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  <title>ぽた郎の超軟弱形而上日記</title>
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  <copyright>Copyright (c) 2006, potaro</copyright>
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    <title>大奥，という名の華麗なる倒錯世界</title>
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    <created>2006-08-15T02:17:46Z</created>
    <summary type="text/plain">以前から各所で絶賛の声が漏れ聞こえていたよしながふみの『大奥』(第1巻)，ようやく読んでみました。これまで逡巡していたのは，『西洋骨董洋菓子店』がぽた郎的にはちーともおもろいと思わなかった（ただし立ち読み飛ばし読み）のと，氏がかなりコアなＢＬ系作家として鳴らしていたのでちょっと近寄りがたかった（これは多分にぽた郎の偏見）のと，「男女逆転」という陳腐なコピーが先行して勝手にその世界を想像しちゃって少々興ざめだったのと・・・，というしょーもない食わず嫌いのせいです，ごめんなさい，ハイ。やはり一読せねば作品の価値はわかりませんね。結論から言うと，こいつぁすげーぜ。なんでもっと早う読まなかったんや〜っ！と大後悔するほどの傑作です。 ■よしながふみ：「大奥」第1巻，白泉社(ジェッツコミックス), 2005　（画像も同1巻より引用） さても，大奥。この作品の真骨頂はやはり確かに「男女逆転」だが，単に男が女装して女が男装して・・・，の安易なトランスベスタイドではないところが巧妙。時は江戸中期，とある伝染病により男性死亡率が急増，男女人口比は1:4で推移する。このあたりがＳＦ的設定で荒唐無稽ではあるが無理のない伏線となっていると言えよう。男女の社会的役割はほぼ完全に逆転しているが，服装や仕草などの文化的属性は現実世界そのまま。大奥内の男同士の確執はまさにＢＬ系，その倒錯ぶりをいかんなく発揮している（それとて従来のよしなが作品に比べればうんとソフトなのだそーだ)。しかし一方，いわゆる「男らしい」気っ風のいい貧乏旗本の倅・水野祐之進といわゆる「女らしい」おきゃんな豪商の一人娘・お信の偲ぶ恋と大岡裁き大団円，などという歌舞伎や時代劇にありがちの伝統的・典型的な人情ものも「男女逆転」の世界にありながらちゃんと巧妙に織り込んでいるのが作者の力量の見せ所。うまい。 時に八代将軍吉宗公の天下。吉宗といえば，暴れん坊将軍の松平健やNHK大河ドラマの西田敏行が脳裏から離れない人も多いかとは思うが（まあ少女マンガの読者層にはあんまし関係ないかな・・・?)，よしなが版吉宗はきりりと痩身の，決して美女とは言えないが意志的で剛胆なキャリアウーマン風の女性として描かれている。豪放磊落で質素倹約(吝嗇?)なのは史実そのままに，従来のメディアでインプリンティングされた巨漢のイメージを軽やかにいなしながら払拭することに成功していると言える（画像左参照。ちなみに最後のコマの冷や汗顔の花魁風女性は間部詮房で実在の人物)。これがまた，吉宗がカッコいいのよ〜。惚れた〜。権謀術数あり義理人情あり，女も男も惚れてしまうであろう豪快さ，天晴れ。同様に，腹心の加納久通（実在の人物）も普段はひとの良いおっとりとしたぽっちゃり型のおねいさんとして描かれるが，こと政治的駆け引きとなると，きりりと目が据わって老獪な政治家に豹変する（画像右参照，ちなみに男性は大奥総取締大年寄藤波某，これは実在の人物ではないが，史実では大奥で権力を奮った月光院に相当すると思われ)。惚れた〜。総じて，『大奥』に登場する女性達はみなひとくせもふたくせもあり，人間として魅力的な人物として描かれている。それに対し，男性は準主人公役の水野を除き，どいつもこいつも軽薄で浅はかで小狡くて情けない。これもよしながワールドの重要な世界観だろうか。 畢竟，このマンガは，すべからく男性が客体（＝モノ・対象物）として描かれているのだ。上様の総触れ（大奥への登殿儀式）のシーンなぞ，水も滴るいい男の大群が一人の女に平伏する光景は圧巻である。よしながはもしかしたらこれを描きたいがためにこの世界を作り出したのではないか(笑)・・・と思わず勘ぐってしまう。それほどまでに倒錯した美しい世界。それがよしなが版大奥にほかならない。同時に，よしながは単に美男をセクシャルな対象物として愛でるだけでなく，その裏側にある差別や搾取に光を与えるのも忘れてはいない。例えば，作者は大奥の御三の間・杉下(もちろん男性)に次のように語らせている。拙者の実家は三十俵三人扶持の御家人だった。御家人の中でも最低の禄高よ。しかも拙者の家はおぬしの家とは違って，金のために毎晩せがれを客に取らせるような親だった。十四の時から毎晩だ。最中の焼けた火箸を押しつけてくるようなものや病気持ちの女もいて・・・。十八で婿に行った時にはやっとこの地獄から抜け出せるのだと思って本当にうれしかった・・・。ところが婿に行った先で何年も子供が生まれなくてな，結局拙者に種が無いのだということになって離縁されたのだ。最後には食事もろくに与えられなかった。　（句読点はぽた郎が補筆）このように現代のジェンダー論における女性搾取の訴えをそのまま逆転して描くことにより，この世界(そして実世界)の差別のありようを残酷なまでに如実にえぐり出しているとも解釈できる。その点で，現実世界の男性優位女性下位・男性支配女性搾取的の構図を単純明快に逆転させた設定は，女性読者にとっても男性読者にとっても奇妙な親近感と違和感を同時に与えてくれるジェンダー論的教科書として良いお手本だと見なすことも可能である（事実，この作品は2005年にセンス・オブ・ジェンダー賞特別賞受賞を受賞している)。「男女逆転」が単に美男を侍らすがためだけの装置ではないところが，この作品の懐の広さであり，幅広い人気の秘訣かも知れない。 更に一歩進めて分析すると，単なる「男女逆転」のギミックな世界観だけに終始しないのがこの作家の深謀遠慮なところ。野暮を承知で第1巻のエピソードを雑駁に分類すると，大凡以下のようになるかと思われる。 　　　　第1巻 　　　　　├祐之進とお信の恋　　・・・　従来型男女の恋（時代劇・人情もの） 　　　　　├大奥の日常 　　　　　│　　├小姓の視点　　・・・　ＢＬ系？美男ワールド　 　　　　　│　　└杉下の視点　　・・・　男性版おしん？ 　　　　　└吉宗と久通の政治劇　・・・　時代小説風 これをみて明らかなように，美男が支配者たる女性に平伏する倒錯大奥ワールドはエピソード構成の一部に過ぎず（もちろんこれがこの作品の最も重要な要素には違いないが)，人情ものや史実を交えた政治劇（側用人廃止や一日二食一汁三菜の倹約令，大奥女中50人解雇など）など，時代考証もきちんと踏んだ上での歴史物としての読み応えも十分あり，歴史マンガとして十二分に成功していると言える（更にちなみにぽた子さん曰く，この和服の豪華絢爛オンパレードは10代20代のひよっこマンガ家じゃあ描けないよねー。とのことでした)。このような定石の上に立つなればこそ，「男女逆転」という一見笑止千万な設定が，単なるパラレルワールドではなく史実や我々の現実世界と少しずつゆるやかにリンクする巧妙なダブルバインドを構成し，荒唐無稽ながらも強烈な説得力を以て様々な層の読者に受容される所以ではないだろうか。第1巻終盤からは，吉宗自らがこの男女逆転の江戸社会に疑問を持ち，史書を紐解く・・・という感じで物語は擬史小説の体裁を帯びてくる。うーん，このマンガ，しばらく目が離せそうにない。 さても次なる悩みは，他のよしなが作品を読むや読まざるや。うーん，怖いもの見たさもあるが幻滅するのも必定との噂もアリ・・・。どなたかお詳しい方，カムアウトもとい，御指南下さーい(笑)。...</summary>
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      <![CDATA[<p><a href="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/ohoku2.html" onclick="window.open('http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/ohoku2.html','popup','width=602,height=712,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/ohoku2-thumb.jpg" width="60" height="70" border="0" hspace="5" align="right" /></a><a href="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/ohoku1.html" onclick="window.open('http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/ohoku1.html','popup','width=636,height=998,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/ohoku1-thumb.jpg" width="60" height="94" border="0" hspace="5" align="right" /></a>以前から各所で絶賛の声が漏れ聞こえていたよしながふみの『大奥』(第1巻)，ようやく読んでみました。これまで逡巡していたのは，『西洋骨董洋菓子店』がぽた郎的にはちーともおもろいと思わなかった（ただし立ち読み飛ばし読み）のと，氏がかなりコアなＢＬ系作家として鳴らしていたのでちょっと近寄りがたかった（これは多分にぽた郎の偏見）のと，「男女逆転」という陳腐なコピーが先行して勝手にその世界を想像しちゃって少々興ざめだったのと・・・，というしょーもない食わず嫌いのせいです，ごめんなさい，ハイ。やはり一読せねば作品の価値はわかりませんね。結論から言うと，こいつぁすげーぜ。なんでもっと早う読まなかったんや〜っ！と大後悔するほどの傑作です。</p>

<p>■<b><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4592143019/503-1732091-1918320?v=glance&n=465392">よしながふみ：「大奥」第1巻，白泉社(ジェッツコミックス), 2005</a></b>　（画像も同1巻より引用）</p>

<p>さても，大奥。この作品の真骨頂はやはり確かに「男女逆転」だが，単に男が女装して女が男装して・・・，の安易なトランスベスタイドではないところが巧妙。時は江戸中期，とある伝染病により男性死亡率が急増，男女人口比は1:4で推移する。このあたりがＳＦ的設定で荒唐無稽ではあるが無理のない伏線となっていると言えよう。男女の社会的役割はほぼ完全に逆転しているが，服装や仕草などの文化的属性は現実世界そのまま。大奥内の男同士の確執はまさにＢＬ系，その倒錯ぶりをいかんなく発揮している（それとて従来のよしなが作品に比べればうんとソフトなのだそーだ)。しかし一方，いわゆる「男らしい」気っ風のいい貧乏旗本の倅・水野祐之進といわゆる「女らしい」おきゃんな豪商の一人娘・お信の偲ぶ恋と大岡裁き大団円，などという歌舞伎や時代劇にありがちの伝統的・典型的な人情ものも「男女逆転」の世界にありながらちゃんと巧妙に織り込んでいるのが作者の力量の見せ所。うまい。</p>

<p>時に八代将軍吉宗公の天下。吉宗といえば，暴れん坊将軍の松平健やNHK大河ドラマの西田敏行が脳裏から離れない人も多いかとは思うが（まあ少女マンガの読者層にはあんまし関係ないかな・・・?)，よしなが版吉宗はきりりと痩身の，決して美女とは言えないが意志的で剛胆なキャリアウーマン風の女性として描かれている。豪放磊落で質素倹約(吝嗇?)なのは史実そのままに，従来のメディアでインプリンティングされた巨漢のイメージを軽やかにいなしながら払拭することに成功していると言える（画像左参照。<font color=gray>ちなみに最後のコマの冷や汗顔の花魁風女性は間部詮房で実在の人物</font>)。これがまた，吉宗がカッコいいのよ〜。惚れた〜。権謀術数あり義理人情あり，女も男も惚れてしまうであろう豪快さ，天晴れ。同様に，腹心の加納久通（実在の人物）も普段はひとの良いおっとりとしたぽっちゃり型のおねいさんとして描かれるが，こと政治的駆け引きとなると，きりりと目が据わって老獪な政治家に豹変する（画像右参照，<font color=gray>ちなみに男性は大奥総取締大年寄藤波某，これは実在の人物ではないが，史実では大奥で権力を奮った月光院に相当すると思われ</font>)。惚れた〜。総じて，『大奥』に登場する女性達はみなひとくせもふたくせもあり，人間として魅力的な人物として描かれている。それに対し，男性は準主人公役の水野を除き，どいつもこいつも軽薄で浅はかで小狡くて情けない。これもよしながワールドの重要な世界観だろうか。</p>

<p>畢竟，このマンガは，すべからく男性が客体（＝モノ・対象物）として描かれているのだ。上様の総触れ（大奥への登殿儀式）のシーンなぞ，水も滴るいい男の大群が一人の女に平伏する光景は圧巻である。よしながはもしかしたらこれを描きたいがためにこの世界を作り出したのではないか(笑)・・・と思わず勘ぐってしまう。それほどまでに倒錯した美しい世界。それがよしなが版大奥にほかならない。同時に，よしながは単に美男をセクシャルな対象物として愛でるだけでなく，その裏側にある差別や搾取に光を与えるのも忘れてはいない。例えば，作者は大奥の御三の間・杉下(もちろん男性)に次のように語らせている。<blockquote>拙者の実家は三十俵三人扶持の御家人だった。御家人の中でも最低の禄高よ。しかも拙者の家はおぬしの家とは違って，金のために毎晩せがれを客に取らせるような親だった。十四の時から毎晩だ。最中の焼けた火箸を押しつけてくるようなものや病気持ちの女もいて・・・。十八で婿に行った時にはやっとこの地獄から抜け出せるのだと思って本当にうれしかった・・・。ところが婿に行った先で何年も子供が生まれなくてな，結局拙者に種が無いのだということになって離縁されたのだ。最後には食事もろくに与えられなかった。　<font color=gray>（句読点はぽた郎が補筆）</font></blockquote>このように現代のジェンダー論における女性搾取の訴えをそのまま逆転して描くことにより，この世界(そして実世界)の差別のありようを残酷なまでに如実にえぐり出しているとも解釈できる。その点で，現実世界の男性優位女性下位・男性支配女性搾取的の構図を単純明快に逆転させた設定は，女性読者にとっても男性読者にとっても奇妙な親近感と違和感を同時に与えてくれるジェンダー論的教科書として良いお手本だと見なすことも可能である（事実，この作品は2005年にセンス・オブ・ジェンダー賞特別賞受賞を受賞している)。「男女逆転」が単に美男を侍らすがためだけの装置ではないところが，この作品の懐の広さであり，幅広い人気の秘訣かも知れない。</p>

<p>更に一歩進めて分析すると，単なる「男女逆転」のギミックな世界観だけに終始しないのがこの作家の深謀遠慮なところ。野暮を承知で第1巻のエピソードを雑駁に分類すると，大凡以下のようになるかと思われる。</p>

<p>　　　　第1巻<br />
　　　　　├祐之進とお信の恋　　・・・　従来型男女の恋（時代劇・人情もの）<br />
　　　　　├大奥の日常<br />
　　　　　│　　├小姓の視点　　・・・　ＢＬ系？美男ワールド　<br />
　　　　　│　　└杉下の視点　　・・・　男性版おしん？<br />
　　　　　└吉宗と久通の政治劇　・・・　時代小説風</p>

<p>これをみて明らかなように，美男が支配者たる女性に平伏する倒錯大奥ワールドはエピソード構成の一部に過ぎず（もちろんこれがこの作品の最も重要な要素には違いないが)，人情ものや史実を交えた政治劇（側用人廃止や一日二食一汁三菜の倹約令，大奥女中50人解雇など）など，時代考証もきちんと踏んだ上での歴史物としての読み応えも十分あり，歴史マンガとして十二分に成功していると言える（更にちなみにぽた子さん曰く，この和服の豪華絢爛オンパレードは10代20代のひよっこマンガ家じゃあ描けないよねー。とのことでした)。このような定石の上に立つなればこそ，「男女逆転」という一見笑止千万な設定が，単なるパラレルワールドではなく史実や我々の現実世界と少しずつゆるやかにリンクする巧妙なダブルバインドを構成し，荒唐無稽ながらも強烈な説得力を以て様々な層の読者に受容される所以ではないだろうか。第1巻終盤からは，吉宗自らがこの男女逆転の江戸社会に疑問を持ち，史書を紐解く・・・という感じで物語は擬史小説の体裁を帯びてくる。うーん，このマンガ，しばらく目が離せそうにない。</p>

<p>さても次なる悩みは，他のよしなが作品を読むや読まざるや。うーん，怖いもの見たさもあるが幻滅するのも必定との噂もアリ・・・。どなたかお詳しい方，カムアウトもとい，御指南下さーい(笑)。</p>]]>
      
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    <title>プレイヤーと観客の幸福な関係</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001173.html" />
    <modified>2006-06-21T16:00:51Z</modified>
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    <created>2006-06-21T16:00:51Z</created>
    <summary type="text/plain">「愛のあるブーイングを！」とはmorioさんの明言。プレイヤーの真摯な姿勢は観客を魅了し，観客の厳しい目はプレイヤーを磨く。プレイヤーはまずなによりも，金よりも名声よりも，マスコミ対策や評論家受けではなく，自分自身を全身全霊で表現することが肝要。観客も，単なる結果や形式に拘泥せず，にわか精神論や似非評論家ごっこではなく，プレイヤーが生み出すただただ美しく崇高な行為を全身全霊で感じ取るべし。・・・それはサッカーであってもスケートであっても，音楽であっても同じこと。 ■二ノ宮友子：「のだめカンタービレ」， 講談社 Kiss KC，１～15巻　（上記画像は15巻より引用）【註１】 些か唐突に私事ではありますが，ぽた郎は学生時代，いわゆるクラシック音楽にどっぷりハマっておりまして，平均して月に3・4回はコンサートに行くほど，音楽に入れ込んでたりしました（嗚呼，昔は若かった・・・(笑))。ところが，あるときからぷっつり行かなくなってしまい，コンサートからも足が遠ざかって現在に至ります。コンサートに行かなくなったのは，クラシックが飽きちゃったというのと，仕事が忙しくて行けなくなったというのもありますが，今思い起こすと，あんまし感動できるコンサート(ライブ)に出会わなくなっちゃったから，という理由もあったのだと思い出しました。そうなのです。クラシックはライヴな感動が少ない。「感動」というと，昨今，メーターの針が振り切れちゃったような感動の押し売りが音楽界だけでなく映画界やスポーツ界でも蔓延ってて誤解を招きそうですが，私が欲しいのは「ブラボー！」というワザとらしい掛け声でも咽ぶような感涙でもなく，「思わず」背筋がゾクっとする身震いとか，「自然に」静かに広まるスタンディングオベーションとかそういうものです。これはもちろんプレイヤーの方にも問題があるかもしれませんが，観客もその責任を大きく負っていると思います。 なにしろ，クラシックのコンサートでは，どの演奏家もどの演奏に対しても判で押したようなお行儀のよい拍手（そして，最後の曲だけはアンコールをちゃっかり要求する盛大な拍手)。その一方で，やれ楽章の途中では拍手をしてはいけないとか，最後の一音の残響が鳴り止むまで拍手してはいけないとか，そういう暗黙のがんじがらめのルールばっかり。思い起こすと，某超有名外国オケが疲れた長旅の後に疲れたしまりのない演奏をしたにもかかわらず拍手喝采で，ヲイヲイ, 一万円も取ってこんな演奏で拍手しちゃっていいのかよ・・・と思ったり，マイナーなオケでマイナーな曲だけど，オケも渾身の演奏でこいつはスゲーぜっ！と思っても，メインじゃないからすぐ拍手が鳴り止んじゃって自分一人で最後まで一生懸命手を叩いてたり・・・，と「お行儀のよい」観客の反応にゲンナリすることがしばしばでした。毎回毎回，一律平等のお行儀のよい拍手と能面のような反応。一方でコンサート会場の帰り道では評論家風を吹かせたスノッブな方々が滔々と分析を披瀝する。そんなに文句があるんならちゃんとブーイングすればいいのに，そんなに絶賛するんならちゃんとスタンディングオベーションしてあげればいいのに・・・。これじゃあ，プレイヤーもやる気でないよね。プレイヤーと観客がせっかく同じ空間にいるのに，あたかもスタジオレコーディングをするような，あるいは自宅でオーディオ鑑賞をするような，そんな寒々しいコンサートはもうたくさん。そういう思いがぽた郎をコンサートから遠ざからせた一因ではないかと思います。 とまあクラシック（とそののコンサート）からすっかり足が遠ざかっていたぽた郎ですが，ご他聞に漏れず「のだめ」を読んで再認識。クラシック再評価です。モーツァルト狂の伯爵をして「ラヴェルって・・・いいな」，と思わず言わしめたように，しばしアンチ・クラシックだったぽた郎をして「クラシックって・・・いいな」，と漏らさずをえない深い感銘。いままで忘れててゴメン・・・，てなカンジ。思い起こせば，数少ないながら，ちゃんと私もシアワセな体験をしてました。休憩前のサブの曲なのに拍手が鳴り止まなくてそこでミニアンコールが始まったり，第一楽章が終わっただけなのに思わずパラパラと拍手が漏れて指揮者が指揮台から降りて丁寧にお辞儀をしたり，怒涛のフィナーレでそのまま怒涛の拍手になだれ込んじゃったり・・・，と稀に熱い「ライブ」に遭遇したこともありまた。あるいは教会で行う小規模アンサンブルの慈善コンサートなどでは，ホンマにプレイヤーがのびのび楽しく弾いていて，ヴァイオリンからヴィオラへ本当ににっこりアイコンタクトをしながら旋律を受け渡したりするのを目撃したことがあります。ヴァイオリンの弦が切れて演奏が一時中断したハプニングの最中，リコーダー奏者がやおら即興曲を披露して曲の途中で大絶賛の拍手があったこともありました。そういう幸福な一体感を経験すると，やっぱりコンサート(ライブ)って病みつきになるのよね～。愚かにもぽた郎はそれをすっかり忘れてました。のだめ，ありがとう。 15巻で描かれたのだめの記念すべき初リサイタルで，奇しくも彼女が発した挨拶は「楽しんで演奏するので，みなさんも頑張って聞いて下サイ」。この言葉こそがこのマンガの本質を，そして人気の秘密を端的に象徴していると言えるでしょう。（そしてそれと見事なまでにコントラストをなすのが，9巻のコンクールでの無残な敗北。コンクールの結果ではなく，自分自身を見失った哀れなのだめ。）　観客を魅了するのは，結果でも点数でも分析でも評論でもなく，自分自身を表現する喜びを全身で表しているひたむきなプレイヤー(演奏者・選手)の姿に他ならないのデス。いい演奏をしているのだめは本当にいきいきと楽しそうで，観客もそれに知らずのうちに引き込まれ魅了されるしかありません（引用図参照)。ほんとうに全ての時間と全ての空間が彼女のために在り，彼女も観客もただただその一瞬の邂逅に感謝するしかない・・・，そういう幸福感。それは所詮，デフォルメが可能なマンガの世界だから，という批判も当然あるでしょうが，やっぱり現実の世界でもそういう幸福なプレイヤーと観客の関係は，確実に存在するのです。 「この際内容はどうでもいい。結果しかない。」なんて情けないこと言うなよ。そんなタワゴトを言ってるプレイヤーを誰が楽しんで観るというの？　そんなくだらないことを要求する観客に対して誰が真剣にプレイすると思うの？　もっと純粋な目で(耳で)鑑賞しようよ。おらが国が勝つとか負けるとか，そんな瑣末的なことでわけのわかんない一体感を持つより，もっと本当に美しいプレイを，幸福な瞬間を，自分の目で見つけようよ，みんな。（・・・アレ？音楽のハナシをしてたんじゃなかったっけ？(笑)）...</summary>
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      <![CDATA[<p><a href="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/nodame.html" onclick="window.open('http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/nodame.html','popup','width=478,height=1005,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/nodame-thumb.jpg" width="60" height="126" border="0" hspace="5" align="right" /></a>「<a href="http://morio0101.air-nifty.com/kataru/2006/06/post_cb86.html">愛のあるブーイングを！</a>」とはmorioさんの明言。プレイヤーの真摯な姿勢は観客を魅了し，観客の厳しい目はプレイヤーを磨く。プレイヤーはまずなによりも，金よりも名声よりも，マスコミ対策や評論家受けではなく，自分自身を全身全霊で表現することが肝要。観客も，単なる結果や形式に拘泥せず，にわか精神論や似非評論家ごっこではなく，プレイヤーが生み出すただただ美しく崇高な行為を全身全霊で感じ取るべし。・・・それはサッカーであってもスケートであっても，音楽であっても同じこと。</p>

<p>■<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4063259684/249-3931455-8140326?v=glance&n=465392">二ノ宮友子：「のだめカンタービレ」， 講談社 Kiss KC，１～15巻</a>　（上記画像は15巻より引用）<a href="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001173.html#more">【註１】</a></p>

<p>些か唐突に私事ではありますが，ぽた郎は学生時代，いわゆるクラシック音楽にどっぷりハマっておりまして，平均して月に3・4回はコンサートに行くほど，音楽に入れ込んでたりしました（嗚呼，昔は若かった・・・(笑))。ところが，あるときからぷっつり行かなくなってしまい，コンサートからも足が遠ざかって現在に至ります。コンサートに行かなくなったのは，クラシックが飽きちゃったというのと，仕事が忙しくて行けなくなったというのもありますが，今思い起こすと，あんまし感動できるコンサート(ライブ)に出会わなくなっちゃったから，という理由もあったのだと思い出しました。そうなのです。クラシックはライヴな感動が少ない。「感動」というと，昨今，メーターの針が振り切れちゃったような感動の押し売りが音楽界だけでなく映画界やスポーツ界でも蔓延ってて誤解を招きそうですが，私が欲しいのは「ブラボー！」というワザとらしい掛け声でも咽ぶような感涙でもなく，「思わず」背筋がゾクっとする身震いとか，「自然に」静かに広まるスタンディングオベーションとかそういうものです。これはもちろんプレイヤーの方にも問題があるかもしれませんが，観客もその責任を大きく負っていると思います。</p>

<p>なにしろ，クラシックのコンサートでは，どの演奏家もどの演奏に対しても判で押したようなお行儀のよい拍手（そして，最後の曲だけはアンコールをちゃっかり要求する盛大な拍手)。その一方で，やれ楽章の途中では拍手をしてはいけないとか，最後の一音の残響が鳴り止むまで拍手してはいけないとか，そういう暗黙のがんじがらめのルールばっかり。思い起こすと，某超有名外国オケが疲れた長旅の後に疲れたしまりのない演奏をしたにもかかわらず拍手喝采で，ヲイヲイ, 一万円も取ってこんな演奏で拍手しちゃっていいのかよ・・・と思ったり，マイナーなオケでマイナーな曲だけど，オケも渾身の演奏でこいつはスゲーぜっ！と思っても，メインじゃないからすぐ拍手が鳴り止んじゃって自分一人で最後まで一生懸命手を叩いてたり・・・，と「お行儀のよい」観客の反応にゲンナリすることがしばしばでした。毎回毎回，一律平等のお行儀のよい拍手と能面のような反応。一方でコンサート会場の帰り道では評論家風を吹かせたスノッブな方々が滔々と分析を披瀝する。そんなに文句があるんならちゃんとブーイングすればいいのに，そんなに絶賛するんならちゃんとスタンディングオベーションしてあげればいいのに・・・。これじゃあ，プレイヤーもやる気でないよね。プレイヤーと観客がせっかく同じ空間にいるのに，あたかもスタジオレコーディングをするような，あるいは自宅でオーディオ鑑賞をするような，そんな寒々しいコンサートはもうたくさん。そういう思いがぽた郎をコンサートから遠ざからせた一因ではないかと思います。</p>

<p>とまあクラシック（とそののコンサート）からすっかり足が遠ざかっていたぽた郎ですが，ご他聞に漏れず「のだめ」を読んで再認識。クラシック再評価です。モーツァルト狂の伯爵をして「ラヴェルって・・・いいな」，と思わず言わしめたように，しばしアンチ・クラシックだったぽた郎をして「クラシックって・・・いいな」，と漏らさずをえない深い感銘。いままで忘れててゴメン・・・，てなカンジ。思い起こせば，数少ないながら，ちゃんと私もシアワセな体験をしてました。休憩前のサブの曲なのに拍手が鳴り止まなくてそこでミニアンコールが始まったり，第一楽章が終わっただけなのに思わずパラパラと拍手が漏れて指揮者が指揮台から降りて丁寧にお辞儀をしたり，怒涛のフィナーレでそのまま怒涛の拍手になだれ込んじゃったり・・・，と稀に熱い「ライブ」に遭遇したこともありまた。あるいは教会で行う小規模アンサンブルの慈善コンサートなどでは，ホンマにプレイヤーがのびのび楽しく弾いていて，ヴァイオリンからヴィオラへ本当ににっこりアイコンタクトをしながら旋律を受け渡したりするのを目撃したことがあります。ヴァイオリンの弦が切れて演奏が一時中断したハプニングの最中，リコーダー奏者がやおら即興曲を披露して曲の途中で大絶賛の拍手があったこともありました。そういう幸福な一体感を経験すると，やっぱりコンサート(ライブ)って病みつきになるのよね～。愚かにもぽた郎はそれをすっかり忘れてました。のだめ，ありがとう。</p>

<p>15巻で描かれたのだめの記念すべき初リサイタルで，奇しくも彼女が発した挨拶は「<b>楽しんで</b>演奏するので，みなさんも<b>頑張って</b>聞いて下サイ」。この言葉こそがこのマンガの本質を，そして人気の秘密を端的に象徴していると言えるでしょう。（そしてそれと見事なまでにコントラストをなすのが，9巻のコンクールでの無残な敗北。コンクールの結果ではなく，自分自身を見失った哀れなのだめ。）　観客を魅了するのは，結果でも点数でも分析でも評論でもなく，自分自身を表現する喜びを全身で表しているひたむきなプレイヤー(演奏者・選手)の姿に他ならないのデス。いい演奏をしているのだめは本当にいきいきと楽しそうで，観客もそれに知らずのうちに引き込まれ魅了されるしかありません（引用図参照)。ほんとうに全ての時間と全ての空間が彼女のために在り，彼女も観客もただただその一瞬の邂逅に感謝するしかない・・・，そういう幸福感。それは所詮，デフォルメが可能なマンガの世界だから，という批判も当然あるでしょうが，やっぱり現実の世界でもそういう幸福なプレイヤーと観客の関係は，確実に存在するのです。</p>

<p>「この際内容はどうでもいい。結果しかない。」なんて情けないこと言うなよ。そんなタワゴトを言ってるプレイヤーを誰が楽しんで観るというの？　そんなくだらないことを要求する観客に対して誰が真剣にプレイすると思うの？　もっと純粋な目で(耳で)鑑賞しようよ。おらが国が勝つとか負けるとか，そんな瑣末的なことでわけのわかんない一体感を持つより，もっと本当に美しいプレイを，幸福な瞬間を，自分の目で見つけようよ，みんな。（・・・アレ？音楽のハナシをしてたんじゃなかったっけ？(笑)）</p>]]>
      <![CDATA[<p>なお，本ブログでは著作権法第32条および「小林よしのり氏著作権侵害差止等請求事件」(平成11年8月31日東京地裁判決)の判例に則り，権利者への許諾請求なしに適法範囲内でマンガ画像の「引用」を行っております。</p>]]>
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    <title>神仏習合(其之二)：丹生と金剛，ミイラと空海</title>
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    <modified>2006-06-19T14:13:35Z</modified>
    <issued>2006-06-19T23:13:35+09:00</issued>
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    <created>2006-06-19T14:13:35Z</created>
    <summary type="text/plain">イキナリ神仏習合とはちょっと話題が逸れるけど，さっそく閑話休題すんません。浮おじさんのとこで丹生（硫化水銀）のことが話題になったので，そーいえば，と早速気になる本を取り寄せて読んでみました。 ■松田壽男：「古代の朱」, ちくま学芸文庫, 筑摩書房 (2005). 　原始日本人が使ったアカ色には二種あった。一は水銀系のアカ，つまり硫化水銀 （HgS）。一は鉄系のアカ，すなわち酸化第二鉄（Fe2O2）である。水銀系のアカが（中略）純粋のアカ色を呈するのに，鉄系のアカはベンガラといわれ，やや黒ずんで紫色に近い。この鉄系のアカは古く「そほ」といわれた。古代の日本人は漢字を学んで「赭」という字をあてた。これにたいして水銀系のものは「まそほ」，つまり正真正銘のソホであるとし，「真赭」と表現されている。のちに，おそらく天平時代と推測されるが，鉛系のアカができた。科学的にいうと四酸化鉛（Pb3O4）である。一般に鉛旦(えんたん)といわれた。鉛旦はまた黄旦(こうたん)と書かれているように，赤と黄の中間で，俗にいうミカン色である。うーん，うっとり(笑)。こういう文章を読んでるとシアワセになりますねぃ〜。これぞ人文科学と自然科学の幸せな結婚。事実，古代のハイテク技術である金属鋳造と当時の知識のアーカイヴである社寺って，実は切っても切り離せない関係なのです。例えば八幡信仰と銅，金屋子神社と鉄，金山彦神と金・・・，そしてその背後には渡来系の技巧集団と武器と戦争と政治が，あるいは大事故と人身御供と祟りと怪談が・・・。このあたりを追ってくと，ホンマに奥が深そうで現実に戻ってこれなくなっちゃうかも。 さて，神仏習合。空海が開いた高野山・金剛峯寺と丹生都比売神社は神仏習合の好例としてあまりにも有名ですが，著者は，この高野山と丹生都比売神社の関係を面白いモノで結びつけています。・・・それは，ミイラ。即身成仏です。　日本製のミイラにまつわるいちばん大きな謎は，日本の風土が湿潤であって，ミイラの製造にはもっとも適していないという点である。それにもかかわらず，現在までミイラはたくさん残っている。死臘のばあいはいざ知らず，ミイラとなると，何らかの手段が加えられているのにちがいない。そこに私は水銀のもつ防腐作用を考える。 　だいいち，空海が真言宗の本拠と定めた高野山は，全山が水銀地帯である。高野山の壇上，つまり中心地には丹生，高野の両明神の社がある。また空海の墓側にも，墓を護るかのように両明神が祀られている。高野明神は高野山の地主神であるが，丹生明神は後述のように水銀の女神にほかならない。 ・・・(中略)・・・ 　たんなる高僧としてだけでなく，空海は，学者として知識人として平安朝第一の人物であった。彼は中国に渡って専門の仏教をより深めたことはいうまでもない。その上にいろいろな学問を身につけ，いろいろな新知識を日本にもち帰った。水銀の薬物としての性能を巧みに応用して，中国人が不良長寿の薬として珍重した丹薬の製法も，また水銀を死屍(しし)に注入すれば防腐剤として作用する事実も，みな空海によって日本に輸入されたと考える。（中略）空海自身が弘仁七年(816年)に高野山を開基したのも，水銀に関係あり，と私はにらんでいる。うーむ。なるほどー，やはりそうだったのか。東大寺大仏殿を建立したときも宇佐八幡神が勧進されたけど（こちらは銅に関係する技術神。このハナシもいずれまた後日書きたいと思います)，金剛峯寺の縁起もやはり技術神系の神と深い関連があったのですな・・・。 神様仏様，と今日の我々は「別の宗教」として八方美人的に節操なくお参りしているように見えますが，実はやはり，この二つの宗教は単純に「二つ」とカウントできないほど，根っこのところで深く深く結びついているのです・・・。我々ノ文化ハ斯ク形成サレタリ。誰や？神と仏をムリヤリ離婚させたんは？　蓋し，神仏習合の迷宮は深く愉し。今宵も深い沼にズブズブ・・・。...</summary>
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      <name>potaro</name>
      
      
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    <dc:subject>1. book</dc:subject>
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      <![CDATA[<p><a href="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/P1010048.html" onclick="window.open('http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/P1010048.html','popup','width=640,height=480,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/P1010048-thumb.JPG" width="80" height="60" border="0" hspace="5" align="right" /></a>イキナリ神仏習合とはちょっと話題が逸れるけど，さっそく閑話休題すんません。<a href="http://hack.cocolog-nifty.com/mitikusa/2006/06/5_d03b.html">浮おじさんのとこ</a>で丹生（硫化水銀）のことが話題になったので，そーいえば，と早速気になる本を取り寄せて読んでみました。</p>

<p>■<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480089004/qid=1150725791/sr=8-4/ref=sr_8_xs_ap_i4_xgl14/249-9128892-1553900">松田壽男：「古代の朱」, ちくま学芸文庫, 筑摩書房 (2005).</a><br />
<blockquote>　原始日本人が使ったアカ色には二種あった。一は水銀系のアカ，つまり硫化水銀 （HgS）。一は鉄系のアカ，すなわち酸化第二鉄（Fe<sub>2</sub>O<sub>2</sub>）である。水銀系のアカが<font color=gray>（中略）</font>純粋のアカ色を呈するのに，鉄系のアカはベンガラといわれ，やや黒ずんで紫色に近い。この鉄系のアカは古く「そほ」といわれた。古代の日本人は漢字を学んで「赭」という字をあてた。これにたいして水銀系のものは「まそほ」，つまり正真正銘のソホであるとし，「真赭」と表現されている。のちに，おそらく天平時代と推測されるが，鉛系のアカができた。科学的にいうと四酸化鉛（Pb<sub>3</sub>O<sub>4</sub>）である。一般に鉛旦(えんたん)といわれた。鉛旦はまた黄旦(こうたん)と書かれているように，赤と黄の中間で，俗にいうミカン色である。</blockquote>うーん，うっとり(笑)。こういう文章を読んでるとシアワセになりますねぃ〜。これぞ人文科学と自然科学の幸せな結婚。事実，古代のハイテク技術である金属鋳造と当時の知識のアーカイヴである社寺って，実は切っても切り離せない関係なのです。例えば八幡信仰と銅，金屋子神社と鉄，金山彦神と金・・・，そしてその背後には渡来系の技巧集団と武器と戦争と政治が，あるいは大事故と人身御供と祟りと怪談が・・・。このあたりを追ってくと，ホンマに奥が深そうで現実に戻ってこれなくなっちゃうかも。</p>

<p>さて，神仏習合。空海が開いた高野山・金剛峯寺と丹生都比売神社は神仏習合の好例としてあまりにも有名ですが，著者は，この高野山と丹生都比売神社の関係を面白いモノで結びつけています。・・・それは，ミイラ。即身成仏です。<blockquote>　日本製のミイラにまつわるいちばん大きな謎は，日本の風土が湿潤であって，ミイラの製造にはもっとも適していないという点である。それにもかかわらず，現在までミイラはたくさん残っている。死臘のばあいはいざ知らず，ミイラとなると，何らかの手段が加えられているのにちがいない。そこに私は水銀のもつ防腐作用を考える。<br />
　だいいち，空海が真言宗の本拠と定めた高野山は，全山が水銀地帯である。高野山の壇上，つまり中心地には丹生，高野の両明神の社がある。また空海の墓側にも，墓を護るかのように両明神が祀られている。高野明神は高野山の地主神であるが，丹生明神は後述のように水銀の女神にほかならない。<br />
<font color=gray>・・・(中略)・・・</font><br />
　たんなる高僧としてだけでなく，空海は，学者として知識人として平安朝第一の人物であった。彼は中国に渡って専門の仏教をより深めたことはいうまでもない。その上にいろいろな学問を身につけ，いろいろな新知識を日本にもち帰った。水銀の薬物としての性能を巧みに応用して，中国人が不良長寿の薬として珍重した丹薬の製法も，また水銀を死屍(しし)に注入すれば防腐剤として作用する事実も，みな空海によって日本に輸入されたと考える。<font color=gray>（中略）</font>空海自身が弘仁七年(816年)に高野山を開基したのも，水銀に関係あり，と私はにらんでいる。</blockquote>うーむ。なるほどー，やはりそうだったのか。東大寺大仏殿を建立したときも宇佐八幡神が勧進されたけど（こちらは銅に関係する技術神。このハナシもいずれまた後日書きたいと思います)，金剛峯寺の縁起もやはり技術神系の神と深い関連があったのですな・・・。</p>

<p>神様仏様，と今日の我々は「別の宗教」として八方美人的に節操なくお参りしているように見えますが，実はやはり，この二つの宗教は単純に「二つ」とカウントできないほど，根っこのところで深く深く結びついているのです・・・。我々ノ文化ハ斯ク形成サレタリ。誰や？神と仏をムリヤリ離婚させたんは？　蓋し，神仏習合の迷宮は深く愉し。今宵も深い沼にズブズブ・・・。</p>]]>
      <![CDATA[<p><b>補遺：高野山はお墓博覧会</b><br />
上掲写真は2001年に高野山の宿坊に泊まって精進料理三昧ポタをしてきたときの写真。当時なにげに撮った写真を探すと・・・ありましたありました。神仏習合の証拠写真がバッチリざくざくく。写真は安芸の浅野家（忠臣蔵の浅野内匠頭で有名な赤穂の浅野家はその分家）の墓所。真言を刻んだ五輪石塔に鳥居！ うーん，うっとり(笑)。この苔生した威厳が歴史を感じさせますな。傍若無人な明治政府の暴風雨もここまでは及ばなかったということか。こーんな感じの組み合わせが高野山ではごろごろと。あまりにフツーで，あれ？鳥居のマークはお寺だったっけ？と，くらくら錯覚を起こしちゃうくらいフツーの佇まいがステキ。<br />
余談ですが，高野山奥の院の墓所は，こんな神仏習合物件だけでなく，ロケット型のお墓とか，福助型のお墓とか，シロアリの墓とか，楽しい（と言っては失礼だが，事実興味深い）お墓がところ狭しと並んでます。その他，松下幸之助とか豊臣秀吉とか，大物のお墓ももちろん多数。まさにお墓の博覧会場。皆の衆，是非，日本の深層を，行って見るべし。</p>]]>
    </content>
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    <title>神仏習合(其之一)：権力ヨリ強要サレタル信仰ニツイテ</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001172.html" />
    <modified>2006-06-08T14:29:23Z</modified>
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    <created>2006-06-08T14:29:23Z</created>
    <summary type="text/plain">統計上では，日本の宗教人口は二億人を越えると言われている。なんと人口の二倍。つまり，日本に住んでいる多くの人は，神様も仏様も両方拝んでいる。それでなんら不思議に思ってない。こんな奇っ怪な国（あるいは文化）は他にはそうそうない。そんないい加減でテキトーでほほえましい日本が，私は大好きだ。 「神仏習合」とは，一般には明治初年の神仏分離令以前の中世の宗教形態を指すが，そもそも「習合していた」という表現はいったん強制的に「分離された」後の状態である現代の我々から見た形態であって，当時の当事者(民衆，僧侶，神職)たちの多くは，「習合している」ことすら無自覚であったであろう。現代でもそんな無自覚で無意識的な，そして知らずのうちに権力の暴力的な手からするりと軽やかにすり抜ける，慎ましくも逞しい民衆の息づかいが，確実に残っている。そんな路地裏の小さな日本が，私は大好きだ。 ■安丸 良夫：神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈, 岩波新書 (1979). ・・・神社改めは，明治三年ごろから各地でおこなわれるようになったらしい。氏神と村との結びつきは，村の成立そのものに由来する長い伝統をもっていたが，それまで，氏神は一村に一社とはかぎらなかったし，氏神の神体が仏像であるばあいや，氏神というより氏寺といったほうがふさわしいものも少なくなかった。さらに村の氏神(産土社)のほかに，各家や同族団に氏の神があるばあいもあり，それ以外にも多くの小祠もみられた。　こうした多様な神仏関係から，国家によって神社祭祀が体系化されたとき，村の氏神(産土社)だけが選びだされ，しかも，氏寺や仏像を排して，一村一社の神道式の氏神の成立が目標とされたのである。（中略）こうして，村々に祀られていた多様な神仏のなかから，産土神だけが浮上してきて他を抑え，いま私たちが村や町で見るような氏神が成立した。私たちが神社の様式としてごく自然に思いうかべてしまう鳥居，社殿，神体(鏡)や礼拝の様式なども，その大部分は，こうした国家の政策を背景として成立したものであった。　・・・（中略）・・・　廃藩置県によって集権国家樹立の基礎を固めた明治政府は，四年以降，近代国家体制樹立のためのさまざまの政策を推進した。伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系は，一見すれば政教一致という古代的風貌をもっているが，そのじつ，あらたに樹立されるべき近代国家体制の担い手を求めて国民の内面性を国家がからめとり，国家が制定する規範と秩序にむけて人々の内発性を調達しようとする壮大な企図の一部だった。そして，それは，復古という幻想を伴っていたとはいえ，民衆の精神生活の実態からみれば，なんらの復古でも伝統的なものでもなく，民衆の精神生活への尊大な無理解の上に強行された，新たな宗教体系の強制であった。　　(下線部はぽた郎による)引用長文にて恐縮至極。しかし，現在我々が「日本の古き良き伝統」と呼んでいる神道および神社が，明治黎明期に相当な強権と混乱を以て「人工的に」巧妙に歴史を塗り替えた，ということに自覚的な日本人は少ない。もちろん，明治以前にも神道なるものは存在したが，(実はここが重要な点であるが）それまで平安・鎌倉時代から連綿と続いていた「伝統的な」神道（例えば吉田神道，両部神道，山王神道など）は明治初期に完全に断絶してしまい，江戸末期に突如として興った「新興宗教的な」神道（本居宣長，平田篤胤を源とする国学→国家神道）に完全に駆逐された，という事実を知っている日本人も非常に少ない。 某国の某総理大臣が某神社に私人だか公人だかよくわからない状態で参拝を強行し，やれ愛国心だの古き良き伝統だのを喧伝している。ま，それぞれ信念なり戦略なりはおありだろうから，ここでは政治的観点からはとやかく言わないが，上記の明治期の宗教史上あと戻りできない大きな断絶の文脈の上でその行為を俯瞰すると，甚だ胡散臭くかつ滑稽な行為としてしか捉えることができない。どうやらこの国では，総理大臣や官房長官が参拝するピカピカの神社にお参りしないと国を愛すことにはならないそうだ。しかし，それより，路地裏や辻にひっそりと佇む神や仏（あるいはそれすらも判じ得ない名も無きもの）に，私は愛着を感じぜずにおれない。それではこの国や文化を愛することにはならないのだろうか？ （神仏習合の深い森は，広大かつ豊穣で，興味が尽きない。これからしばらく，シリーズで続けようかと思います。）...</summary>
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      <name>potaro</name>
      
      
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    <dc:subject>9. metaphysical soliloquy</dc:subject>
    <content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/">
      <![CDATA[<p><a href="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/IMGP3086.html" onclick="window.open('http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/IMGP3086.html','popup','width=640,height=480,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/IMGP3086-thumb.JPG" width="80" height="60" border="0" hspace="5" align="right" /></a>統計上では，日本の宗教人口は二億人を越えると言われている。なんと人口の二倍。つまり，日本に住んでいる多くの人は，神様も仏様も両方拝んでいる。それでなんら不思議に思ってない。こんな奇っ怪な国（あるいは文化）は他にはそうそうない。そんないい加減でテキトーでほほえましい日本が，私は大好きだ。<br />
「神仏習合」とは，一般には明治初年の神仏分離令以前の中世の宗教形態を指すが，そもそも「習合していた」という表現はいったん強制的に「分離された」後の状態である現代の我々から見た形態であって，当時の当事者(民衆，僧侶，神職)たちの多くは，「習合している」ことすら無自覚であったであろう。現代でもそんな無自覚で無意識的な，そして知らずのうちに権力の暴力的な手からするりと軽やかにすり抜ける，慎ましくも逞しい民衆の息づかいが，確実に残っている。そんな路地裏の小さな日本が，私は大好きだ。</p>

<p>■<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4004201039/qid%3D1149779363/249-5962721-1859532">安丸 良夫：神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈, 岩波新書 (1979).</a><br />
<blockquote>・・・神社改めは，明治三年ごろから各地でおこなわれるようになったらしい。氏神と村との結びつきは，村の成立そのものに由来する長い伝統をもっていたが，それまで，氏神は一村に一社とはかぎらなかったし，氏神の神体が仏像であるばあいや，氏神というより氏寺といったほうがふさわしいものも少なくなかった。さらに村の氏神(産土<うぶすな>社)のほかに，各家や同族団に氏の神があるばあいもあり，それ以外にも多くの小祠もみられた。<br>　こうした多様な神仏関係から，国家によって神社祭祀が体系化されたとき，村の氏神(産土社)だけが選びだされ，しかも，氏寺や仏像を排して，一村一社の神道式の氏神の成立が目標とされたのである。<font color=gray>（中略）</font>こうして，村々に祀られていた多様な神仏のなかから，産土神だけが浮上してきて他を抑え，いま私たちが村や町で見るような氏神が成立した。<u>私たちが神社の様式としてごく自然に思いうかべてしまう鳥居，社殿，神体(鏡)や礼拝の様式なども，その大部分は，こうした国家の政策を背景として成立したものであった</u>。<br>　<font color=gray>・・・（中略）・・・</font><br>　廃藩置県によって集権国家樹立の基礎を固めた明治政府は，四年以降，近代国家体制樹立のためのさまざまの政策を推進した。伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系は，一見すれば政教一致という古代的風貌をもっているが，そのじつ，あらたに樹立されるべき近代国家体制の担い手を求めて国民の内面性を国家がからめとり，国家が制定する規範と秩序にむけて人々の内発性を調達しようとする壮大な企図の一部だった。そして，それは，復古という幻想を伴っていたとはいえ，<u>民衆の精神生活の実態からみれば，なんらの復古でも伝統的なものでもなく，民衆の精神生活への尊大な無理解の上に強行された，新たな宗教体系の強制であった。</u><font color=gray>　　(下線部はぽた郎による)</font></blockquote>引用長文にて恐縮至極。しかし，現在我々が「日本の古き良き伝統」と呼んでいる神道および神社が，明治黎明期に相当な強権と混乱を以て「人工的に」巧妙に歴史を塗り替えた，ということに自覚的な日本人は少ない。もちろん，明治以前にも神道なるものは存在したが，(実はここが重要な点であるが）それまで平安・鎌倉時代から連綿と続いていた「伝統的な」神道（例えば吉田神道，両部神道，山王神道など）は明治初期に完全に断絶してしまい，江戸末期に突如として興った「新興宗教的な」神道（本居宣長，平田篤胤を源とする国学→国家神道）に完全に駆逐された，という事実を知っている日本人も非常に少ない。</p>

<p>某国の某総理大臣が某神社に私人だか公人だかよくわからない状態で参拝を強行し，やれ愛国心だの古き良き伝統だのを喧伝している。ま，それぞれ信念なり戦略なりはおありだろうから，ここでは政治的観点からはとやかく言わないが，上記の明治期の宗教史上あと戻りできない大きな断絶の文脈の上でその行為を俯瞰すると，甚だ胡散臭くかつ滑稽な行為としてしか捉えることができない。どうやらこの国では，総理大臣や官房長官が参拝するピカピカの神社にお参りしないと国を愛すことにはならないそうだ。しかし，それより，路地裏や辻にひっそりと佇む神や仏（あるいはそれすらも判じ得ない名も無きもの）に，私は愛着を感じぜずにおれない。それではこの国や文化を愛することにはならないのだろうか？</p>

<p>（神仏習合の深い森は，広大かつ豊穣で，興味が尽きない。これからしばらく，シリーズで続けようかと思います。）</p>]]>
      <![CDATA[<p><b>補遺：権力カラ遁レタル信仰ニツイテ</b></p>

<p>冒頭の写真は，ぽた家のご近所の垂水神社(大阪府吹田市)の末社，「不動社」。ぽた家のポタリングコースですが，改めて「神仏習合」探検隊の目で再訪すると，これは非常に興味深い。</p>

<p>まず，名前の「不動」からして，完璧に仏教系。不動明王です。モロ密教系じゃーん。それなのに不動「社」とはこれ如何に。（ちなみにお不動さんは滝とセットになっているケースが多く，この垂水神社でもご多聞に漏れず，小さいながらも霊験あらたかな滝があります。）お不動さんなのに鳥居（これは神道の様式)。そして線香と護摩！（これは完璧に仏教の習慣！）すげー組み合わせ。(@_@)　こういうむちゃむちゃな組み合わせは，思わずゾクゾクしちゃいます。お堂の中を覗くと，榊と御神酒徳利と鏡のご神体。恐らく，明治以前には立派な不動明王の仏像があったことでしょう・・・。その仏像は焼かれて竈の焚きつけにされちゃったのか，あるいは，どこかの蔵や博物館で大事に眠っているのか・・・，気になります。</p>

<p>ちなみに，垂水神社は郷社です。官弊社ではありませんが，本編引用文の通り，明治初期にかなりの権力が介入した可能性あり。そんな権力介入にも負けず，村の人々は知ってか知らずか，お不動さんに篤くお参りを続けます。そういう，草の根の，しぶとくずぶとく猥雑で純粋な信仰というものが，私は大好きです。それこそが，この国の精神的文化を形づくっている礎ではないかと思うのですが・・・。</p>

<p>いやー，ほんまにご近所にこーんなおもろい「物件」があったなんて・・・。みなさまも，ゼヒ，ご近所で神仏習合の痕跡を探して見て下さい。神社だったら権現さんや牛頭天王，お寺だったらお稲荷さんや大黒様(大国主命)など。まったく，この国は奥が深いヨ。<br />
</p>]]>
    </content>
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    <title>古本，掘り出し物二点。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001170.html" />
    <modified>2006-05-27T14:51:35Z</modified>
    <issued>2006-05-27T23:51:35+09:00</issued>
    <id>tag:www.potterist.com,2006:/potarodiary/diary3//5.1170</id>
    <created>2006-05-27T14:51:35Z</created>
    <summary type="text/plain">久々に「天牛書店」に行きました。比較的家の近所なのに最近あんまし行けてません。自転車じゃないとちょっとシンドイ距離なのと，行ったら行ったでバカスカ買っちゃうので迂闊に足を踏み入れるのがヤバイというのとで，まあ仕方ないということでしょうか(笑)。今日はなんか呼ぶものがったのか，フラリと立ち寄って店内をそぞろ歩きフト足を止めると，目があっちゃっとのです。「Buy me.」と本が呼んでる(笑)。ヤバイ，目が合ってしまった・・・，ここで会ったが百年目。入荷したばかりの整理中で値札がなかったので，店員さんに恐る恐る値段を訊いてみる。ヤバイ，買えちゃう値段だ・・・。 木下杢太郎：「百花譜 百選」，岩波書店，1990(第2刷). （B4判変型・函入豪華版，定価24,800円）　外函に若干の難があるせいか（とはいえ鋭利な傷ではなく，上の本の重みでできた軽い凹み)，発売当時の定価より大夫安く買わせていただきました。帰ってネットで調べてみると，岩波のHPでは「重版予定なし」とのこと。これはラッキーな買い物。中味は完全美本。状態もよいし，なにより色合いが美しい〜。ちなみにこれは正確には「本」でなく，100葉のスケッチの複製版です。これがまたよい。実はぽた郎は植物画好き。古今東西の植物画(本草図とかボタニカルアートとか)を集めるのはもはやライフワークですな。これも深き沼です。ハイ。 竹田聴州：「近世村落の社寺と神仏習合　丹波山国郡」，法蔵館，昭47(第1刷).（A4版・函入り，定価4,800円）　こちらは定価よりうんと高く値が付いてました（しかも偶然にも上の「百科譜」と同じ値段)。まあしゃーない。最近のマイブームは「神仏習合」なんで，資料が欲しかったところ。帰ってネットで調べてみたら，国書刊行会から全集版の一部として復刻版が出てるらしいですが，これがベラボーに高い。他の古書店でも今回買った値段の２倍以上の値がつけられてたり，ということで，ちと高かったけど，やっぱり適正価格かも。さすが天牛さん。というわけで，衝動買いというにはちと高い出費だけど，久々により掘り出し物が買えました。しかし，この豪華本，どこに置くんや・・・，また本棚増やさなきゃ。そちらの方も深刻なモンダイ(笑)。 　...</summary>
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      <![CDATA[<p>久々に「天牛書店」に行きました。比較的家の近所なのに最近あんまし行けてません。自転車じゃないとちょっとシンドイ距離なのと，行ったら行ったでバカスカ買っちゃうので迂闊に足を踏み入れるのがヤバイというのとで，まあ仕方ないということでしょうか(笑)。今日はなんか呼ぶものがったのか，フラリと立ち寄って店内をそぞろ歩きフト足を止めると，目があっちゃっとのです。「Buy me.」と本が呼んでる(笑)。ヤバイ，目が合ってしまった・・・，ここで会ったが百年目。入荷したばかりの整理中で値札がなかったので，店員さんに恐る恐る値段を訊いてみる。ヤバイ，買えちゃう値段だ・・・。<br />
<ul><li><a href="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/IMGP2876.html" onclick="window.open('http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/IMGP2876.html','popup','width=640,height=480,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/IMGP2876-thumb.JPG" width="80" height="60" border="0" hspace="5" align="right" /></a><a href="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/IMGP2875.html" onclick="window.open('http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/IMGP2875.html','popup','width=640,height=480,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/IMGP2875-thumb.JPG" width="80" height="60" border="0" hspace="5" align="right" /></a><b>木下杢太郎：「百花譜 百選」，岩波書店，1990(第2刷).</b> （B4判変型・函入豪華版，定価24,800円）　外函に若干の難があるせいか（とはいえ鋭利な傷ではなく，上の本の重みでできた軽い凹み)，発売当時の定価より大夫安く買わせていただきました。帰ってネットで調べてみると，岩波のHPでは「重版予定なし」とのこと。これはラッキーな買い物。中味は完全美本。状態もよいし，なにより色合いが美しい〜。ちなみにこれは正確には「本」でなく，100葉のスケッチの複製版です。これがまたよい。実はぽた郎は植物画好き。古今東西の植物画(本草図とかボタニカルアートとか)を集めるのはもはやライフワークですな。これも深き沼です。ハイ。<br />
<li><a href="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/IMGP2878.html" onclick="window.open('http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/IMGP2878.html','popup','width=640,height=480,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/IMGP2878-thumb.JPG" width="80" height="60" border="0" hspace="5" align="right" /></a><b>竹田聴州：「近世村落の社寺と神仏習合　丹波山国郡」，法蔵館，昭47(第1刷).</b>（A4版・函入り，定価4,800円）　こちらは定価よりうんと高く値が付いてました（しかも偶然にも上の「百科譜」と同じ値段)。まあしゃーない。最近のマイブームは「神仏習合」なんで，資料が欲しかったところ。帰ってネットで調べてみたら，国書刊行会から全集版の一部として復刻版が出てるらしいですが，これがベラボーに高い。他の古書店でも今回買った値段の２倍以上の値がつけられてたり，ということで，ちと高かったけど，やっぱり適正価格かも。さすが天牛さん。</ul>というわけで，衝動買いというにはちと高い出費だけど，久々により掘り出し物が買えました。しかし，この豪華本，どこに置くんや・・・，また本棚増やさなきゃ。そちらの方も深刻なモンダイ(笑)。<br />
　</p>]]>
      
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    <title>博物館惑星，理想への漸近線</title>
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    <modified>2006-05-23T14:12:50Z</modified>
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    <created>2006-05-23T14:12:50Z</created>
    <summary type="text/plain">SF小説はあまり得意な方ではないのです。あんまし好んで読む方ではないな。著名作家の著名作品を「教養」的に読む，という点では，私の中ではクラークもジョイスもアシモフもトルストイも全く同列なのです，すみません・・・（と誰に対して謝ってるんだか)。というわけで，あまりSFに愛がない私が「このSFはすごい！」と嬉々として声を大にしてもあまり説得力を持つわけではないというのは自分自身でも重々わかってますが，それでも言いたい。言わせてもらいます。管浩江の「博物館惑星」は凄い！・・・と。 ■管　浩江：「永遠の森　ー博物館惑星ー」，ハヤカワ文庫JA 何をいまさら・・・。この作品は既に2000年に星雲賞や日本推理作家協会賞などの数々の賞に輝いた（殆ど総なめにしたと言ってもよいくらい）当時相当に注目された日本のSF史上最も記憶に留められるべき秀逸な作品のうちの一つ・・・だそーです。どうもそうらしい，と正直に伝聞で書くくらい，ホンマにSFに疎いワタクシ。しかもこの本を手に取ったキッカケというのもぽた子さんがたまたま何の気なしに買ってきてそのへんに放置してあった本を文字通りたまたま手に取ったに過ぎない・・・というなんともトホホな経緯。ほんまSFファンの方スンマセン・・・。 しかし，読み手のポテンシャルの低さにもかかわらず，この作品は素晴らしい。世界観が美しい。控え目に泰然と，しかし憂いと苦悩も静かに甘受する，静謐で老成した世界。コンピュータに「直接接続」された特権者がこの世界で何を企てるのか？　ギブソンや史郎正宗だったら，悪の組織の工作員や政府の特別捜査員といったところ。それはそれで，波瀾万丈血湧き肉躍る，清く正しいSF世界だろう（嗚呼，確かに。もはやサイバーパンクすらも「清く正しい」世界になってしまった)。そのような「血湧き肉躍る」強力な武器をひっさげて，管浩江的未来世界は何を企むか・・・というと，それが「博物館」。そう，博物館（美術館や植物園，動物園まである・・・まさに「博物館法」に則った正しい博物館）なのです。この発想，素晴らしすぎ・・・。誰がこんな発想しますか？フツー。そんなすばらしい能力持っちゃったら，フツー世界制覇の野望とか，悪に対する使命的正義感とかちゃうの？　ところがこの世界の住人たちは，そんなごたいそうな動物的欲望には殆ど無縁で，ひたすら「美」と「人類の叡智」に奉仕するわけです。まさに植物的達観。事実，この世界では脳外科手術を受けネットワークに「直接接続」された異能の博物館学芸員たちが，ラグランジュ・ポイントの人工小惑星に建造された人類の理想郷とも言える壮大な博物館を舞台に活躍する。いや，「活躍する」・・・と言っても，ここが管ワールドのもう一つの魅力。これら異能の直接接続者たちは，その人類最高峰の技術と知識を手に入れながらも，日々，救いがたく官僚的な上司の愚痴を言い，解決不能な縦割り行政を恨み，殺人的な仕事量に忙殺され，己の無能さと理想との乖離に悩む・・・。とまあ，なんとも今日的でありがちな，身近で退屈な日常が淡々と続くのだ。なんという愚かで矮小な愛すべき人間たち！　そして凡庸な日常の中に起こるたいしたことがない些細な事件・・・。これってホンマにSFかいな？ 管浩江の世界観は，実は絶妙なバランスで成り立っている。テクノロジーに裏打ちされた近未来，人類の理想である美の砦，そして人間臭い繊細な心理描写・・・。それらどれか一つのファクターだけでも物語としては十分成り立つことは，管の精緻な筆運びからすれば一目瞭然。それはそれで独立した物語として成功させることも可能だろう。しかし，管は敢えてギミックなSF大作に盛り上げもせず，蘊蓄くさい美術談義にも陥らず，下世話な人情話にも惰せず，絶妙な成分配合で豊穣な世界を作り上げる。・・・理想的な世界？　いやいや，主人公が盛んに愚痴をこぼすように，これはまだまだ理想の境地ではないだろう。幸福な「博物館惑星」を以てしても本当の人類の「理想」には到達し得ない。愛すべき登場人物達はみなそれを達観しているのかもしれない。しかし，一歩一歩理想に近づきつつあるこの世界に生きる彼らは凛々しく美しい。一歩一歩近づき，そのたびに遠ざかる理想。漸近線とは無限の彼方でも決してそれに到達し得ない哀しき目標なのだ。だからこそ，それでも理想に近づこうとする行為は崇高的なまでに美しい。それを具現する世界を構築する，美しく巧妙に設計されたこの装置，それこそが「博物館惑星」なのだ。その理想まであともう一歩，という美しい世界，それは理想的なまでに美しい。こんなSFがあったなんて。...</summary>
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      <![CDATA[<p>SF小説はあまり得意な方ではないのです。あんまし好んで読む方ではないな。著名作家の著名作品を「教養」的に読む，という点では，私の中ではクラークもジョイスもアシモフもトルストイも全く同列なのです，すみません・・・（と誰に対して謝ってるんだか)。というわけで，あまりSFに愛がない私が「このSFはすごい！」と嬉々として声を大にしてもあまり説得力を持つわけではないというのは自分自身でも重々わかってますが，それでも言いたい。言わせてもらいます。管浩江の「博物館惑星」は凄い！・・・と。</p>

<p>■<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4150307539/qid=1147103519/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-7873399-6077065">管　浩江：「永遠の森　ー博物館惑星ー」，ハヤカワ文庫JA</a></p>

<p>何をいまさら・・・。この作品は既に2000年に星雲賞や日本推理作家協会賞などの数々の賞に輝いた（殆ど総なめにしたと言ってもよいくらい）当時相当に注目された日本のSF史上最も記憶に留められるべき秀逸な作品のうちの一つ・・・だそーです。どうもそうらしい，と正直に伝聞で書くくらい，ホンマにSFに疎いワタクシ。しかもこの本を手に取ったキッカケというのもぽた子さんがたまたま何の気なしに買ってきてそのへんに放置してあった本を文字通りたまたま手に取ったに過ぎない・・・というなんともトホホな経緯。ほんまSFファンの方スンマセン・・・。</p>

<p>しかし，読み手のポテンシャルの低さにもかかわらず，この作品は素晴らしい。世界観が美しい。控え目に泰然と，しかし憂いと苦悩も静かに甘受する，静謐で老成した世界。コンピュータに「直接接続」された特権者がこの世界で何を企てるのか？　ギブソンや史郎正宗だったら，悪の組織の工作員や政府の特別捜査員といったところ。それはそれで，波瀾万丈血湧き肉躍る，清く正しいSF世界だろう（嗚呼，確かに。もはやサイバーパンクすらも「清く正しい」世界になってしまった)。そのような「血湧き肉躍る」強力な武器をひっさげて，管浩江的未来世界は何を企むか・・・というと，それが「博物館」。そう，博物館（美術館や植物園，動物園まである・・・まさに「博物館法」に則った正しい博物館）なのです。この発想，素晴らしすぎ・・・。誰がこんな発想しますか？フツー。そんなすばらしい能力持っちゃったら，フツー世界制覇の野望とか，悪に対する使命的正義感とかちゃうの？　ところがこの世界の住人たちは，そんなごたいそうな動物的欲望には殆ど無縁で，ひたすら「美」と「人類の叡智」に奉仕するわけです。まさに植物的達観。事実，この世界では脳外科手術を受けネットワークに「直接接続」された異能の博物館学芸員たちが，ラグランジュ・ポイントの人工小惑星に建造された人類の理想郷とも言える壮大な博物館を舞台に活躍する。いや，「活躍する」・・・と言っても，ここが管ワールドのもう一つの魅力。これら異能の直接接続者たちは，その人類最高峰の技術と知識を手に入れながらも，日々，救いがたく官僚的な上司の愚痴を言い，解決不能な縦割り行政を恨み，殺人的な仕事量に忙殺され，己の無能さと理想との乖離に悩む・・・。とまあ，なんとも今日的でありがちな，身近で退屈な日常が淡々と続くのだ。なんという愚かで矮小な愛すべき人間たち！　そして凡庸な日常の中に起こるたいしたことがない些細な事件・・・。これってホンマにSFかいな？</p>

<p>管浩江の世界観は，実は絶妙なバランスで成り立っている。テクノロジーに裏打ちされた近未来，人類の理想である美の砦，そして人間臭い繊細な心理描写・・・。それらどれか一つのファクターだけでも物語としては十分成り立つことは，管の精緻な筆運びからすれば一目瞭然。それはそれで独立した物語として成功させることも可能だろう。しかし，管は敢えてギミックなSF大作に盛り上げもせず，蘊蓄くさい美術談義にも陥らず，下世話な人情話にも惰せず，絶妙な成分配合で豊穣な世界を作り上げる。・・・理想的な世界？　いやいや，主人公が盛んに愚痴をこぼすように，これはまだまだ理想の境地ではないだろう。幸福な「博物館惑星」を以てしても本当の人類の「理想」には到達し得ない。愛すべき登場人物達はみなそれを達観しているのかもしれない。しかし，一歩一歩理想に近づきつつあるこの世界に生きる彼らは凛々しく美しい。一歩一歩近づき，そのたびに遠ざかる理想。漸近線とは無限の彼方でも決してそれに到達し得ない哀しき目標なのだ。だからこそ，それでも理想に近づこうとする行為は崇高的なまでに美しい。それを具現する世界を構築する，美しく巧妙に設計されたこの装置，それこそが「博物館惑星」なのだ。その理想まであともう一歩，という美しい世界，それは理想的なまでに美しい。こんなSFがあったなんて。</p>]]>
      
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    <title>ギリシャ，プチ予習ちう。</title>
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    <modified>2006-02-18T14:28:35Z</modified>
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    <created>2006-02-18T14:28:35Z</created>
    <summary type="text/plain">Καλησπερα！ 来週からアテネです。いや，オリンピックじゃなくて(ってそれはトリノか)。いちおう仕事です，仕事。今回も会議でほぼ全日程カンヅメなんで，あんまし観光とか出来なさそうですが，地図で見るとアクロポリスとかアテネ市街のど真ん中にあるし（大阪城公園みたいなもんかな？）フラリと散歩にいけそうかも。今回は珍しくヒコーキもホテルも大夫前に取ったし，ロンリープラネットも買ったし，比較的旅支度は順調です。今回こそ直前にドタバタせずに済みそうかも(笑)。</summary>
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      <name>potaro</name>
      
      
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    <dc:subject>3. music</dc:subject>
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      <![CDATA[<p>Καλησπερα！　 来週からアテネです。いや，オリンピックじゃなくて(ってそれはトリノか)。いちおう仕事です，仕事。今回も会議でほぼ全日程カンヅメなんで，あんまし観光とか出来なさそうですが，地図で見るとアクロポリスとかアテネ市街のど真ん中にあるし（大阪城公園みたいなもんかな？）フラリと散歩にいけそうかも。今回は珍しくヒコーキもホテルも大夫前に取ったし，ロンリープラネットも買ったし，比較的旅支度は順調です。今回こそ直前にドタバタせずに済みそうかも(笑)。</p>

<p>で，今日は晩飯のBGMにぽた家所蔵音盤の中から数少ないギリシャ関係CDをかけ，予習ちう(いったい何の？)。それにしてもギリシャ関係，掻き集めて見るも，少ないなー。アンゲロプロスのサントラが数枚，パニアグアの<a href="http://www.amazon.com/gp/product/B00004TVG7/qid=1140279082/sr=2-2/ref=pd_bbs_b_2_2/002-4059142-2996034?s=classical&v=glance&n=5174">古代ギリシャの音楽</a>（これは正確にはギリシャの音楽と言えるかどうか・・・），純粋なギリシャ民謡はたったの２枚！・・・うーむ。少ない。少なすぎる・・・。これはアテネでしこたまアヤしいＣＤを買い付けてこなければっ(笑)。</p>

<p>それにしても，ぽた家所蔵のギリシャ音楽って，どれも暗い。渋い。物哀しい。はっきり行ってマイナー(短調)です。どよーんとした雰囲気。確かにぽた郎の脳内イメージでは，ギリシャって，青い海！白い家！・・・ではなく，どよーんと垂れ込めた低い雨雲だったり，雪のそぼ降るオリンポス山だったり，対ナチ・レジスタンスとか軍事独裁政権とか，なんかくらーい寂しーいイメージばっかり。それって偏見？　たぶんアンゲロプロスの映画の見過ぎなのかも知れません(笑)。それにしても，まさにこの時季ギリシャに行くにはぴったりのイメージかも。日本の観光ガイドには，ギリシャも四季がありますよ，雪も降る季節もありますよ，って盛んに注意書きがしてあるのですが，それってあったりまえやん，って思うぽた郎の方がヘンなのかなぁ。</p>

<p><a href="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/IMGP1361.html" onclick="window.open('http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/IMGP1361.html','popup','width=480,height=640,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/IMGP1361-thumb.JPG" width="60" height="80" border="0" hspace="5" align="right" /></a>などと，つらつら書庫を家捜ししてたら，なんと，ガビーン，写真の如く，まーったく同じＣＤが二枚も発掘されちゃったりして・・・。ぽた子さんに「自分の頭で覚えきれないんだったら，そろそろＣＤ買うのやめにしたら〜」とまた白い目で見られちった。(-_-; ちなみに写真のにやけたおっさんはVassilis Tsitsanisという今はなきギリシャの国民的英雄・ギリシャ民族音楽の巨匠です（おっさん言うたら失礼ですな)。ブズキ bouzouki というギリシャの民族楽器の第一人者。哀愁漂う演歌調のまさに心なごむ素朴な「民謡」です。ウゾをひっかけながら飲むのに最適〜。・・・さて，ということで，こんなＣＤでも，もしお好きな方がおられましたら，先着１名さまに差し上げまーす。ただし，ぽた郎のお知り合い（いままでリアルorネット上でお話したことある方）で，直接手渡し出来る方（関西近辺，東京・名古屋・福岡であればそのうち出張の予定アリ）限定。お代は結構ですが，パブかバーで一杯おごって下さい（そっちの方が高くつくカモ)。あるいはお菓子とか自転車とか(?)物々交換でもＯＫでーす。</p>

<p>あれ？デジャヴ？　前にも<a href="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/000789.html">似たような記事があった</a>よーな(笑)。</p>]]>
      
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    <title>公正な報道とは。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001153.html" />
    <modified>2006-01-23T14:10:47Z</modified>
    <issued>2006-01-23T23:10:47+09:00</issued>
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    <created>2006-01-23T14:10:47Z</created>
    <summary type="text/plain">三日連続，政治的な話題で恐縮至極。深夜の帰宅で深夜の夕食を食べながらネットニュースを見てたいら，堀江氏が逮捕されていた。ま，これについては多くの人が多くのことを語っているので(語るであろうので)，ここでは多くは語るまい。ただ，ライブドア社の姿勢について，おそらくたぶん誰も指摘してくれないと思うので，とりあえず一言。【速報】ライブドア社長ら４人を逮捕 　http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1657419/detail?rd 「逮捕はやむを得ない」　ＩＲと会計専門の早稲田大学の花堂靖仁教授に聞く 　http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1657479/detail 1月23日のlivedoor動画ニュース（ライブドア関連ニュース - 「ライブドア社長ら４人を逮捕」「ライブドア 『お知らせ』を発表」「堀江氏逮捕受け 社内の反応」「堀江氏支援と捜査は『別問題』」「ライブドア株 売り止まらず」） 　http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1657868/detail 自社のトップが逮捕された報道機関というのはなかなかお目にかかれるものではないが，ライブドアは自社リソースのニュースの中で，自社の社長を指してちゃんと「堀江容疑者」と呼んでいた。当然と言えば当然だが，報道の公平性からすれば，これは立派。明日になったらニュースの洪水で隠れてしまうだろうが，その点はちゃんと評価してあげたい。ライブドアもこういう風に公平で公正な態度を地道に積み重ねて行けば，そのうち汚名返上することもあるだろう。それが「信用」というものだ。信用は，金では買えない。 　...</summary>
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    <dc:subject>6. politics</dc:subject>
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      <![CDATA[<p>三日連続，政治的な話題で恐縮至極。深夜の帰宅で深夜の夕食を食べながらネットニュースを見てたいら，堀江氏が逮捕されていた。ま，これについては多くの人が多くのことを語っているので(語るであろうので)，ここでは多くは語るまい。ただ，ライブドア社の姿勢について，おそらくたぶん誰も指摘してくれないと思うので，とりあえず一言。<ul><li>【速報】ライブドア社長ら４人を逮捕<br />
　<a href="http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1657419/detail?rd">http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1657419/detail?rd</a><br />
<li>「逮捕はやむを得ない」　ＩＲと会計専門の早稲田大学の花堂靖仁教授に聞く<br />
　<a href="http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1657479/detail">http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1657479/detail</a><br />
<li>1月23日のlivedoor動画ニュース（ライブドア関連ニュース - 「ライブドア社長ら４人を逮捕」「ライブドア 『お知らせ』を発表」「堀江氏逮捕受け 社内の反応」「堀江氏支援と捜査は『別問題』」「ライブドア株 売り止まらず」）<br />
　<a href="http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1657868/detail">http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1657868/detail</a><br />
</ul>自社のトップが逮捕された報道機関というのはなかなかお目にかかれるものではないが，ライブドアは自社リソースのニュースの中で，自社の社長を指してちゃんと「堀江容疑者」と呼んでいた。当然と言えば当然だが，報道の公平性からすれば，これは立派。明日になったらニュースの洪水で隠れてしまうだろうが，その点はちゃんと評価してあげたい。ライブドアもこういう風に公平で公正な態度を地道に積み重ねて行けば，そのうち汚名返上することもあるだろう。それが「信用」というものだ。信用は，金では買えない。<br />
　</p>]]>
      
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    <title>情緒と合理，安心と安全</title>
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    <modified>2006-01-22T05:42:10Z</modified>
    <issued>2006-01-22T14:42:10+09:00</issued>
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    <created>2006-01-22T05:42:10Z</created>
    <summary type="text/plain">昨日に続いて，もひとつオヤヂくさい説教を垂れてもよかですか。今，新聞やテレビをにぎわせているもう一つの「大事件」，牛肉輸入問題です。これについても，まあ一億総評論家状態で数多の意見が出されてますが，やはり，誰もことの本質を言い当ててない。そんな気がします。唯一，それを言っているのは，しかも以前から予見しているのは，伏木亨の『人間は脳で食べている』（註１）くらいなんじゃないでしょうか？　結局のところ，日本政府もマスコミも，それから肉食大好きの国民も，首尾一貫としていません。場当たり的に右往左往。自分たちが何を求めているのか，相手にどう求めて行けばいいのか，わかってません。そりゃあ国際問題，良くも悪くも政治的駆け引きもあるでしょう。でも，首尾一貫とした戦略がなければ，結局は相手の思うつぼ。他の外交問題も含め，戦略なさすぎ。とほほ状態です</summary>
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    <dc:subject>6. politics</dc:subject>
    <content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/">
      <![CDATA[<p>昨日に続いて，もひとつオヤヂくさい説教を垂れてもよかですか。今，新聞やテレビをにぎわせているもう一つの「大事件」，牛肉輸入問題です。これについても，まあ一億総評論家状態で数多の意見が出されてますが，やはり，誰もことの本質を言い当ててない。そんな気がします。唯一，それを言っているのは，しかも以前から予見しているのは，伏木亨の<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480062734/qid%3D1137907318/249-5739118-3173159">『人間は脳で食べている』</a>（<a href="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001152.html#more">註１</a>）くらいなんじゃないでしょうか？　結局のところ，日本政府もマスコミも，それから肉食大好きの国民も，首尾一貫としていません。場当たり的に右往左往。自分たちが何を求めているのか，相手にどう求めて行けばいいのか，わかってません。そりゃあ国際問題，良くも悪くも政治的駆け引きもあるでしょう。でも，首尾一貫とした戦略がなければ，結局は相手の思うつぼ。他の外交問題も含め，戦略なさすぎ。とほほ状態です。</p>

<p>　今回，何故アメリカがこうもアッサリ非を認め，日本政府に謝罪をし，再び禁輸を呑んだのか，残念ながらあまり多くのマスメディアはそれを分析してくれていません。彼らが非を認めたのは，<b>安全でないことがわかったから</b>という科学的根拠に基づくものではありません。ましてや，<b>安心でないことがわかったから</b>という情緒的問題でも決してありません。単に，<b>自らの落ち度で契約違反があったから</b>，それだけなのです。これは欧米の契約社会（その精神的立脚は「聖書」にまで遡ります）を考えれば，容易にわかることです。情緒よりも合理，合理よりも契約。今回，それをちゃんとわかってるマスコミや評論家，そして消費者はどれほどいるでしょうか？　残念ながら，聞こえてくる意見は，「それみたことか，やっぱりアメリカ産はあぶない」「アメリカは信用できない」などなど・・・。どれも全く的はずれな議論です。</p>

<p>　冷静に考えれば，すぐわかります。今回のアメリカ側のミスが発覚したことにより，日本に輸入されるアメリカ産牛肉の安全性は少しも下がったり上がったりした訳ではありません。問題の部位はアメリカ国内や他の国へは「安全」として流通しているものなのです。科学的な根拠に立脚すれば，20ヶ月齢以下の若い牛であれば，危険とされる部位(背骨)などを習慣的に食べても，人間が発症した例は存在せず，もしあったとしてもその確率は飛行機事故よりも自動車事故よりも喫煙で肺ガンになる確率よりも桁違いに低いのです。今回の混入問題発覚により，その発症確率が上がったり下がったりするわけではありません。アメリカは確かに日本に謝りました。何を？　それは安全性の低下に対してではありません。日本向けに輸入しないと契約した危険(と日本が指定している脊柱)部位を混入させてしまったという，己の契約不履行を謝ったのです。ということは，その契約が再び結べる状態になったのなら，更に前回よりも語気を強めて，輸入再開を強く求めて来るであろうことは容易に予想できます。その時，日本はまた情緒的に応酬するのでしょうか？　そうなったら国際世論として(国内世論ではありません)，どちらに軍配が上がるでしょうか？　勝負は目に見えてます。</p>

<p>　もちろん，情緒的な安心感，というものを，私はバッサリ切り捨てたいとも思いません。前述書の著者の言うとおり，人間の感じるおいしさは今や五感だけでなく情報から得るところも大なのですから，消費者行動として，それを全く無視するのもナンセンスだと思いますし，私自身も「情緒」という文化は大事にしたいと思っています。では，何が問題なのでしょうか？　それは<b>政府がちゃんとアメリカや他国に説明責任を行っていない</b>からです。日本文化は風土的歴史的に他文化と比べ清潔感や清浄感をことさら重視する傾向にあること，それが消費や経済にまで多大な影響を与えること，など，<b>相手の文化や価値観に即した翻訳を行って，自国の立場を相手に説明をしなければならないのです</b>(例えば，情緒感や風評はマーケティング上重要なファクターなので，彼ら(契約型資本主義経済)に取っても重大問題であるという認識は十分共有化できるはず)。また，相手の価値観を分析して，次はどう行動するかどう反応するかを予測しなければならないのです。そういった説明の努力を怠ってる。まるで戦没者祈祷問題で揉めてるどこかの国の首相みたいですね（あ，自分の国のだった(笑))。<b>同様に政府は，国民に対してもきちんとした説明責任を履行していません。</b>十分な科学的根拠に立脚しない全頭検査をするということは，それだけ理由が不明瞭の予算をとるわけで，そのぶん他の予算が減らされるわけです。例えば，鳥インフルエンザ対策とかハンセン氏病補償問題とか出産費用無料化とか。それら大きな枠組みの中でどれを優先的に対処するべきか，というのが本来政治家や官僚の行うべき仕事ですが，彼らは目先の選挙と地元の利益ばかりを気にしたり，縦割り行政で既得権競争に終始したりと，大局的な視野に立って戦略を練るにはほど遠い状態です。これじゃあ国民が納得するような政策はでないのも当然。マスコミもマスコミで，いちばんタチが悪いのは，情緒と理論を場当たり的に都合良く使い分け，耳あたりのよいが首尾一貫しない論調で消費者の不安を煽る。冷静で理論的な分析はテレビ受けしないからあまりやらない。そういった政府やマスコミの首尾一貫のなさが，この問題をここまで大きくしている根本原因なのではないでしょうか？・・・そして，そういった政府やマスコミを，我々消費者が支えているのです，彼らに踊らせられながら。</p>

<p>　では，消費者はどのような態度に出ればよいでしょうか？　重要なのは情報に煽動されて，惑わされないことです。己の立場を容易に豹変させないことだと私は思います。もしあなたが，どうしても牛肉をたくさん食べたいという快楽を追求したいのであれば，自己の生命に甚大な影響を与える確率でない限り，それを受容して摂取するのも一つの手でしょう（アメリカ人が牛肉を食べるように。喫煙者が煙草を吸うように)。もしあなたが，どうしても情緒的に感覚的に安心して牛肉を食べることができないと思うのであれば，情報に一喜一憂せず，長期的に牛肉を食べる機会を大きく減らしてみたりするのもよいかもしれません。（余談ですが，現代人は肉食依存症で，食べなくてもよいものを食べて栄養素を過剰に摂取しすぎです。それはまた別の話題として，いずれ書きたいと思います。）あなたが今から食べようとしている牛肉は，あなたが本当に食べたいと思っているものでしょうか？　五感としておいしいと感じているものなのでしょうか？　あなたは情報を食べていませんか？　情報に食べさせられていませんか？　<b>食の「安全」は政府や業者に厳しく追及しなければいけないことですが，「安心」は誰かに決めてもらうことではありません</b>。そのことが，我々に一番足りない情報なのではないでしょうか。</p>]]>
      <![CDATA[<p>ちなみに，この本では，タイトルの「脳で食べている」に象徴されるとおり，人間の味覚と情報の関係をわかりやすくかつ理論的に解き明かしています。その中で，ほんのわずかな部分ですが，「<b>情緒的な安心感の構築</b>」というキイワードで，BSE問題にも触れています。</p>

<p><b>■<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480062734/qid%3D1137907318/249-5739118-3173159">伏木 亨：「人間は脳で食べている」, ちくま新書　(2005).</a></b><blockquote>　BSEの全頭検査は，疾患の原因物質と考えられている牛肉の異常プリオンによる汚染を検出することが本来の目的である。これを行うことによって牛肉に対する安心が情緒レベルでも高められた。<font color="gray">（中略）</font><br />
　全部という言葉が非常に説得力を持つ。この言葉に国民は安心している気配がある。<br />
　一方，20ヶ月齢以下の若い牛から異常プリオンが検出された例はないこともあって，若い牛の検査にまで固執するのは科学的に意味がないとアメリカが主張する。余計な経費がかかるだけで科学的な意味がない。これも理屈である。<font color="gray">（中略）</font><br />
　日本には全部の牛が検査されたという事実を基盤にした<u>情緒的な安心感の構築</u>があったのである。アメリカの牛の解体処理や検査がていねいに行われているかという疑問の声もある。それはさておくとして，科学的根拠に基づいて全頭検査を省略しても恐らく実質的には違いは生じないだろうが，<u>情緒的な安心感には傷が付く</u>。<br />
　このあたり，アメリカ農務省高官が理解するかどうかは本書の執筆時点ではわからない。しかし，食品に対する安心の確保が科学で割り切れるとするのは，日本の消費者心理に対する洞察を欠くのではないか。この問題がこじれる理由がそこになる。日本側の取るべき立場を諮問された委員会は噛み合わない二つの国の発想の板挟みになる。<br />
　全頭検査廃止問題には敏感に反応しながらも輸入禁止以前に貯蔵された米国産牛肉を使った牛丼は受け入れる。<br />
　「ヘンな日本人」<br />
　<u>輸出側から見ると訳のわからない行動に映るだろう。たしかに論理的ではない。</u>理解に苦しむ米国が「悪意があるのでは」と邪推する恐れもある。日本人の清浄感に対する科学で割り切れないこだわりである。　　　<font color="gray">（下線部はぽた郎による）</font></blockquote>本の奥付をみると2005年12月発行とありますので，原稿を書いたのは数ヶ月前。まさにタイムリーな評論で，その後の輸入解禁から今回の混入発覚，再禁輸までを見事に予見する見事な分析と言えるでしょう。このエントリの話題とは大きく関係はありませんが，ご興味のある方はご一読を。</p>]]>
    </content>
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    <title>市場とは誰のものか？</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001151.html" />
    <modified>2006-01-21T16:33:35Z</modified>
    <issued>2006-01-22T01:33:35+09:00</issued>
    <id>tag:www.potterist.com,2006:/potarodiary/diary3//5.1151</id>
    <created>2006-01-21T16:33:35Z</created>
    <summary type="text/plain">自分は株はやらないし，株のことを語るのもなんだかオヤヂ臭い(と思われそーな)んであまり好きじゃないのよ。しかし，なんでしょうかね，この昨今の狂乱は？　何かが狂ってないでしょーかね？　テレビとかインターネットで百家争鳴の議論の中，誰もことの本質を捉えていないのは何ででしょうかね？（いや恐らく良心的な研究者などはそう言ってるんだと思いますが，残念ながらマスメディアにまでは声が届かないのかもしらんな・・・。）というわけで，マスメディア経由の発言ではなかなか掌を打つような発言が見あたらないので，我慢できずに自分で書いてみることにしました。経済の専門でもなんでもないシロート発言なんですが。やっぱりオヤヂの説教臭くなってしまいますが。</summary>
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      <name>potaro</name>
      
      
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    <dc:subject>6. politics</dc:subject>
    <content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/">
      <![CDATA[<p>自分は株はやらないし，株のことを語るのもなんだかオヤヂ臭い(と思われそーな)んであまり好きじゃないのよ。しかし，なんでしょうかね，この昨今の狂乱は？　何かが狂ってないでしょーかね？　テレビとかインターネットで百家争鳴の議論の中，誰もことの本質を捉えていないのは何ででしょうかね？（いや恐らく良心的な研究者などはそう言ってるんだと思いますが，残念ながらマスメディアにまでは声が届かないのかもしらんな・・・。）というわけで，マスメディア経由の発言ではなかなか掌を打つような発言が見あたらないので，我慢できずに自分で書いてみることにしました。経済の専門でもなんでもないシロート発言なんですが。やっぱりオヤヂの説教臭くなってしまいますが。</p>

<p>先日の日経新聞の社説（ああ，オヤヂ臭い！(笑)）にこう書かれてありました。<blockquote>・・・かつて株式市場の主役だった金融機関や事業会社は株価変動やその影響のクッションの役割を果たしていた。持ち合い解消で主役になった個人や外国人の投資行動は，上げ相場で買い，下げ相場で売る，順バリに傾きがちで，目先の材料に過剰反応する傾向が強く，影響は家計に直接及ぶ。純投資家主体の市場になったことで，株価形成は中長期的には投資価値を反映したものに近づいた半面(ﾏﾏ)，短期的には不安定性を増し実体経済への影響の表れ方も変わった。　　　<font color="gray">日本経済新聞 2006年1月19日(木) 第2面 社説</font></blockquote>このへんが，とりあえず現時点で一番冷静で的を射た分析なんじゃないでしょうかね。そこからもう一歩踏み込んで発言して欲しかったですが，日経さんも社説じゃ責任重いしね・・・。</p>

<p>さて，最近では小学生などにも株の勉強をさせると聞きます。正しい株の知識を身につけるのであれば，それはそれで構わないでしょう。しかし，「正しい株」「正しい株式市場」とはいったい何でしょうかね？　教える大人も，教わる小学生も，日本全体が，いや地球全体が，みんなそのことを忘れてちゃってはいませんかね？　<b>株式市場とは個人が儲けるための場ではない</b>のですよ。<b>市場とは社会全体を維持し育成するためのもの</b>でしょーが。「持てる人」は持てる資金を株として，ある会社に投資し，場合によっては経営に参画し，会社を養う・育てる，という義務と責任（とそれゆえのリスクと報酬）があるわけです。これは個人でも法人でも同じ。そうやって，社会全体に資本を血液のように循環させるのが，株という手段ではなかったんですかね？　</p>

<p>本来，株ってもんはそれを保有し，その配当で利益を受けるもんでしょ。それが，最近ではインターネットという武器を手にしたこととも相まって，短期的な売買を繰り返し，その差益で利潤を稼ぐデイトレーダーみたいなのばっかりになっちゃったようですね。バブル期もそういう輩が多かったですが，今はそれがさらに社会全体に薄く広く散じているような気がします。彼らは，社会全体を見渡して，ある会社を育てようとか，ある産業を育成しようとか，そういう大義名分がないよね。愛がない。ほんまに自分さえ儲かりゃいい，ってカンジでなりふり構わない。それでいいんですか，みなさん？　一億，十億とカネを持ってる人は（それと，たとえ数万でも市場に投資してる人は)，そのカネはもはやあなた個人だけのカネではないんですよ。社会責任のある公の（パブリックな）カネなんですよ。株はリセット可能なRPGのバーチャル通貨じゃないんですよ。<b>株とは，モノもヒトも技術も頭脳も，そういった実体が伴う重〜いものを背負った証書</b>なんですよ。そのこと，わかってるんでしょうかね？</p>

<p>いや，結果として儲けたりついでに儲けたりするのは構わないんですけどね。儲けがなければ投資が持続しないから。しかし，みんながみんな利己的に儲けに走ったら，社会は破綻しちゃいますよ（んで，今回のような状況になるわけです)。もちろん，私がこんな小言を言うのも，それが古典的資本主義観の大義名分に過ぎないということは十分わかってるんですがね。でも，大義名分さえ忘れ去られてしまうような，この昨今のタガが外れた傍若無人な拝金狂騒曲はいったい何なんでしょうかね？　お金持ちになりたい，お金稼ぎたい，それもまあＯＫ。でもキミたち，<b>お金持ちになって，それからどうするの？　その金をどう使うの？　どう社会に還元するの？</b>　それをまず小学生に教えなさい。それから，社会やヒトに興味のないカネにしか興味のないデイトレーダーたちにも。そうでないと，日本が，地球が滅んじゃうよ。なんとかしてよ。</p>

<p>ほんまにもー，オヂさんは怒ってるんだから。この現状を引き起こしたヒトたちに。それからこの現状の本質を見ようとしないヒトたちに。問題の本質は，ホリエモンとか東証だけじゃないのよ。みんな，気が付いてよ。</p>]]>
      <![CDATA[<p>と，この記事を書いてから一夜明け，新聞を広げると，こんなことが書いてありました。<blockquote>・・・だが，一歩引いてみれば，ライブドア・ショックはネット企業の世代交代を促す契機になるかもしれない。日本のネット産業には「ポスト堀江(貴文ライブドア社長)」世代と呼ばれる一群の経営者がいる。<br />
年齢は三十歳前後で，2000年のネット株バブルの終えん前後に起業した。先輩たちに比べ，マネーゲームとは一線を画し，その分技術重視とグローバル思考が強いのが特徴だ。<font color="gray">（中略）</font><br />
マネーのうたげが終わり，厳しくなった投資家の目にかなった企業だけが生き残る。「ライブドア事件を機に，日本にも世界に通用するグーグルのような企業が登場する土壌ができてほしい」。ネット企業に詳しい金融関係者は期待する。<font color="gray">（中略）</font><br />
今回の事件を海外メディアは「日本が新興勢力をつぶした」と報じたが，よく見て欲しい。日本でも，はてなのような技術志向のベンチャーがはっきり育ちつつある。　　　<font color="gray">日本経済新聞 2006年1月22日(日) 第1面「ライブドア／ショック」試練の資本市場ー３−」</font></blockquote>このような調子で，日経の記事は「はてな」のおよび同社近藤社長を名指しで取り上げ，同社を好意的に紹介してました。おや，こんなところに「はてな」が。いやいや，ぽた郎もドップリ利用させて頂いておりますよ。なんか親近感〜(笑)。</p>

<p>日経の記事は全てをそのまま鵜呑みにすることはできませんが，やはり日本で最もオーソライズされた経済新聞。その新聞の一面でこのように<b>技術志向</b>をキイワードとした前向きな（やや楽観的ではあるが正論の）意見が出されることは評価に値するのではないでしょうかね〜。日本もまだ捨てたもんではない，と。私もそう思いたいです。</p>

<p>あー，最後の最後まで，オヤヂ臭い記事になっちまった。(笑)</p>]]>
    </content>
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    <title>日記を毎日書く人はエライ。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001141.html" />
    <modified>2006-01-04T14:51:30Z</modified>
    <issued>2006-01-04T23:51:30+09:00</issued>
    <id>tag:www.potterist.com,2006:/potarodiary/diary3//5.1141</id>
    <created>2006-01-04T14:51:30Z</created>
    <summary type="text/plain">明けまして（今更ながら）おめでとうございます。今更ながらの新年のご挨拶でございます。世の中には三日坊主という言葉もございますが，その三日間すら日記を書かなかったぽた郎は，さしずめマイナス三日坊主ということでしょうか(笑)。てゆうか，遡ってみたら，なんと８月以来この「形而上日記」を書いてませんでした。ありゃ〜。(x_x) 日記（ブログ）を書けてない，というのは，私にとって決して日記を書くことに飽きたとか倦んだというわけでは決してないのです。書きたいことは山ほどあるのですが，兎にも角にも時間がナイ，暇がナイ。日々あれこれ考え，あれこれ書きたいと思い，日々何かに追われ，流れて行く・・・。そんな繰り返しです。当初は書けない日記が流れて行くのにイライラしたり悶々としたりして，いっそのこと全部やめや〜っ！とも思ったりしましたが，最近は，ま，書けないのもしゃーない。細々とたまにポツポツと書くのもええやろ，それも定めか・・・とも思ってきました。 日記が書けないのは，何かに追われてるとき。何か，とはたいてい期日や責任が重くのしかかった差し迫った仕事。こういうときって，純粋に書く時間はあっても，精神的に書けないんですよね，一行も。以前は，〆切終わってホッと一息，さて日記でも書くか，という時間もあったのですが，去年あたりから，〆切連峰の峠の連続で，ホッと一息つく余裕もナシ。一息ついたらついたで，ほんまにボヘ〜っと放心モードで日記も書く余裕ナシ。そんな一年でした。多分今年もそう。とはいえ，このまま日記をフェードアウトしてしまうのも，なんか仕事人間になってしまいそうでイヤなんで，そうならないための最後の心の砦として，この日記も開店休業中ながら閉店せず，なんとか精神的安定を保っている今日この頃デス。 唐突ですが話は少々変わりまして，昔，ぽた郎が小学生のころ，アンネ・フランクの日記とかユンボギの日記とかを学校で読まされたわけですが，それを読んで目からウロコ，カンドーしました。がびーん。「日記って毎日書かなくてもいいのか・・・。」・・・そうです。日記は書けるときでいいのです。書けないときは書かなくてもいいのです。ぽた郎は幼いながらも，天啓のようにそう理解しました(笑)。それ以来，ぽた郎は日記を毎日続けて書くことが出来なくなってしまいましたとさ・・・。（ヲイ，それがオチかいっ） ま，そんなわけで，これからも，ダメダメ低空飛行ながら，ボチボチポツポツと気まぐれに書き続けて行きたいと思います。みなさま，こんな軟弱な日記ですが，もしよければ，今後ともよろしくお願い致します・・・。...</summary>
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      <name>potaro</name>
      
      
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    <dc:subject>9. metaphysical soliloquy</dc:subject>
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      <![CDATA[<p>明けまして（今更ながら）おめでとうございます。今更ながらの新年のご挨拶でございます。世の中には三日坊主という言葉もございますが，その三日間すら日記を書かなかったぽた郎は，さしずめマイナス三日坊主ということでしょうか(笑)。てゆうか，遡ってみたら，なんと８月以来この「形而上日記」を書いてませんでした。ありゃ〜。(x_x)</p>

<p>日記（ブログ）を書けてない，というのは，私にとって決して日記を書くことに飽きたとか倦んだというわけでは決してないのです。書きたいことは山ほどあるのですが，兎にも角にも時間がナイ，暇がナイ。日々あれこれ考え，あれこれ書きたいと思い，日々何かに追われ，流れて行く・・・。そんな繰り返しです。当初は書けない日記が流れて行くのにイライラしたり悶々としたりして，いっそのこと全部やめや〜っ！とも思ったりしましたが，最近は，ま，書けないのもしゃーない。細々とたまにポツポツと書くのもええやろ，それも定めか・・・とも思ってきました。</p>

<p>日記が書けないのは，何かに追われてるとき。何か，とはたいてい期日や責任が重くのしかかった差し迫った仕事。こういうときって，純粋に書く時間はあっても，精神的に書けないんですよね，一行も。以前は，〆切終わってホッと一息，さて日記でも書くか，という時間もあったのですが，去年あたりから，〆切連峰の峠の連続で，ホッと一息つく余裕もナシ。一息ついたらついたで，ほんまにボヘ〜っと放心モードで日記も書く余裕ナシ。そんな一年でした。多分今年もそう。とはいえ，このまま日記をフェードアウトしてしまうのも，なんか仕事人間になってしまいそうでイヤなんで，そうならないための最後の心の砦として，この日記も開店休業中ながら閉店せず，なんとか精神的安定を保っている今日この頃デス。</p>

<p>唐突ですが話は少々変わりまして，昔，ぽた郎が小学生のころ，<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4163596100/qid=1136385519/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/250-1026838-3544263">アンネ・フランクの日記</a>とか<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4803127018/qid=1136385576/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-1026838-3544263">ユンボギの日記</a>とかを学校で読まされたわけですが，それを読んで目からウロコ，カンドーしました。がびーん。「日記って毎日書かなくてもいいのか・・・。」・・・そうです。日記は書けるときでいいのです。書けないときは書かなくてもいいのです。ぽた郎は幼いながらも，天啓のようにそう理解しました(笑)。それ以来，ぽた郎は日記を毎日続けて書くことが出来なくなってしまいましたとさ・・・。（ヲイ，それがオチかいっ）</p>

<p>ま，そんなわけで，これからも，ダメダメ低空飛行ながら，ボチボチポツポツと気まぐれに書き続けて行きたいと思います。みなさま，こんな軟弱な日記ですが，もしよければ，今後ともよろしくお願い致します・・・。<(_._)></p>]]>
      
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    <title>ロンリープラネット主義！</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/001125.html" />
    <modified>2005-08-25T14:31:57Z</modified>
    <issued>2005-08-25T23:31:57+09:00</issued>
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    <summary type="text/plain">来月はアイルランド出張です。んで，先日，梅田に出てガイドブックを買ってきました。</summary>
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      <name>potaro</name>
      
      
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    <dc:subject>1. book</dc:subject>
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      <![CDATA[<p><a href="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/IMGP7515.html" onclick="window.open('http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/IMGP7515.html','popup','width=640,height=480,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/IMGP7515-thumb.JPG" width="80" height="60" border="0" hspace="5" align="right" /></a>来月はアイルランド出張です。んで，<a href="http://d.hatena.ne.jp/potterist/20050818">先日，梅田に出てガイドブックを買ってきました</a>。</p>

<p>　■<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1741040787/hatena-22/ref%3Dnosim/250-7259189-4486658">Tom Downs, et al.: "Lonely Planet Ireland" 6th Edition, Lonely Planet Publication (2004).</a><br />
　■<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/186450093X/hatena-22/ref%3Dnosim/250-7259189-4486658">Martin Hughes: "Lonely Planet World Food Ireland" 1st Edition, Lonely Planet Publication (2000).</a></p>

<p>ぽた家が海外出張／海外旅行するときのガイドブックはいつも<a href="http://www.lonelyplanet.com/">ロンリープラネット</a>です。これが一番情報が多いから実に重宝してます。「地球の歩き方」も「るるぶ」も「マップル」も悪くはないですが，これはまあ必要なところを図書館とかで断片的にコピーして使うくらいかな。ロンリープラネットは保存版として旅の思い出を詰めて本棚に並べておくのもよし，実際旅行に持って行ってこれを片手に街をウロウロするのもよし。ぽた家にとってはなくてはならないガイドブックです。いやいや，ぽた家だけでなく，ロンリープラネットは世界中のバックパッカーの必携の書。さらに，バックパッカーの若者だけでなく老若男女の旅行の供です。世界中で愛される理由はちゃんとあります。まずはそこからご紹介。<b>ロンリープラネットのよい点</b>（ぽた郎&ぽた子が個人的に気に入っている点）を列挙してみます。<ol><li>データが満載。「地球の歩き方」や「るるぶ」，「マッ