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February 27, 2005 | マンガ評論コミュ,立てました。
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そーいえばこちらで書くの忘れてましたが,数日前からmixiのコミュニティーで「マンガ評論」というコミュを立てさせていただきました。探したけどありそうでなかったもので・・・。マンガ評論って,マンガの世界でも評論の世界でもハミゴですきま産業的ですよね。でも私はそういう路地裏的文化が非常に気に入ってたりします。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=115459
なお上記リンクはmixiのメンバーじゃないと見れません。mixiにまだ入ってないけどとりあえず見てみたいぞ〜っ!という方は,ぽた郎にDM頂ければよければご招待致しますよ。(^^)
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February 26, 2005 | ニューヨーカー日本へ帰る。成田美名子論
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よく「京都のよさは30代にならないとわからない」とか言われますが,やっぱり日本文化のよさ,というのはオトナにならないと難しいでしょうかね? 日本文化(特に古典文化)の豊穣で複雑な世界は確かにそれを認識するのはある程度の訓練が必要なのかも知れませんし,あるいは単に学校や社会の教育のせいかもしれません。ま,ここではそういった政治的文化的要因の分析は置くとしましても,この国では(いや,どこの国でも?)若者の自国の古典文化に対しての軽視・無関心は避けられないのが現状のようです。
かく言うぽた郎も,子供の頃ピアノを習わせられてたというのもあってか,どっぷり「西洋かぶれ」な人生を送ってきました,今改めて思い起こせば・・・。「音楽」といえば当然クラシックもロックも含めて西洋音楽だったし,「絵」といえば当然西洋画だったし,「映画」を見に行くと言えば当然洋画だったし・・・,好んで読んだ「マンガ」の舞台も日本ではなくヨーロッパやアメリカの方が多かったような気がします。そう,ぽた郎は子供の頃,日本(の特に古いもの)があまり好きじゃありませんでした。いや,苦手でした,と言うべきかな。なにか得体の知れないぶよぶよじめじめと生ぬるい暗くて湿ったモノ・・・,そういう感じでした。少なくとも20代前半までは。こういう感覚って,ぽた郎に限らず,結構多くの人がそう思ってる(思ってた)んじゃないかな〜? どうでしょう?
さて,ここで成田美名子の登場です。成田美名子は言わずと知れた少女マンガの大家。もう巨匠の域に入りつつあつと言っていいかもしれません。テレビアニメにはなってないのでもしかしたら一般には知名度は低いかもしれませんが,マスコミに消費されないのが質の高さを維持する一端かもしれないですね。「エイリアン通り(ストリート)」「CIPHER(サイファ)」「ALEXANDRITE(アレクサンドライト)」と次々とヒット作を飛ばし,華やかで洒脱なアメリカンストーリーを書く漫画家・・・。作品群を敢えて辛口に短評すると,才色兼備の男女が己の弱点をさらに克服し成長する青春グラフィティー,特にアメリカが舞台なのがミソ,というところでしょうか。まさしく少女マンガとして大ヒットするための舞台装置を十二分に備えています。おそらくこういう評価だと思います,これまでは。その成田美名子がいま日本を書いてます。そう,ズバリ「お能」のマンガ。これはビックリ。最近どうしちゃったの〜? 成田サン,という感じです。(もちろん,いい意味で。)
■成田美名子:「花よりも花の如く」(1〜3巻),白泉社 花とゆめコミックス
伏線はありました。「エイリアン…」から「ALEXANDRITE」まで,80年代から90年代前半まで実に15年近くアメリカを舞台にしていた成田美名子が,前作「Natural」で遂に日本に帰ってきました(舞台を日本に移したということ)。舞台を日本に移したものの華やかな才色兼備たちのゴージャスストーリーは相変わらずやな〜,とも思ってたのですが,「Natural」はなんと,その後,「弓道マンガ」「神社マンガ」に進展しちゃったのです! もちろん「Natural」の段階では,弓道や神社は主人公およびサブキャラクターの成長に際しての付随的な舞台装置にしかすぎませんが,そのディテールは精緻を極め,若い読者の新たな興味を喚起しただろうことは想像に難くありません。
さて,今回の「花よりも花の如く」の登場人物は前作の「Natural」のそれをほぼ引き継いでいますので(その手法は成田美名子の作品群の特徴でもありますが),手法も装置も前作と一見同じように見えますが,実は全く違います。さらにパワーアップされています。「Natural」が主人公の成長に主眼が置かれ,装置は副次的なものであったのに対し,「花より…」はまさに装置=お能に主眼が置かれています。「Natural」の主人公は常に「バスケ」と「弓道」の間を揺れ動いていますが,「花より…」の主人公は「お能」なしには存在しえません。「Natural」ではあの主人公を描きたいために(作品の中で成長させたいために)あとから「バスケ」や「弓道」という装置を付与したという形ですが(もしかしたらそれが弓道でなく陸上とかロックバンドとかでも物語は十分に成立していたかもしれません),「花より…」はズバリ「お能」を描きたいためにあの主人公を登場させた,という色合いが濃厚です。そう,作者本人が巻末のエッセイマンガで述べている通り,彼女は今お能にどっぷりハマってます。そしてこの装置としての「お能」は,たとえばオペラだったりミュージカルだったりでは,作者の描きたい物語が成立しないのです。もしかしたら歌舞伎だったり文楽だったりしたら物語が成立したかも知れません(それでもなぜ歌舞伎や文楽でなくお能なのか?ですが,ここから先は作家の創造的天啓に委ねたいと思います)。いずれにせよ,日本回帰,それが現在の成田美名子のキーワードです。
考えてみればうまい手法です。例えば「ALEXANDRITE」の後,すぐさま「花よりも花の如く」の連載を開始したと仮定しましょう。恐らく読者はそのあまりのギャップに愕然とし,相当数のファンを無くすことになりかねません。たまたまお能が好きでかつマンガにも好意的な年代層がいたとしても,そういう新たな読者層を開拓できる確率はそう多くありません。とりあえず作者は,舞台を日本に移しながらも前作の青春グラフティーものを踏襲し続け,ストーリーが展開するうちに巧妙に「弓道」「神社」という日本的なものを織り交ぜて若い読者を啓蒙しなら,最後に一気に自分の世界=「能」に引きずり込む! ・・・実に鮮やな手口です。もちろん,作者本人がこういうことを数年前から用意周到に意図しながらやってきたわけではないというのは明白です。作者本人も作品を描くという行為を通じて成長(あるいは変遷)しているのでしょう。しかし,裏を返せば,それを無意識でできること自体が良い作家の条件とも捉えられます。NYからお能へ。作者本人が成長する過程を辿りながら,読者も自然と促されて日本へ回帰してくる・・・,そういう壮大な装置を,実に10年近くかけて成田美名子は作り上げてきたんだなぁ〜,としきりに感心する今日この頃です。この作品が世に広まり,多くの若い読者が日本の良さに(若い頃から)開眼されることを望みます。
なお,蛇足ですが,成田美名子は初期の作品で自分の生まれ故郷=青森を舞台にいくつか作品を描いています(「あいつ」「2年4組シリーズ」)。「Natural」や「花より…」ではしばしば青森を舞台に重要な話が展開し,青森が成田作品の回帰すべき「根っこ」であることが暗示されています。そして「花より…」の最近のの連載(「メロディ」誌)では,主人公たち能楽師一行はなんとNY講演を行っており,かつての成田作品の精神的故郷,NYにも回帰して行きます。過去を断ち切っての帰郷でなく,螺旋のように循環する永遠の運動としての「回帰」。やはり成田美名子の永遠のテーマは「成長」なんだな・・・,と深く思います。しばらくお能が続くでしょうが,そのあとはどーなるんでしょうか? やはり目が離せない作家です。
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February 25, 2005 | MVSICA PRO VITA NOVA
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ぽた郎妹夫婦に子供ができたので(生まれたのはちょっと前のハナシですが),遅まきながら出産祝いのプレゼントを贈ることにしました。リクエストもあったので,またしてもオリジナルCD。昨日の東京行きに合わせて徹夜で夜なべして作りました。今回は2枚。にぎやかい曲とおとなしい曲,バロックとジャズでそれぞれ固めました。前回とは打って変わって,超メジャー曲ばかりを集めてみました(そのうち何局かはぽた郎妹の結婚式で使った曲も混ぜときました)。今回は「マニアックに育ちそう」とか「理屈っぽい子になりそう」とは言わせまい(笑)。素直な子に育つといいですね〜。(^^)
■Music for Joy (Baroque Anthology)
1. Georg Philipp Telemann: Sonata No.1 in F major for 2 recorders, by Clas Pehrsson and Dan Laurin, recorders, from BIS (BIS-CD-334)
2. George Frideric Handel: Music for the Royal Fireworks -- Ouverture, by English Baroque Soloists conducted by John Eliot Gardiner, from PHILIPS (PHCP-9015)
3-5. Georg Philipp Telemann: Trumpet Concerto No.1 in D Major, by Nkilas Eklund, Baroque Trumpet, The Drottningholm Baroque Ensemble conducted by Nils-Erik Sparf, from NAXOS (8.553531)
6. Georg Philipp Telemann: Ouverture in C Major (Water Music), by Musica Antiqua Koln directed by Reinhard Goebel, from ARCHIV (413 788-2)
7. Johann Sebastian Bach: Ouverture No.3 in D Major BWV 1068 -- Air, by Musica Antiqua Koln directed by Reinhard Goebel, from ARCHIV (POCA-2102)
8-10. George Frideric Handel: Organ Concerto Op.4 No.6 in B flat Major, by The Amsterdam Baroque Orchestra directed by Ton Koopman, from ERATO (4509-91932-2)
11. Johann Sebastian Bach: Brandenburg Concerto No.5 in D Major BWV 1050 -- Allegro, by Musica Antiqua Koln directed by Reinhard Goebel, from ARCHIV (POCA-2102)
12-15. Johann Sebastian Bach: Goldberg Variations -- Aria and Variations 1-3, by Pieter-Jan Belder, harpsichord, from BRILLIANT CLASSICS (99702/11)
16-17. Johann Pachelbel: Canon & Gigue D Major, by Musica Antiqua Koln directed by Reinhard Goebel, from ARCHIV (437 089-2)
■Music for Ease (Jazz anthology)
1. Waltz For Debby (Take 2), by Bill Evans Trio, from "Waltz For Debby", RIVERSIDE (OJCCD-210-2)
2. Waltz For Debby (Take 1), by Bill Evans Trio, from "Waltz For Debby", RIVERSIDE (OJCCD-210-2)
3. Some Other Time, by Bill Evans Trio, from "Waltz For Debby", RIVERSIDE (OJCCD-210-2)
4. Say It (Over & Over Again), by John Coltrane Quartet, from "Ballards", Impulse! (MVCJ-19031)
5. It's Easy to Remember, by John Coltrane Quartet, from "Ballards", Impulse! (MVCJ-19031)
6. Sad Eys, by Andre Previn Trio, from "Like Previn!", CONTEMPORARY (OJCCD-170-2)
7. No Words for Dory, by Andre Previn Trio, from "Like Previn!", CONTEMPORARY (OJCCD-170-2)
8. Walz for Ruth, by Charlie Haden and Pat Metheny, from "byond the Missouri Sky", Verve (537 130-2)
9. First Song, by Charlie Haden and Pat Metheny, from "byond the Missouri Sky", Verve (537 130-2)
10. When I Fall in Lave, by Keith Jarrett Trio, from "Keith Jarrett at the Blue Note", ECM (1577)
11. Summertime, by Red Garland Trio, from "All Kinds of Weather", Prestige (OJCCD-193-2)
12. 'tis Autumn, by Red Garland Trio, from "All Kinds of Weather", Prestige (OJCCD-193-2)
13. What a Wonderful World, by Lous Armstrong, from "What A Wonderful World" DECCA (MVCR-20063)
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February 16, 2005 | 祝・京都議定書発効
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ようやく,というかなんというか,ここまでこぎつけました。いろいろ難産の末,今後も困難な道のりではあることも予想されますが,ひとまずは宇宙船地球号の船出を祝い,順風な航海を祈りたいと思います。地球が滅んじゃってもいいから一国主義を貫きたい人たちもいるようですが,10年後にはこの記念日が地球全体で祝えることを切に願います。(願うだけでなく,我々ひとりひとりも行動をおこさねば。)
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20050216it12.htm
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20050217k0000m040088000c.html
http://www.asahi.com/business/update/0216/126.html
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February 11, 2005 | 弱きもの,汝の名は悪魔なり
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物騒な凶悪犯罪が起こる昨今,迂闊に「悪魔」を擁護する論を張ると,ややもすると大な誤解と偏見を被りかねない。ここは慎重に行こう。ここでは,ひとまず,「悪」と「悪魔」の相関性は置くとする。確かに悪魔は悪を犯すかもしれない。しかし,「悪魔」と呼ばれる必要十分条件は「悪を犯すこと」ではなく,「神に悪魔と呼ばれること」なのだ。それに過ぎない。前回のミトラ神を追って,深い本の森に分け込んでしまった。迷うがままに彷徨ってみよう。以下,またしても恐縮だが,長々と引用。
■J.B.ラッセル(野村美紀子訳):「悪魔 古代から原始キリスト教まで」,教文館 (1984).
反対物の共在は天界の戦いという概念によって表現されることがある。しばしば一群の神々が若い世代の神々によって位を追われ,悪とみなされるようになる。キリスト教徒はギリシアとローマの神々からデーモンを作った。オリュンポスの神々はティーターンを有害な霊に変え,テュートン人の神々は巨人族を征服した。インド=イラン人の宗教にははじめ二組の神々がいた。アシュラ(インドではアシュラ,イランではアフラ)族とデイヴァ,またはディーヴァ族である。イランではアフラ族がディーヴァ族を征服し,アフラ族の指導者が主神アフラマズダ,光の神になった。ディーヴァは悪霊の地位を与えられて,闇の王アーリマンの手下になった。インドではディイヴァ族がアシュラ族を倒した。ある意味ではインドで起こった結果はイランの場合の反対だが,深い意味では,起こったことはきわめて近い。一群の神々が他の神々に征服されて全体として悪霊の地位へ逐いやられたのである。(中略)「神」と悪魔は永劫の昔から存在し,力を合わせてきた。あるいは両者は兄弟である。あるいは「神」が悪魔を創造する。あるいはさらに近い関係で「神」が悪魔を生む,あるいはみずからの本質から作り出す。
(中略)
ヘブル人ははじめ,ヤーウェが神なる原理の唯一の顕現である,と主張した。かれらの神は「神」になった。だがかれらは自分たちの唯一の神が可能な限り至善であることを欲した。こうしてかれらは暗黙のうちにまた無意識に,「神」の悪の面を善の面から分離して,善の面を主,悪の面を悪魔とよんだのである。それでもかれらの宗教の原理は本質的に一神論だったから,かれらはふたつの別々の原理の措定の前では踏みとどまらねばならなかった。そのため悪の精神である悪魔は変則的な地位にとどまることになった。一方では悪魔は悪の作り手であって,悪魔が存在することによって主は世界に存在する多数の悪に対する直接の責任を逃れた。その一方で悪魔は独立の原理ではなく,主の被創造物,さらには僕であるとさえされた。この変則性が潜在的な一元論と二元論との緊張を生むことになった。悪魔は旧約聖書ではめだつ存在ではなかったが,外典,黙示文学,新約聖書ではおおいに発達した。たんにつまらない迷信の添加などということではなく,悪魔は「神」自身のうちから生じたのであり,善の主の対をなす存在,双児の一方であり,神の影なのである。(下線部はぽた郎による)
■ジョルジュ・ミノワ(平野隆文訳):「悪魔の文化史」,白水社文庫クセジュ (2004).
そもそも,多神教は悪魔をそれほど必要としてはいない。それもそのはずで,数多の神々が存在するところお互いが牽制しあい競合関係が生まれるのは必定であり,しかも,こうした神々は,利害に応じて善人にも悪人にもなりうる曖昧な存在であるから,それだけで悪の存在を説明するに足りうるのである。一神教はこれとは正反対で,悪魔なしでは立ち行かない。唯一神である限り,その神がすべての源とならざるをえない。つまりは,善のみならず悪の源泉にもなってしまう。この大問題を回避する方法は一つしかない。すなわち,悪の存在を説明できる逃げ口上を,なんとか見つける以外にない。この逃げ口上がまさしく悪魔であって,これ以上に解決法は見当たらない。ただし,全能者の創造した世界を,なぜより劣った存在が混乱せしめうるのかを,まだ説明する必要は残されているが。
神は「絶対者」に近づけば近づくほど,より強力でより善良,かつより普遍的になるが,同時に,神にとって悪魔の存在は,もはや必要不可欠なものにならざるを得ない。悪魔の概念が,キリスト教という宗教において,最も高い完成度にまで練り上げられた理由も,この辺りに求めうるだろう。逆説的なことに,サタンのみが神を救いうるのである。サタンのおかげで,現世における理不尽な肉体的・精神的苦痛を説明することが可能となるからだ。もし,このサタンがいなければ,全能にして無限に善なる唯一神なんぞを,一体誰が一瞬たりとも信じるであろうか。完璧なはずの神が,これほど悲惨な世界しか作れないのだから,当たり前の話である。ジョン・ウェスリー(1703〜91年:英国の宗教改革者。メソジスト派の開祖)の喝破した通りで,「悪魔なくして神なし」ということに相成る。もちろん,逆も真なりであって,いわば,このカップルに別れ話はありえない。
(中略)
・・・すべての一神教は,実は偽装した二元論にほかならない。悪の神が下位にることを信じて貰おうとして,どんな言い訳をしたところで,この本質は変わらない。大抵の場合,至高の神という不公平な審判者を措定して,善に軍配を上げようとするのである。ユダヤ=キリスト教という一神教もまた,この枢要な問題に直面せざるをえない。すなわち,一体いかにして,悪の敵すなわち善なる唯一神の全能と,悪の執拗なる存在とを,両立させうるのか,という問題にである。(下線部はぽた郎による)
秀逸な批評の引用のあとには,多くを語るまい。とはいえ,ちょっとだけ蛇足を。(イブに知恵を与え賜うた楽園の蛇も足があれば疎んじられなかったろうか?) 「悪魔」とは「悪」を成したかどうかが問題ではない。「神」から烙印を捺された者がすなわち「悪魔」なのだ。そして,神は己の意のままにならない者には烙印を捺したがる。「神」を「合衆国」あるいは「ブッシュ」と,「悪魔」を「イラク」あるいは「フセイン」と置き換えて見よ。まるでかの国の国務長官(おそらく大天使長に相当するのだろう)の就任演説である。「神」はうっかり倒してしまった「悪魔」を懐かしみ,己の地位を守るために新たに「悪魔」を探すことに躍起になるよりほかはない。もちろん,「悪魔」に安易に同情するのは禁物であるが,「悪魔」=「悪」と直情的に結びつけるのは,それこそ「神」の思う壺ではないだろうか? 「神」からも「悪魔」からも離れて,怜悧な理性の目を以て物事を見よ。歴史は,そして宗教学は,そう教えている。
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February 06, 2005 | ミトラ君の大冒険,あるいはシンクレティズムとメタモルフォーゼ
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少し前になるが,Qyouさんのブログのコメント欄で,ミトラ教の変遷についてにわかに盛り上がった。それ以来,ふつふつと思いを巡らしている。ユーラシア大陸の神々のメタモルフォーゼとシンクレティズムについては,学生時代にミルチア・エリアーデにハマって宗教学関係の本をだいぶあれこれ読みあさったものだ(と言っても系統立てて勉強したわけではないのであくまで乱読)。久々にぽた家書庫の宗教学関連書をひっくり返してみる。以下,備忘録的に抜粋。
■岡田明憲:「ゾロアスター教 神々への賛歌」,平河出版 (1982).
このヤシュト(ぽた郎註:ゾロアスター教の賛歌のうちのひとつ「ミフル・ヤシュト」のこと)の献ぜられるミスラは,ヴェーダ神話ではミトラの名をもってインド・イラン起源の重要なる神格であるばかりでなく,キリスト教以前のローマ帝国において国教的地位を占めたミトラ教の主神でもある。さらに矢吹慶輝博士以来,仏教の阿弥陀仏の起源に関係する事は我国でも何回か言われており,さらに最近では,この神を仏教の弥勒に関連づける見解が有力である。このように,宗教史の研究においては,このミスラの位置は非常に重要なものがある。
ヴェーダのミトラは,ヴァルナと共に双神としてアーディティア(光明)神群の主神である。そして本来の正確は天空神であった。ただヴァルナの夜天に対して,ミトラは昼天だったと考えられる。ザラスシュトラ(ぽた郎註:日本ではゾロアスターあるいはツァラトストラとも表記)自身は,ヴァルナをミトラより切り離してアフラ・マズダーとしてその主神に据えたのに対し,ミトラ=ミスラを無視している。これはガーサー(ぽた郎註:宗教改革者ゾロアスター自身の説教)を見れば明白である。そして,この双神たる位置より切り離されたるミスラは,次第に太陽神と同一視されて,民衆の間にこの神に対する信仰が盛んになっていった。
■岡田明憲:「ゾロアスター教の神秘思想」,講談社現代新書 (1988).
ユダヤ教の個々の天使が,ゾロアスター教の天的存在の中の特定の何と関係するのかということは,いまだ不明な点も多い。しかし,はっきりと,その関係を指摘できるものもある。その一例として,この世を主宰するユダヤ教の天使,メタトロンと,ゾロアスター教のミスラの関係について述べよう。メタトロンは天使たちの王とも称され,小ヤーウェとさえ言われる。すなわち,彼は神自身につぐ権力の所有者なのである。否,彼は,しばしば,神自身にも匹敵する存在と考えられた。メタトロンの住居は神の住居である第七天とされ,タルムードの賢者アヘルは,この天使を二番目の神としたゆえに異端者となる。
ゾロアスター教のミスラは,古くは,アフラ・マズダーと並ぶ神格であった。ゾロアスター自身は,ミスラ崇拝を拒否してアフラ・マズダーを唯一の最高神としたが,イランの一般民衆の間では,ミスラ信仰は盛んであった。そこでゾロアスター教は,イランの民衆宗教として確立する過程で,このミスラ信仰を自己の中に取り入れざるを得なかった。
(中略)
ミスラの正確には,メタトロンとの類似を見いだせる多くの点がある。ミスラの語義は「契約」であり,彼は契約の守護神とされる。メタトロンも契約の守護天使であり,神と大地が人間の貸与にあたって取り交わしたとされる契約書は,メタトロンの手になるものである。またメタトロンは背が高いことで有名だが,ミスラも,先述のヤシュトで「丈高き者」と称される。
メタトロンが夜警にたとえられるのは,ミスラが眠らずして常に人を監視するとするのに共通する。監視者としてのミスラに関係して,彼は「万の眼を持つ者」と言われる。ユダヤ教の伝説にも,エノクが天界に引き上げられて,無数の眼を備えたメタトロンになったとする説がある。さらに,メタトロンの顔は太陽のようであるとされるが,ミスラもしばしば太陽神と同一視されるのである。
■井本英一:「死と再生 ユーラシアの信仰と習俗」,人文書院 (1982)
イランのミトラ(ミスラ)は山岳の頂上で祭壇をもうけずに祭られ,マゴス僧(ぽた郎註:ヘロドトスの表記でゾロアスター教の僧侶のこと(だと思いますたぶん・・・))は(牛の)犠牲を屠り,神々の誕生を歌った。のちにそれは女神アナーヒターと合祀された(ヘロドトス『歴史』1・131-2)。ゾロアスター教の聖典『アヴェスタ』ヤシュト10章にも契約神ミスラが高山の山頂にいて善悪両面を持ち,両軍の戦場の中間にあって請われた方に味方するとある。またミスラは終末の戦闘に現れて善者に味方するが,また牛の主として広大な牧地の所有者とも呼ばれる。
この軍神的な正確がローマ兵に受け入れられ,かつては西はロンドンにまで伝播したミトラス教では,ミトラスは(山頂の)岩あるいは河岸のイチジク樹の下の岩の洞穴から松明を手にして暗闇を照らしながら生まれた。ミトラスは,牡牛を洞穴に引きずり込み殺害する。牛の血や四肢から有用植物や動物が生まれ,牛の精は動物の守護者になる。
(中略)
ミトラス教ではミトラスはイチジク樹下の岩から生まれるが,弥勒は竜華樹下でゾロアスター教の救済者サオシヤントと同じように三たび出現す樹,生命の水,境界石(洞穴)の表象が顕在的にも潜在的にも両者に見られるのである。一生補処の梵語エーカジャーティ・プラティバッダの意味は「(死のない)生のみにつながれた」であり,『法華経』などでは最終身と訳しているが,ゾロアスター教のメシア思想と同じ構造を持っていることは注目に値する(『旧約』のメシア思想はゾロアスター教の影響とする学説が一般的である)。
(中略)
『中阿含教』所収の「説本経」には,俗世と聖世の弥勒の二つの別がある。(中略)このように仏教ではかなり薄れてしまったとはいえ,弥勒に二面性があることがまだうかがえる。阿夷多(ぽた郎註:原文では「多」は「口へん」に「多」)や阿逸多は梵語アジタの写音で,無能勝と訳されているが,これはミトラス教の太陽・無能勝ミトラスと契合する。ちなみに,太陽はインド・イランにおいてもミトラの持つ属性の一つで,夜光燦然,暗闇を照らすなど別の形で表現されることがある。『当麻曼荼羅縁起』には曼荼羅の糸を染めた染井や役行者の植えた桜樹,また夜々光を放つ弥勒の形をした巨石が出てくる。
■宮田登:「ミロク信仰の研究 新訂版」,未来社 (1975).
仏教における弥勒の正確については,その研究の成果(ぽた郎註:高取正男,宇井伯寿らの研究)が以下のように語ってくれる。すなわち弥勒の語義はサンスクリットのマイトレーヤの音訳である。本来の原義は古いインドの伝統的な神格ミトラである。ミトラ神は『ヴェーダ』に現れるところでは,インド,イラン,さらにギリシャからエジプトにわたる地域に知られた一種のはやり神であって,契約とか約束の意味を示すものであるという。
こうした意味を持つ名,つまり弥勒という名の男が仏陀釈迦の弟子の一人にいて,彼はきわめて天才であったというが夭折した。釈迦の初期の教団内部で卓越した存在であった弥勒は,人々の間で永く記憶に留められ,やがて伝説化するに至った。かくして将来の仏陀として理想化された弥勒の説話がさまざまに説かれるようなったのである。
(中略)
八重山のミロク踊については,その伝来について次のような云い伝えがある。
寛政三年(1791),黒島首里の大浜用倫が上国の帰途逆風にあい,安南に漂着した。安南では当時豊年祭で弥勒仏が出ていたのを見て,弥勒面を乞うて帰途についたのだが,所用のため,随行の百姓新城筑登之に,自作の弥勒節を付してその面を託した。用倫は客死したが,筑登之は,歌と面と衣装を持ち帰った。これがそもそものはじめという。
芸能化したミロク踊りが整った時期に関してはおそらく右の伝承は歴史的事実に基づいているといってよいのかも知れない。そして布袋の弥勒面の伝来も,あるいはそうしたきっかけによるのかも知れない。しかし,ミロク踊が,近世中期に安南から伝播したが故に,これをまったくの外来要素とする理解の成立しがたいことは,今まで述べてきたことから明らかであろう。弥勒面といってそれが布袋のことであるのは,中世以来よく知られたことであった。『十訓抄』に,「布袋和尚は弥勒の所作なり」とする布袋は,中世末期,京の町衆の間で,福神の一つとしてもてはやらせていた。
(中略)
布袋に体現された弥勒は,巷間にあって,民衆と交わる,いわば日本の宗教社会における隠身の聖ごとき存在であったことが推察される。長汀子=布袋の伝説は,唐末の混乱期に顕在化した民衆の弥勒下生待望の一表現と見なされよう。
■J.B.ラッセル(野村美紀子訳):「悪魔 古代から原始キリスト教まで」, 教文館 (1984).
ローマ帝国にもっとも広く普及したのは,キリスト教を別にすればミトラ教だった。これはイランのマギ教(ぽた郎註:ここではゾロアスター教およびその派生宗教のことを指す)の教義と豊穣の思想とを組み合わせた宗教で,ミトラ教の中心となる神話によれば,世界の原理はアイオーン,無限の時間である(ズルヴァンと考えあわせよ)。アイオーンからオールマズドまたはユピテルという名の男性原理である天,スペンタアルマイティまたはユーノーという名の女性原理である大地,プルートンまたはハーデスとおなじとされた地下の霊アーリマン,が生まれる。(中略)戦いは永く続くが,アーリマンの威力がしだいに大きくなり,人類は次つぎにその支配下にはいって,ついにアーリマンがこの世の主にある。だが世界滅亡の直前に,原始の雄牛の再来である巨牛があらわれ,ミトラが降ってアーリマンとその軍勢を相手に最後の戦いを挑むであろう。死者は墓からたち現れ,ミトラがかれらを裁いて,善人と悪人を分けるであろう。オールマズドが悪人とアーリマンとデーモンどものうえへ焼き尽くす火を送るであろう。幸福と善との永遠の支配が続くであろう。キリスト教の終末論との類似に驚くばかりであり,アーリマンとユダヤ=キリスト教のサタンとの類似も同様である。ミトラ教とキリスト教はほぼ同時に出現したので,観念の相互影響が,少なくとも民間の水準ではあったものと考えてよかろう。両者の類似はおもに,オルペウス教とイランの思想を共通の二元論の背景とすることから生じた。
ミトラ教の祭儀の要素の中にも,のちに異教徒や魔女の概念に同化されていったものがある。ただしほとんどの豊穣の祭儀と異なり,ミトラの祭儀に参加するのは男性だけだった。信徒たちはたいまつをもって夜ひそかに,しばしば洞穴や地下室 --祭儀がひろまって経済的ゆとりができてからは,広いミトラ礼拝堂-- に集まり,聖なる食事をともにした。中心になる儀式は雄牛犠牲である。(中略)ミトラ教徒のあいだでもピュタゴラス学派の間でも,陶酔的な踊りや性的乱交は儀式に含まれていなかった。しかしこうした行為があるとかれらの敵が主張した理由は,わからないことでもない。このような装飾を伴って,ヘレニズム時代の秘境の儀式は異教の集会や中性の魔女のサバト,こんにち人工的に復興された魔女の儀式のための,定まった形式になったのである。
■葛野浩昭:「サンタクロースの大旅行」,岩波新書 (1998).
ヨーロッパでは,古くから各地でさまざまな冬至祭が催されてきました。帝政時代のローマでは,太陽神ミトラを祭る冬至祭(「無敵の太陽」とよばれました)が12月25日に行われました。また,種蒔きと農耕の神であるサトゥルヌスの祭も,12月17日から24日まで,どんちゃん騒ぎとして祝われました(このサトゥルヌスは英語の土曜日 Saturday の語源です)。前章でもふれたように,イエス・キリストの誕生日が12月25日に定められたのは,ミトラの冬至祭を取り入れたからです。
さて,引用ばかりでだいぶながくなっちゃったが,まとめてみよう。上に見たとおり,インド・イランのローカル神として誕生したミトラが,東に向かえば実在の人物マイトレーヤと同一視され弥勒(ミロク)になり,さらに布袋和尚とも習合して沖縄のミロク神(ミリク神とも)となって蓬莱の国に上陸する(最も東の端の地としては,柳田国男が「海上の道」で触れたように,鹿島の国かもしれない)。西に向かえば,ユダヤの天使メタトロンと習合し,あるいはミトラ教(ミトラス教)となって原始キリスト教と激しい覇権争いをする。キリスト教にはついに破れるも,クリスマスやサバトといった儀式に形を変えて,薄く広くその影響を浸透させていく・・・。なんとも雄大で気の長い旅だ。しかし,ユーラシアの西と東でやっぱりちょっとずつ繋がっているという,時空を超えた生命力(何しろ神様なのだから!)が微笑ましい。シンクレティズムとメタモルフォーゼを繰り返しながら,神々は人と人,民族と民族の間を渡り歩いていく。それは「神」を「文化」と置き換えてもおなじこと。人類の叡智と逞しさを(そして愚かさをも)深い感慨を以て感じぜずにはおれない。それが「宗教学」の醍醐味なのだ。・・・そうそう,ということで,最後にもうひとつだけ引用を。
■ミルチア・エリアーデ(島田裕巳,柴田史子訳):「世界宗教史 II ゴータマ・ブッダからキリスト教の興隆まで」, 筑摩書房 (1991).
・・・救済の約束は,ヘレニズム宗教の革新性と主要な特徴を示している。(中略)救済への希望は,当時のすべての精神的潮流と同様,シンクレティズムの影響のもとで展開されたのである。続きもあります。>>
事実,シンクレティズムはこの時代の支配的な特徴であった。シンクレティズムは古来,盛んに記録されてきた現象で,ヒッタイトの宗教やギリシア,ローマの宗教の形成においても,またイスラエルの宗教や大乗仏教,道教においても重要な役割を果たしてきた。しかし,ヘレニズム - ローマ時代のシンクレティズムは,そのスケールの大きさと驚異的な創造性において際だっている。シンクレティズムは,活力を失ってその不毛さを露呈するどころか,あらゆる宗教的創造の条件であるように思われる。
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February 05, 2005 | ガラスのポットと茉莉龍珠
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もしかしたらあるちゅ〜のーと的なネタかもしれないが,まあいいや,ここに。
先日,神戸に行ったとき,ハンズに寄って,またまた中国茶用の急須を仕入れてきました。今度はガラスのポットです。これは茉莉龍珠専用にしよう。茉莉龍珠はその名のごとく球状に丸められてますが,お湯を注ぐとふわ〜っと茶葉が広がって行きます。それをぼへ〜〜〜っと見てるのが至福の時間。中国茶はいいですね・・・。