語の最後に人類発の木星到達を果たした後,作者は主人公に「愛することだけはどうしてもやめられないんだ」と語らせるが,これも巧妙なストーリー構成と丹念な人物描写が功を奏して安っぽいヒューマニズムに陥らずに済み,読後が爽やかで健全な(しかし一筋縄ではいかない)若者の物語として完成していると言えよう。この手の類いの成長物語は,別段SFでなくともできるハナシであるが(スポーツものとか,学園ものとか),宇宙という極限環境において,やはりそれでも「愛することが」と臆面も無く真顔でそれを述べるところが,この作品を貫く真っ直ぐな瑞々しさだと言えるだろう。
それに対し後者「MOONLIGHT MILE」は大人の肉体派である。物語の開始時からいきなり冗長なセックスシーンが続き,「本格SF」を期待した者を面食らわせる。このセックスシーンは連載している雑誌の読者層への過剰なサービスかと思いきや,実はそれ自体がこの漫画の通奏低音を暗示しているのかもしれない,と読み進めるうちにそう思ってしまうほどだ。この物語の主人公はビルディング・スペシャリストと呼ばれる宇宙空間の「ブルーカラー」であり,見たかんじさえないフツーのおいちゃんである。しかし憎まれない性格で女にはめっぽうモテる。天真爛漫天衣無縫で悩まない。いや,悩んでるヒマなく生物的に本能的に決断しなければならないのだ,宇宙空間では。「博士号を持つ学者達だけが宇宙に行っていた時代から・・・プロの建設作業員(ブルーカラー)が宇宙飛行士になる時代が来る・・・。」地球的危機を引き起こす衛星墜落を防ぐため,普段なら十数時間かかる0.27気圧への減圧作業をたった4時間で完了させる超人的な強靭な肉体。強靭な肉体にこそ強靭な精神が宿る・・・? 崇高や健全なんてクソくらえ・・・? それを肌で感じさせる熱い(そしてちょっと汗臭い)オトナの漫画である。
いずれにせよ,「プラネテス」,「MOONLIGHT MILE」,甲乙付け難い両雄の揃い踏みである。いずれもエリート宇宙飛行士でなく,フツーの屑鉄回収業者や建設作業員といったインフラストラクチャーを支えるエンジニアに焦点を当てているのが興味深い(それでも地球上の人からは充分フツーではないのだが)。それだけ「現在」が「未来」に近づいた,ということだろうか。(この栄光の「未来」に向けて克服すべきものは単に「技術」ではなく「予算」である,ということが皮肉にも明らかになってきたのも,「現在」が「未来」に充分近づいた証拠かも知れない。)この二作を読んだ後,例えば星野之宣の「2001夜物語」(雑誌連載は1984〜86年)など読み返すと,メカニックな点でも登場人物の行動様式の点でも,失礼ながらやはり時代を感じさせると思わざるを得ない。それほどまでにこの二作は現代マンガ史に新しい一歩を刻む秀作だと言えるだろう。両作者の今後の展開に期待したい。また両作品に触発されて,良質な「本格ハードSF」漫画が今後続くことを期待したい。
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May 16, 2004 | 黒田硫黄,完全不調和の大王
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黒田硫黄について書かねば,と思いながら実にもう3ヶ月も経ってしまった。このヒトの作品について言葉を紡ぐのは非常に難しい。ガツンと何か感じるものはあるしかし,それが容易に言葉にならない。使い回された陳腐な感想を寄せつけない無言の圧倒感があるのだ。だからこそ,プロの物書きは黒田硫黄について書きたがるのかも知れない(「ユリイカ」2003年8月号)。難攻不落の城を攻めるように・・・。ぽた郎も(無謀にも!)挑戦してみよう。
黒田硫黄の魅力は「予定された反調和」にある。予定調和でも完全調和でもない,予定反調和,完全不調和とでも敢えて呼んでおこう。黒田の作品は,一見して破綻している(かのように見える)。書きなぐった動線,荒唐無稽な設定,支離滅裂な登場人物,脈絡の無いストーリー展開,果てはやる気のないような無責任で唐突なエンディング。・・・これだけ書くとまるで駄作の山を量産する無能漫画家を紹介しているようである。しかし一見そう見えて実はそうではないのが黒田の魅力。博学で学術的な時代考証,精緻でギミックなディテール,濃密で繊細な心理描写,計算しつくされた手の込んだプロット・・・。同じ作品,同じ作家にこれら両極端の評価が同居する大いなる矛盾性。それが黒田硫黄を黒田硫黄たらしめる魅力にほかならない。完全不調和。形式やスタイルがほぼ確立し,もはや閉塞感が議論されるほど成熟してしまった日本マンガの「お作法」を小気味良く破壊する恐怖の大王,それが黒田硫黄なのだ。
例えば,「富士山の戦い」(「茄子」第3巻収録)を見よ。また「鋼鉄クラーケン」(「黒船」収録)を見よ。茄子に酷似した宇宙生物の侵略により富士山頂でプラント技術者が孤立したり,巨大イカの力を借りて東インド会社がフランス艦隊を全滅させたり,そのような壮大なスケールに読者を引きずり込んだあげくに,主人公たちは平然と煙草を吸いながらマージャンをしたりバーで女を口説いたりしたまま物語は終わってしまう。なんのこっちゃ。で? あの設定は,あのディテールは,あの盛り上がりは,一体なんだったの? 読者はトツゼン作者にも主人公にも見放され,作品の中に置き去りされたままボーゼンとするしかない。この甚だ不親切で無責任なオチ。大団円も悲劇的な英雄の死も拒否した,物語の破壊。今や薄っぺらな「記号」になれ果ててしまった「エンディング」への葬送。それが黒田作品の深淵な罠であり甘い魅力と言えるであろう。
黒田はこれは綿密な計算の元に描いているのであろうか? それとも本能と直感で描いているのであろうか? ユリイカの鼎談を読む限り,どうやら後者のようである。しかしそれがどちらであっても大した問題ではない。読者はワクワクしながらページをめくり,黒田の世界に引き込まれ,爽快に裏切られる。物語から突き放された軽い喪失感と,冷静な自分を取り戻し現実に還る愉悦感。黒田の作品を読み終えたあと長く残る爽やかな(しかし決して単調ではない豊潤な)余韻は,あたかも良質の(しかし個性的でクセのある)モルトウィスキーのフィニッシュのように,長く,静かにたなびく。
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April 12, 2004 | 「ヨコハマ買い出し紀行」,あるいは美しく老いる未来。
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「ヨコハマ買い出し紀行」の11巻が出た。正確には,3月に発売されてたのをうっかり忘れてたのをぽた子さんが買って来てくれたのデス。ありがたや〜。「ヨコハマ買い出し紀行」は読むとホッとしすね。特に最近仕事でトラブルがあり,ストレスもだいぶ溜まっていたので,こういうとき頭をクールダウンさせるには最適なマンガやね(そして最適なタイミングをありがとう〜>ぽた子さん)。
■芦奈野ひとし:「ヨコハマ買い出し紀行」 第11巻,講談社アフタヌーンコミックス
このマンガは「流れる時間の速度」という点において,他のマンガから遠く距離を置く極北の特異点であると言える。流れる時間の「ゆるさ」。ストーリー展開もあるようでないようで,台詞もほとんど存在しないコマが淡々と流れる。単に現実に疲れたぬるい癒し系でもない。ある種の諦観が通奏低音に流れる,毅然とした「ゆるさ」なのだ。これは並のマンガや小説では到底到達し得ない孤高の頂ではないだろうか。
このマンガの魅力は実は,極めて人間的なのんびり屋の美少女型ロボットにあるのではなく,その主人公たちをとりまく特異な時代設定にあるのではないか,と少なくとも私は考える。大きな自然災害か何かで(物語中ではそれは断片的に暗示的にしか示されない)人口が激減し,物流や通信が殆ど途絶えた世界。ロボットや電気スクーター,ジェット推進船などテクノロジーの残滓は垣間見られるが,妙にレトロで鄙びた生活。しかし,争いも対立もなく静かに達観した人々・・・。このマンガのテーマは,実は「老い」なのだ。しかも,美しく迎える人生の最期,これこそがこのマンガの魅力にほかならない。
水没した街に灯る電灯,鬱蒼としたススキ野を縫って走るトラム,草むらに飲み込まれつつも稼働する自動販売機・・・。この著者の偏愛的なテクノロジーのモチーフに対して,そのインフラストラクチャーは誰がどうやって支えているのか?と冷静に反論することももちろん可能である。飢餓や犯罪もない世界はもしかしたらご都合主義に映るかも知れない。しかし,そのようなSF論的指摘はここでは野暮というもの。ここは,カタストロフのあとの死を迎えるまでのつかの間の,そして永遠のユートピアなのだ。登場人物はみな抑制的で柔和で,しかしどこか憂いを秘め,老人も子供も(そしてロボットも)すでに悟りの境地に達しているように見える。そうした覚悟を決めた「ゆるい」時間が静かに流れる。美しく老いる未来。
このマンガを読んでいて,単に一過性のストレス解消ではなく,不思議と穏やかで前向きな感情が湧いてくるのはそのせいかも知れない。私も,早く,静かに美しく老いたい。
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January 07, 2004 | 「暮らしのことば 擬音・擬態語辞典」
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■山口仲美 編:「暮らしのことば 擬音・擬態語辞典」,講談社
この手の辞典はぽた家にはなかったので,本屋でおもわず衝動買いをしてしまった。読んで調べて非常におもしろい本である。労作,偉業。買って正解。
しかし,一点だけ非常に不満に思う点がある。それには触れないわけには行くまい。
それは「万葉集からコミックまで用例を徹底収集した決定版」との宣伝句である。特に,この「コミックまで」という浅薄な文言が甚だ不満。これが仮に「万葉集から村上春樹まで」とか「万葉集から江國香織まで」であれば非常に納得できる。本の趣旨から言ってもこれが妥当だ。しかし,「コミックまで」と豪語されては,残念ながら編集者の見識を疑わざるを得ない。少なくともコミックに関しては,「徹底収集」からはほど遠い散漫で恣意的な感が否めないからだ。
ここで取り上げられているコミック作家を列挙してみよう。「赤塚不二夫,東海林さだお,植田まさし,松本零士,あさりよしとお,うえやまとち,蛭田達也」。これだけである。残念ながらこれだけ。ホンマにこれだけ。これで「徹底収集」・・・とほんとうに胸を張って言っているのだろうか? 私にはタチの悪い冗談にしか受け取れない。
まずサンプル数の圧倒的少なさ。豊穣な日本マンガ文化の中から,あまたあるコミック作家の中からたった7人だけをピックアップして,それで網羅・徹底収集と言えるだろうか。あるいは,「量」で勝負せず「質」で勝負する見方もあるが,やはりこの組み合わせは厳選と言うにはムリがある。あさりよしとおとうえやまとちと蛭田達也はともかく(付け加えるなら,蛭田作品はおよそ蛭田作品の持ち味とは無縁のありきたりの普通のコマが1カット引用されているに過ぎない),それ以外の作家は残念ながら「マンガ史」のジャンルに属する作家であり,現代の「日本マンガ文化」にカテゴライズされる作家では既にない(と敢えて断言する)。つまり,この組み合わせはズバリ,「普段マンガを読まないオヤヂ世代が知ってる数少ないマンガ作家を無理矢理挙げたもの」に過ぎない,と私は断罪しよう。まるで小学生に「知ってる小説家を全部挙げて下さい」と訊いたに等しい体たらくさだ。
もちろん,本文中のカットコラムでマンガを引用するにはやぶさかではない。ビジュアルに示された用例は読者の理解の助けと微苦笑を提供するであろう。それは作者や編者の意図するところであると思われるし,それはそれで微笑ましく成功していると言える。が,しかし。それならそれであくまで「説明の補助のために」とか「作者の好みでマンガを集めました」で済む話ではないか(実際,「まえがき」だけ読むと編者のその謙虚な態度が読み取れなくもない)。それを,売らんがために大段に万葉集と並記し,「マンガまで」「徹底収集」とは,これは誇大広告としか言い様がない。これは一見,あたかもマンガというメディアを古典と等しく取り上げているというリベラルな態度を装いつつも,中途半端で恣意的な収集でもまあよしとする,マンガおよびマンガ文化に対する無知と無関心を隠そうともしない傲慢な態度にほかならない。繰り返して言うが,問題となるのは,本書の内容ではない。一方の文化(文学)には学術的に精緻で手厚く丁寧で,他方の文化(マンガ)には実は副次的にすぎないが「配慮してやる」というポーズを見せる(そして騙された読者が買ってしまう),この偽善的匂いが私には我慢ならないのだ。
ちなみに,個人的見解を付け加えるならば,マンガは擬音・擬態語の宝庫であり,まさに生きた言語の独創的な実験の場とも言える。それらが社会的な認知を受けているかどうかの議論は別の学問に任せるとして,せめてマンガを真摯に取り上げるのであれば,挿入コラムででも天才的な擬音・擬態語の創造者たちを論じて欲しかった。少なくとも高橋留美子と原哲夫は外せないでしょう。・・・と,私がしたり顔でこう書くと,なぜこの二人なのか,○○はどうした,と立ちどころに反論が出そうである。それほど,マンガ文化は奥が深いのだ。
マンガを読まない文学者よ,本を読まない若者をバカにするなかれ!
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January 03, 2004 | 「イティーハーサ」
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■水樹和佳「イティーハーサ」,集英社 豪華版全15巻
読了。2000年に完結しているものだが,10巻目ぐらいまで買って,そのまま放ったらかしにしておいた。正月,古本屋で残りをたまたま見つけたのでまとめて買ってまとめて読む。
やはり,すごい,の一言につきる。すばらしい。予算と設備だけは重厚長大で作品自体は軽少浅薄のハリウッド文化とは対局の,複して豊潤,深遠にして緻密な日本マンガ文化を代表する秀逸な作品である,といっても過言ではない。複雑な味こそ滋味。よくできた「作品とはそういうもの。
というわけで,私自身は非常に気に入っているこの作品であるが,あえて辛口読後感を書いてみることにする。
あいかわらずの水樹節。非常に綺麗。美しい。それ自体がアトラクティヴな(魅力的な・惹き付けられる)芸術作品であると言えるだろう。しかし。美しすぎるのが,調和があり過ぎるのが,水樹和佳のむしろ欠点でもある,と私には思えてならない。水樹和佳の描く善神のような,瑕のない調和の取れた絵を見ると,つい,そういった天の邪鬼的考えを持ってしまう。ニーチェ風に言えば,アポロンに嫉妬するデュオニソスということか。
水樹和佳の描く善神は神々しいまでに美しく,悪神もまたそれなりにカッコいい。悪神があやつる悪の従士たち(人間)もそれぞれ美学がある。しかし,それは残念ながら「悪の美学」と呼ぶにはあまりにもキレイすぎる。美学がありすぎて,結局は「いい人」に還元されてしまうのだ。つまりこれでは,汚いところがない,匂いのない,偽悪的な「悪」に過ぎないのではなかろうか。
たしかに「悪」の描写は作品にも存在する。戦闘や殺戮のシーンは血しぶきが飛び散り,死体が散乱し,少女マンガとしては異例の「残虐さ」を敢行しているとも言える。しかし,その血には匂い(もしくは臭い)がない。暴力性がない。あたかも歌舞伎や浄瑠璃のごとく昇華された美しい血にしか見えないのである。作者自体が意図してそれを書いているのか,作者の意図に関わらず美しく完成された絵がそれを疎外しているのかは,わからない。しかし,吐き気をもよおすような,目を覆いたくなるような,ムッとくる生理的な匂いが,残念ながら希薄だと言わざるを得ないのである。
もちろん,昨今の安易な小説/マンガにあるように,やみくもに暴力的・残虐的な描写をすればよいというものではない。しかし,不快な死の匂いを暗示するすることさえしないのは,「悪」にとっては甚だ不公平な扱いではなかろうか。主人公たちは時折,人を殺めたことに対する快楽と悔悟の念を揺れ動く(かのように描写される)が,マクベス夫人の手のような生々しさは希薄である。悪もしくは暴力性につきまとう負のエネルギーとしての匂いが,暗示すらされないのはやはり残念である。
同様に,水樹和の作品には「汚い」ものも存在しない。古代では日常的であった屠殺,腐敗,排泄,といった物理的な汚さはもちろん,戦争に(残念ながら)つきもののレイプ,リンチ,拷問,弱者虐待,といった精神的な汚さまで,やはり残念ながら見事なまでに排除されている。こういった人間の本質に迫る暗部を敢えて無視してしまうことによって,善と悪の対立とその超克という作品全体のテーマは,残念ながら表層的なものにしかなり得ないのではないだろうか。
ここで,「少女マンガだから」とか「読者層が」などと言った言い訳はもはや通用しないだろう。作品の扱っているテーマ自体が壮大で崇高でもはや「子供向き」の領域を超えているのだから。安易な二元論に陥らない複雑で深遠なテーマはすばらしい。これこそが成熟した文化として日本マンガを代表する豊穣な作品であると言える。だからこそ,「少女マンガだから」と逃げ道を作らないような悪の本質に迫って貰いたかった・・・。愛すべき作品への,これはわがままな要求だろうか?