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July 27, 2005 | 佐藤史生,少女マンガのジェンダー観
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mixiのコミュで「佐藤史生」という超マニアックなコミュがあります。佐藤史生をご存じの方は偉い!ゼヒお友達になって下さい(笑)。というくらい,今や忘れられてしまった超マイナーな漫画家。でもかつて地道に流行って,その隠れ信者は決して少なくないハズ。私も「一番好きな漫画家かは?」と未だに「佐藤史生」とキッパリ答えてます(たいていの場合,相手は「誰それ?」と困ったような顔をしますが・・・)。
で,その「佐藤史生」というマニアックなコミュで細々とマニアックな会話が展開されております。その中で,佐藤史生のジェンダー観についての記事がありましたので,それに触発されて,書いてみることにします。トランスジェンダーやセクセレスは少女マンガではむしろもはやポピュラーなジェンダー観ですが,佐藤史生のそれは多くの少女マンガと同じように見えながら,まるで幻視者が現世を視るがごとく,凡百の作家を凌駕する独特の視線で描かれているような気がしてなりません。私が拙い言葉を手繰るより,うってつけの評論を思い出しましたので,それを引用します。たとえば,藤本由香里の評論に以下のような記述があります。
■藤本由香里:「私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち」,学陽書房, 1998
一方で少女マンガは,すでにみてきたように,新しい,さまざまな形のジェンダーイメージを提供してきた。それがよしんば,半ば空想の世界から生まれたにせよ,イメージというものは,実際に社会を変える力をもつ。少女マンガがそうしたイメージをつくりだせたのは,現行のジェンダー・システムの中で女性が常に劣位におかれ,搾取されがちであったこと(何度も述べた性に対する恐れはその帰結である),そのために現行のしすてむにさほど執着を持たなかったこと,そして生物学的にみて性自認がしっかりしているので,多少ジェンダーの要素をとりかえたところで,自分が女だということに根本の不安を感じずにすむ,ということがあげられる。結果として少女マンガの中では男と女は連続体だと考えられている。このようななかで,ひとは”どっちつかず”にはならない。自分の居心地のよい場所を選ぶだけだ。藤本の批評はジェンダーバイアスがかかりすぎるきらいがあり全体的に完全に賛同するわけではありませんが,この部分に関しては,思わずポンと掌を打ってしまいました。改めて読むとやはり,うまい。特異なジェンダー観を持つ少女マンガの中でもさらにユニークな佐藤史生の深遠な世界観(の一部)を非常に端的に表していると言えるでしょう(そしてもうひとりが山岸涼子というのも非常に興味深い組み合わせです)。ジェンダー論的には非常に魅力的で評論の標本になりそうなキャラクターが多い佐藤史生の作品の中で,唯一取り上げられたのが,最も滑稽かつ醜悪な(それが故に魅力的でもあるという反語表現も成り立つ)このキャラクター。佐藤史生のジェンダー観の本質を突いた(そして佐藤ファンの虚を突いた)選択は,まさに瞠目に値します。
もっとも少女マンガの中にも”どちらにもなれない”人間を扱った作品もあるが,私が知る限り二つしかなく,その二つとも問題の人物は「男性」に設定されているのが注意をひく。
一つは山岸涼子「キメイラ」で,これは文字通り,男と女が一つの身体でキメイラ状にまざりあった半陰陽者を扱っている。(中略)
もう一つは佐藤史生「オフィーリア探し」で,これも,レズビアンバーに勤める若い女性が続けて二人殺され,犯人をたぐっていくと,颯爽とした背の高い女にばけた男だったという筋書きである。しかし,女としては颯爽とした美しい肉体が,男としてはなぜこれほどまでに無惨な,できそこないに転ずるのかーー「その前に立って悄然と声もなく,ただおのれを恥じるこの感覚は何なのだろう?」ここにはまた,別の問題が口を開けている。男の性別越境を阻害するのは男ばかりではないのである。【註】原著には同ページに佐藤史生の「オフィーリア探し」から数カットのコマが引用されています。
斬新とはいえ読者の興味をただ満足させるためのジェンダー観の氾濫であれば,少女マンガももはやマニエリスム的な衰退を始めたと言えます。そうではなく,ざらついた鉛味の読後を敢えて与えて読者を突き放すような,辛辣な「毒」のある視点を提供してくれる作家もまだいるのです。そういった数少ない孤高の漫画家のひとりが,佐藤史生です。「ワン・ゼロ」の連載終了以降,まとまった長期連載は書かず,忘れられたころにポツリポツリと作品を発表する超寡作ぶり。しかし,まだ断筆宣言や引退宣言は出されていないはず(笑)。今後の作品を是非期待したいものです。いつまでもしぶとく,のんびりと待つことにします。それが,(私のみならず)佐藤史生ファンの心意気というもの。まだその世界に触れたことがない方も,是非,ミノタウロスの迷宮がごとき佐藤史生ワールドに分け入ってみて下さい。
続きもあります。>>|
July 25, 2005 | 杉浦日向子先生逝去
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http://www.asahi.com/obituaries/update/0725/001.html?ref=rss
突然の訃報で愕然です。杉浦日向子先生が逝去されました。ええ,先生と呼ばせて頂きます。人生の師。直接お会いしたことはないけれど,そう勝手に思ってる「弟子」は密かに多いに違いないでしょう。そんな魅力のある漫画と文章を書き続ける素敵な姉御でした。その渾々と湧き出る知と悦楽の泉も突然涸れ,もう我々の乾いた喉を潤しては呉れないのですね・・・。まだ46歳。若い,若すぎる。惜しい,惜しすぎる。日本文化にとって大きな損失です。・・・とはいえ,江戸時代の平均寿命は30歳程度。日向子先生なら,「エエモウ,十分長生きしたわ,ホホ」とか軽ろやかに笑って旅立ったんでしょうか。冥福をお祈りします
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July 15, 2005 | 「衝動買い日記」を衝動買いする。
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旅先で本屋に飛び込むのは楽しい。じっくり時間があるときに古本屋で舐めるようにして背表紙を追っていくのも愉悦であるが,例えば発車10分前の駅構内の小さな本屋で文庫本を電撃に抜き取るのもスリルがあって面白い(註:決して万引きではありません。ちゃんとレジに持ってきます(笑))。旅の名物や名所とは全く関係がないが,そうした本たち(の記憶)も土地の匂いが染みついた立派な旅のお土産にほかならない。
■鹿島茂:「衝動買い日記」, 中公文庫 (2000-2004).
さて,今回の旅で電撃的に引き当てた文庫本がコレ。その名も「衝動買い日記」。まさに衝動的に手が伸びました(笑)。鹿島茂とは,知る人ぞ知る物欲大魔神(失礼!)の大センセイ。なにせ「馬車が買いたい!」「子供より古書が大事と思いたい」などのショーゲキ的なタイトルの書物をお書きになる方。古書マニアとは蓋し斯くありなん。以て我が師とす。いつか見てろよ俺だって。欲しがりません勝つまでは(これは違うか)。・・・というほどぽた郎が愛して止まないステキな文章(そして物欲情報)をお書きになる方です。
と,崇拝している割には今頃になってしかも文庫本を古本屋で買ってくるシブちんのぽた郎ですが,まあそこはやはり,買うべきときに買った,という絶妙のタイミング。やはり本に呼ばれた,と言えましょう。タイトルのごとく,この本は物欲(しかも即物欲とでも言うべきか)のオンパレード。例えば・・・「腹筋マシーン」「ふくらはぎ暖房器」「猫の家」「男性用香水」「体脂肪計」「ごろねスコープ」「封書用ペーパーナイフ」「中華健康棒」「ミュージアム・グッズ」「しちりん」「毛沢東・スターリン握手像」・・・などなど。最後のブツなぞはみうらじゅんの「いやげもの」に近いパワーを発しています。しかもその値段はいやげもの価格にあらず。さすがです。その他全編に亘って,この鹿島センセイの物欲に対するダメダメぶり,実に微笑ましいです。天晴れ。おもしろうて,やがて哀しき衝動買い。衝動買いだよ人生は! ちなみに,鹿島教授の流儀では書籍は衝動買いにあらず(一件だけ例外的に75万円の挿絵本がリストアップされてますが)。この理論もむちゃむちゃですが素晴らしい。実にお手本になります。ウム。
ところでこの本,通勤電車の中ではお勧めできません。思わず吹き出したり身を捩りながら笑いを堪えたりして回りから白眼視されるから。日曜日の散歩の供にもお勧めできません。帰ったら首を傾げたくなる妙なシロモノを手に取ってレジに並んでしまう可能性があるから。給料日前の財布が侘びしいときに自宅で静かに心を空にして読みましょう(間違ってもクレジットカードを手に届くところに置いたり,ネット通販のサイトを開きっぱなしにしないこと!)。
さて,まさに我々(「我々」? そう,「我々」だ。そう,そこのあなた!)のバイブルのようなこの「衝動買い日記」ですが,この本を読んで,我が身を振り返ると・・・。スミマセン,ちょっと反省。よく考えたら,ワタシ,普段から決まったものしか買ってないのねン。本,CD,酒,(たまに)黒い服,本,CD,酒,(たまに)自転車,本,CD,酒・・・。嗚呼,なんて予定調和的な平凡な人生。こうやって自分の血となり肉となる有益な物しか所詮買う勇気がなかったのか・・・。私って衝動買いが出来ないチッポケな小市民なんですね。スミマセン,負けました。大センセイのようになるにはまだまだ修業が足りん・・・。
・・・とひとりごちてたら,ぽた子さんに「アホちゃうか」と一蹴されてしまいました。あーまた今日もぽた子さんに怒られちった。( ̄▽ ̄)
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July 11, 2005 | 久々にマーラーを聴く
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出張帰りに時間があったので久々にタワーレコードに寄りました。最近,職住接近はよいのだが,繁華街に出ること自体が少ないんであんまし文明的生活をしとりません・・・。というわけで,今日は久々にタワーでCDをドカ買い。こうやって数ヶ月にいっぺん,まとめて買うのだ〜。それぞれのアルバムの感想はまた機会があれば徐々に。ということで,今回はマーラーについて。
■MAHLER The Complete Symphonies, Brilliant Classics
実は幼少の砌(笑)にクラシックなんぞにハマってましたが,ここ10年ぐらいはすっかりご無沙汰しちゃって,全くといいほど,それこそ拒絶に近いほど聴いてなかったぽた郎です。(ちなみにぽた郎の極私的定義によると,「クラシック音楽」とは19世紀の音楽,すなわち「古典派」と「ロマン派」のことを指し,バロック音楽(バッハ以前)やウィーン学派(ウェーベルン以降)はクラシックではなーい!と勝手に考えてマス。)クラシックって,特にオーケストラって,五月蝿いんですよね。疲れるんですよ,聴いてると。学生時代はパワーありまくりだったから,いろいろ精力的に聴いたけど,情報量が多すぎてタイヘン。聴くにも結構体力使います。(ええ,軟弱者なんで・・・。(^^; )
というわけで,「いわゆるクラシック」のCDは殆ど実家に置いて来ちゃったので(例えばマーラーだったら全集が3セットくらいあったかな〜),殆どぽた家には存在しないジャンルだったのですが,極々たまーに脳内音楽でフト突然かかることもあり,さすがに10年も聴いてないと少し懐かしくなったりするわけです。で,今日,タワーレコードでボックスが超安く出てたんで,思わず衝動買い(またの名をオトナ買い)してしまいました。久々にちゃんと聴くマーラーもいいもんですね〜。
このボックス,あちこちのレーベルからかき集めたものなので(ブリリアントのよくやるワザ),指揮者の傾向やオケの音の作り方もバラバラですが,まあそれなりにどれもちゃんとした演奏で好感が持てます。マーラーだったらやれ緻密なシノーポリだの,迫力のバーンスタインだの,マニアックな聴き方もありますが,なんかそういうのにも飽きちゃったので(あ,でも個人的にはエリアフ・インバルのあっさりした解釈も好きー,とかマニア魂がちょっと蘇っちゃったり),こういうお手軽ボックスは有り難いデス。
というわけで,久々にマーラーをかけまくってます。今聴いてるのは6番の「悲劇的」。マーラーの中ではこれが一番好き。これを聴くと,ケン・ラッセルの映画を思い出しちゃいます。しかし,やっぱりブログとかを書きながらのBGMには必ずしも向かんなー(笑)。今,iTunesにせっせと入れてるんで,明日の出張の新幹線の中でも聴こう(iPod持ってないけど,PowerBookは持ってくんで)。9番あたりがいいかな。弾丸列車の中で目を瞑って聴くマラ9。・・・厭世ムードたっぷりで仕事する気なくしそう(笑)。
ところで余談ですが,こうやってクラシックの曲をiTunesに入れて改めて気づいたんですが,iTunesって,ポップスやジャズなんかの短い曲には向くけど,クラシックにはつくづく向かんなー。ライブラリに入れると楽章の順番とかぐちゃぐちゃだし,アタッカで次の楽章に入るのなんかどう制御するの? それに曲がディスク2枚にわたるときに「アーティスト」や「アルバム」の名前がバラバラだったり・・・もうむちゃむちゃ。iPod&iTunesでクラシック聴いてる人ってどうやって整理してるんでしょ? コツとかノウハウとかあるんかなー? てゆうか,やっぱりiPot&iTunesでクラシック聴くこと自体がムリがあるのか?(^^; どなたか,おせーて下さい。
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July 09, 2005 | 福岡で古本を漁る
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今回の九州出張の折りに一瞬だけ福岡に立ち寄った。街を歩いてると古本屋があったのでフラリと吸い寄せられるように中に入る。またしても本が呼んでるような気がしたのだ。今回の収穫物は・・・,
- 倉橋由美子:「アマノン国往還記」,新潮社 (1986).
- 辻邦夫:「眞畫の海への旅」,集英社 (1975). (「海」は旧字体)
- 辻邦夫:「時の扉」, 毎日新聞社 (1977).
- 中井英夫:「悪夢の骨牌」,平凡社 (1973).
- 中井英夫:「小説集 夕映少年」, (1985).
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July 03, 2005 | 塚本邦雄,雨の日曜のサティ,倉橋由美子
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雨の日曜日。どこかに出かけるのもおっくうなので,家でダラダラ過ごす。こんなに自由な時間をもてあましてみるのは,実に久々だ。ヒマにまかせて先日,京都の「アスタルテ」で買ってきた塚本邦雄の本を読む。
■塚本邦雄:「玉蟲遁走曲」,白水社 (1976). (絶版)
やはりこの人は只者ではない。ワーグナーと斑鳩,カルミナブラーナと梁塵秘抄,レオ・フェレから西條八十まで,時空を自在に往還する。旧字体旧かなづかいで,居合い抜き的辛口評論を展開する好々爺。元?ワグネリアンらしい氏であるが,エリック・サティに関しての微笑ましい論評があった。引用しよう。
エリック・サティは恐らくワグネリアンやベートーヴェン病患者やモーツァルティストには鼻持ちならぬ存在だらう。そして彼らを顰蹙させることが,結果的にはサティの目的だつたとも言へよう。音楽は哲学ではない。まして宗教などであらうはずもない。あの大層な情念の熱気,あの荘厳無比の理念と表白,不可解,不可批評の形而上学,それらの仮面がサティには耐へがたかつた。それらの恐るべき先入観と属性に汚染された音楽を,新鮮な大気(エール)と調べ(エール)に還元し,人人の<明暗(あけくれ)の額 = musique tous les jours>を創らうと考へたのだ。(原文は旧字体)雨の日曜日のアンニュイな午後,音楽をかけるのも億劫な気怠い気分の中で,突如,頭の中でサティが鳴りはじめた。そういえばぽた家書庫にもサティの音盤があったはず。そう思って書庫を家捜しすると・・・,おお,あった。ありました。サティ全集。そーいえばこんなん昔買ったっけね。いつ買ったかもう覚えておらん。それぐらい昔。
■ERIK SATIE, L' Oeuvre pour piano, Aldo Ciccolini (piano), EMI Classics CDS 5 55076 2(五枚組)
さっそくiTunesに焼き,テンポの遅い曲を選んでボリュームを絞ってかける。Gnossiennesとか,Vexationsとか,Deux petits choralsとか。日曜日の読書のBGMには最適な音楽。
サティをかけながら塚本邦雄を読む。そういえば,倉橋由美子もサティが好きだったっけな・・・と思い立ち,またまた書庫に降りてゆく。ああ,ありました。そのままずばり,「最後から二番目の毒想」。
■倉橋由美子:「最後から二番目の毒想」,講談社 (1986).
こちらは特に音楽評論(エッセイ)ではなく,文芸評論。改めて読み直すと,やはり倉橋女史ならではの毒のある,しかし愛のある辛口批評。あとがきから少し引用してみる。
最後にこの本のタイトルについて書いておくと,サティの愛好者ならすぐにお気づきのことと思うけれども,これはサティのピアノ曲「最後から二番目の思想」によるものである。(中略)私の書くものはほとんどが毒薬である。ただし,服用すれば正気に返るという効用のある毒薬である。それで,この本の中味を簡単に言えば,「いつも惰眠を貪っているふとりすぎた脳細胞を目覚めされるための毒言集」ということになる。もちろん,これもサティの「いつも片目をを開けて眠っているふとった猿の王様を目覚めされるためのファンファーレ」に倣ったものである。残念ながら,長すぎて本の背表紙に収まりそうにないので,タイトルにするのは諦めた。
日曜日の午後,BGMのサティを介して,二人の作家が繋がった。二人の作家の(そしてもうひとり作曲家の)共通点は,妖しく甘美な毒,棘のある美しい華,というところだろうか。ヨーロッパのカラリと乾いた思想と,アジアのしっとり湿った情念を適度に往来する二つの巨匠。奇しくもお二人とも,つい最近相次いでお亡くなりになられたばかり。改めて,この二人の後を継ぐ者がいるかと憔悴しつつ,一つの時代が終わったことに愕然としつつ,ご冥福を祈ります。