June 25, 2004 | 寒いっ,寒すぎる!
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じめじめと暑い季節になってきました。夏は苦手です。寒いので。

今週,東京出張があったのですが,ぽた郎は行き帰りの新幹線の中,ほんまにこのまま寝たら凍死するんちゃうかと思うくらい寒いのを我慢しながら耐えてました。ぽた郎にとって,夏は寒さとの戦いです。

ぽた郎は低血圧のうえ胃腸が弱く寒いとすぐおなかが痛くなってしまうという筋金入りの軟弱ものですので,寒いのは結構苦手です。おまけに寒いと体中がこわばって肩や腰が凝ったり関節が痛くなったりすることもあります。うーん超虚弱体質。(^^; いやそれでも,冬の自然の寒さの中ではまだマシなんですけどね。どーも夏の間の人工的な寒さ,すなわち「冷房」には極めて弱いのです。つまり「冷房病」の典型的症状ってことですかね。

てなわけで,職場で冷房がガンガンにかかっている場合,ぽた郎は寒いと感じたら誰にも断らず有無を言わさず冷房を切ったり温度設定をうーんとあげたり送風モードにしたりします。以前はそばにいる人たちにいちいち「寒くないですか?」とか「温度ちょっとあげていいですか?」などと声をかけてまわってたのですが,たいてい返ってくる答えは「いや別に」とか「そういえば寒いっすね」とか,同意もしくは消極的同意・態度保留の意見ばかりで「暑いので温度は上げないで下さい」という積極的反対の方は殆どありません。むしろ大多数の方はみんな寒いのに耐えるのはあたりまえ,みたいな風潮になっているようです。でも,これってヘンじゃありません? ちょっと温度が高くても暑いのを我慢するくらいで済みますが,ちょっと温度が低い場合「冷房病」として確実に健康に不調を来す人が少なからずいます。その場合どちらの意見を取るべきでしょうか? また,地球環境を考えた場合,過剰な冷房を不快と思う人たちの意見を無視してまでエネルギーを浪費する大義名分はどこにあるのでしょうか? というわけで,ぽた郎は次のように呼びかけたいと思います。冷房が苦手なみなさん,環境に配慮しなければならないと思ってるみなさん,とにかくアクションを起こしましょう。

オフィスや家庭でちょっとでも冷房がきついと思われた場合は,すぐさま温度設定を高くしましょう。まわりに気兼ねする必要はありません。コントロールが自分で可能なら,スグにでも温度をあげる。コントロールが自分で出来ない状態であれば,「寒い」とちゃんとその都度苦情を言う。それがみなさんの健康と地球を救います。
例の新幹線の中では,あまりに寒いので車掌さんに「温度上げて下さい」と頼みました。車掌さんは快く対応してくれました。んが,その後ほんまに温度あげてくれたんかな〜? と疑心暗鬼。車掌さんが口先だけだったのか我が国の誇る新幹線の冷房設備がおそろしく旧型なのか,もう一回車掌が通りかかったら文句言ってやろ・・・と思いながらも,結局,大阪まで寒いのに耐えながら揺られて帰りました。これってやっぱりヘンですよね?

June 16, 2004 | はてなあんてな,はじめました。
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ぽた家専用のアンテナが欲しいな〜と思ってはいたが,自分でCGI組んでつくるのは難しいし,我が家のお抱えプグラマーぽた子さんも最近ちょっと忙しくなっちゃったし・・・で考えあぐねてたところ,こぐさんちのアンテナを拝見させてもらう機会にありつけました。やはり「はてな」のアンテナは簡単で便利やな〜(広告がちょろっとつくのはシャクだけど・・・無料だから止むなし)。というわけで,早速はてなに登録して,速攻でぽた家専用アンテナを作ってみました。その名も,

  「ぽた家の軟弱あんてな。」 http://a.hatena.ne.jp/potterist/

です。見やすいように,一般のHP/掲示板/ブログ(日記)とサイトの性格に分けて分類してみました。ぽた郎自身はシンプルなこのパターンが好きだったりします。
ちなみに個人的には,流量の多いブログと一般のHPをおなじアンテナの中で勝負させるとHPの方がどうしても下に落ちちゃってかわいそう・・・,とかぽた郎はつい思っちゃったりします。だいたい下に落ちてるヤツは「軟弱ポタリング主義!」とか全然更新が止まっててサボりがバレバレなページなんですけどね。いやべつに勝負とか思わなければよいんですが。(^^;
ともあれ,このアンテナ,一般にもオープンにしておりますので,みなさまもよろしければご利用下さい〜。

June 12, 2004 | SF漫画二題
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ひさびさにまとまった休みが取れたので,兼ねてより気になっていたマンガを幾つか買い漁る。そのうちの二つがコレ。いわゆる「本格ハードSF」漫画,二編である。

■幸村誠:「プラネテス」全4巻,講談社
■太田垣康男:「MOONLIGHT MILE」第1〜8巻,小学館

実は,「本格ハードSF」漫画は非常に少ない。何を以て「本格ハードSF」と呼ぶかはいろいろと議論があるところだが,ここではとりあえず,ESPやヒューマノイド型ロボットが出て来ない,現代科学のシームレスな延長線上にある未来を扱った小説,とでも定義しておこう。とりあえずこの定義に則ると,SFマンガは数多くあれど,実は「本格ハードSF」漫画は非常に少ない。強いて挙げれば星野之宣くらいか。・・・と少なくとも私はそう断言したい。

そのような中で,世紀の変わり目を前後して秀逸な作品が二つ登場した。前者「プラネテス」は1999年1月に「モーニング」連載を開始し(作者の事実上デビュー作で掲載時は読み切り),2004年1月に連載修了(とりあえず「第一部完」となっている)。後者「MOONLIGHT MILE」は2000年12月に「スペリオール」に連載を開始し,現在も連載中である。殆ど同時期に連載を進め,同じように現在のシームレスな延長線上としての近未来(前者は2070年代,後者は2010年代)を舞台にしているという点で,まさに好敵手というべき二本である。このように突如彗星のように現れた二つの本格ハードSF漫画であるが,実は作風はまったく対照的なのが興味深い。

前者「プラネテス」は若い宇宙飛行士の精神的成長物語とも読み取れる。主人公はしがないデブリ屋(宇宙の屑鉄回収業者)から一念発起してエリート宇宙飛行士たる木星航路のメンバーに挑戦し,悩み,道を失い,助けられながら,最後には目標を達成する,挿入話に登場するサブキャラたちもやはり挫折や逡巡を超克し成長する。物語の最後に人類発の木星到達を果たした後,作者は主人公に「愛することだけはどうしてもやめられないんだ」と語らせるが,これも巧妙なストーリー構成と丹念な人物描写が功を奏して安っぽいヒューマニズムに陥らずに済み,読後が爽やかで健全な(しかし一筋縄ではいかない)若者の物語として完成していると言えよう。この手の類いの成長物語は,別段SFでなくともできるハナシであるが(スポーツものとか,学園ものとか),宇宙という極限環境において,やはりそれでも「愛することが」と臆面も無く真顔でそれを述べるところが,この作品を貫く真っ直ぐな瑞々しさだと言えるだろう。

それに対し後者「MOONLIGHT MILE」は大人の肉体派である。物語の開始時からいきなり冗長なセックスシーンが続き,「本格SF」を期待した者を面食らわせる。このセックスシーンは連載している雑誌の読者層への過剰なサービスかと思いきや,実はそれ自体がこの漫画の通奏低音を暗示しているのかもしれない,と読み進めるうちにそう思ってしまうほどだ。この物語の主人公はビルディング・スペシャリストと呼ばれる宇宙空間の「ブルーカラー」であり,見たかんじさえないフツーのおいちゃんである。しかし憎まれない性格で女にはめっぽうモテる。天真爛漫天衣無縫で悩まない。いや,悩んでるヒマなく生物的に本能的に決断しなければならないのだ,宇宙空間では。「博士号を持つ学者達だけが宇宙に行っていた時代から・・・プロの建設作業員(ブルーカラー)が宇宙飛行士になる時代が来る・・・。」地球的危機を引き起こす衛星墜落を防ぐため,普段なら十数時間かかる0.27気圧への減圧作業をたった4時間で完了させる超人的な強靭な肉体。強靭な肉体にこそ強靭な精神が宿る・・・? 崇高や健全なんてクソくらえ・・・? それを肌で感じさせる熱い(そしてちょっと汗臭い)オトナの漫画である。

いずれにせよ,「プラネテス」,「MOONLIGHT MILE」,甲乙付け難い両雄の揃い踏みである。いずれもエリート宇宙飛行士でなく,フツーの屑鉄回収業者や建設作業員といったインフラストラクチャーを支えるエンジニアに焦点を当てているのが興味深い(それでも地球上の人からは充分フツーではないのだが)。それだけ「現在」が「未来」に近づいた,ということだろうか。(この栄光の「未来」に向けて克服すべきものは単に「技術」ではなく「予算」である,ということが皮肉にも明らかになってきたのも,「現在」が「未来」に充分近づいた証拠かも知れない。)この二作を読んだ後,例えば星野之宣の「2001夜物語」(雑誌連載は1984〜86年)など読み返すと,メカニックな点でも登場人物の行動様式の点でも,失礼ながらやはり時代を感じさせると思わざるを得ない。それほどまでにこの二作は現代マンガ史に新しい一歩を刻む秀作だと言えるだろう。両作者の今後の展開に期待したい。また両作品に触発されて,良質な「本格ハードSF」漫画が今後続くことを期待したい。

June 05, 2004 | プロ失格
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おのひろきおんらいんQyouさんのブログで青山学院大学国際政治経済学部助教授の瀬尾佳美の自転車についてのコラムが紹介されておりまして,そのコラムが結構大きな波紋を呼んでいることを最近知りました。本来これは自転車に関する内容なので「軟弱ポタリング日記」のネタなのでしょうが,ここでは敢えて「形而上日記」で別の角度から述べてみたいと思います。なぜって,このコラム,一読して「まともに反論する値なし」とぽた郎は思ってしまったからです。ではなぜ,このコラムがここまで反響を呼び,私自身もわざわざ日記でとりあげなければならないほどなのか? ここではそれを明らかにしたいと思います。

さて,今回の事件(この反響はもはや「事件」と言って良いでしょう。瀬尾の発言はその後本質的な内容から離れ,2ちゃんねるや瀬尾の個人的掲示板を舞台に中傷と記事削除の泥仕合にまで発展しているようです)の問題の本質は,実は瀬尾自身の説明足らずの提案にも粗暴な文章表現にもあるのではありません。一番の原因,ことの発端は瀬尾がその言説を(おそらくよく考えずに)自分の勤務先のサーバを利用して流布せしめたことにあるのではないかと,私は考えます。

仮にこれが,まったくの匿名の個人のホームページに掲載されたとしましょう。あるいは本名を名乗っても自分の職業的立場や所属先をあまり前面に強調せず,一個人の立場として私的なホームページで私的な意見を述べたと仮定しましょう。その場合は如何でしょうか? 多少の意見交換や言い合いはあったかも知れませんが,2ちゃんねるで取り上げられるほどの大事に発展したでしょうか? おそらくそれは言説の稚拙さから黙殺されるか,あるいは極めて小さい集団の中でひっそりと閉じられた議論が成されるのみだったのではないかと予想されます。

逆に,勤務先にも自身の発言の責任が帰するものとして,勤務先の上司や同僚,広報担当者と入念に(あるいは一応の)議論をした末に発表するという作業を仮定しましょう。その場合,おそらくは勤務先の良識的なあるいは体面的な意見から,あのような独断と偏見に満ちた表現は随分緩和され,「まともな」文章(すなわち感情的な反論を容易に誘発させないような周到に構成された文章)として発表されるのだろうと容易に予想できます。

すなわち,問題の本質はここにあります。彼女が自分の社会的地位を過剰に(あるいは不正に)利用して,あたかも公的=パブリックに,極めて私的=プライベートな言説を述べたということです。一般の常識を持ち合わせた社会人であれば,所属する会社や団体の名前を使って発言することに極めて慎重と熟慮を要することは,誰でもあたりまえのこととして認識していると思います(すくなくとも私はそのような「一般常識」を期待したいです)。私的=プライベートに発言する場合と,公的=パブリックに発言する場合では,その言葉の重みが違います。であればこそ,敢えて公的な発言の機会を最大限活用したり,敢えて私的な発言として抑制したり,と常識的な社会人は判断するわけです。(余談ですが,政治家の「失言」はこれを半ば意図的に踏み越えることに原因があるものと思われます。)問題の瀬尾の発言は,その一般社会常識が完全に欠落しています。

一般企業であれば,その会社の名の下に「公的に」流布される言説(パンフレットから書物,インタビューからホームページの記事まで)は厳格に管理されているため,構成員の私的な発言がうっかり公的なものとして(文字どおり会社のカンバンを背負って)公表されることは殆どないでしょう。大学という組織は「学問の自由な自治」という名の下に,その管理が多少ゆるいのかもしれません。まあ端的に言ってしまえばザルなだけかもしれませんが。そのような状況下においては,構成員一人一人が健全な常識と良識を持って自分自身を律して行動するほかありません。そもそも大学人は理論と言説が武器なわけですから,そのタテマエは堅持して貰いたいと思います。昨今,しょーもない大学教授の不祥事が後を断ちませんが,少なくとも大学人の「理論と言説の説明責任」というタテマエだけは,放棄しないで貰いたいものです。

ここでは瀬尾の言説の内容までは立ち入りません。2ちゃんねる等で取り扱われているように,発言者本人の人格にまでも及んで云々するつもりは毛頭ありません。直接会って話したら非常にいい人なのかもしれませんし,優秀な研究者であったり人望の厚い教育者であるのかもしれません。しかし,ここで問題としているのは,あくまで件のコラムの公表の方法とその姿勢です。公的私的を混同して自説を野方図に振り回す姿には,残念ながら愚かしいを通り越して怒りすら禁じ得ません。それが私の感想です。そしてこれは,「反論するに値なし」と思っていてもこれに反論をせざるを得ない良識的な方々の,恐らく共通の認識なのではないでしょうか。

というわけで,結論。今回の青山学院大学国際政治経済学部瀬尾佳美助教授の行為は「プロ失格」。それから,いわずもがな,青学院大学国際政治経済学部の管理責任も問われるべきでしょう。感情的議論も含めてざっくばらんに議論をしたいのなら,まずプライベートなホームページを立ち上げなさい(大学からの直リンクも当然やめること)。パブリックで冷静な議論をしたいのなら,まず自分の書いた原稿をおなじ職場の人にチェックして貰ってから載せなさい。これは社会の常識です。

June 04, 2004 | その後の Ave Verum Corpus
C:7

「死体」論,気になって仕方ないので(^^;,ひきつづき。今度はラテン語の「corpus」も調べてみました。こちらはあんまし大きい辞書じゃないけど,とりあえずぽた家文庫にあったヤツ(Cassel's LATINE & ENGLISH Dictionary)。

Corpus n. body, substance, matter; esp. the body of men and animals; flesh, the trunk; sometimes a corps. Transf., a person, "a body"; the "body politic"; in gen., the main mass of a thing.
なるほど,なるほど。ラテン語のオリジナルでも「生体」「死体」両方の意味があるのねん。これはカエサル時代からの古いラテン語でもそうなんでしょうか?それとも中世以降の教会公用語となった頃からなんでしょうか?このへん詳しい本をあたってみる必要がありますね・・・。うーんドロ沼にハマりそう。

Qyouさんもキリスト教との関連性を示唆されていましたがぽた郎としても,「生体」「死体」両者の意味を持つのは,やはりキリスト教の思想に由来するのではないかと思います(現段階ではあくまで私見ですが)。「Corpus Christi」というと,やはり十字架にかかったキリスト像を思い起こすように,生物学的には屍となった(それゆえに宗教的には超越的な存在になった)「肉体」ですよね。さらに,Mozartで有名な(ぽた郎の趣味的にはWilliam Byrdですが)「Ave Verum Corpus」はラテン語典礼文を書き下すとこうなります。

Ave verum corpus natum Ex Maria Virgine, Vere passum, immolatum In cruce pro homine, Cuius latus perforatum Vero fluxit sanguine, Esto nobis praegustatum, Mortis in examine, O clemens, O dulcis Jesu, Fili Mariae.
幸いなるかな処女マリアより生まれ出づる御体よ。人のため,十字架の上で苦しみ,脇腹を貫かれ,血を流し給う。願わくは我らにその御体を味わわせ給え。慈悲深く優しいイエスよ,マリアの御子よ。 (ぽた郎訳)

うーん。非キリスト教徒にとってはやはりショッキングな表現です(キリスト教徒の方,すみません)。「死」あるいは「死体」のイメージがそこには色濃く現れてますね・・・こうやって改めて日本語訳を見てみると。あの美しいメロディからはなかなか想像し難いところです(少なくとも非キリスト教徒にとっては)。もともと原始キリスト教にはカニバリズム的なイメージがあるとよく指摘されていますが,「死体」のイメージは日本語(あるいは漢字)が与えるインパクトほど不浄で隠蔽すべきものではないのかもしれませんね。このあたり,お詳しい方のご意見を仰ぎたいところです。

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