March 31, 2004 | アンゲロプロスDVD-BOX
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そういえば,テオ・アンゲロプロスのDVD-BOX,発売になりましたね。全4巻12枚組。う〜ん。欲しい〜。しかし,いつ観るのか? 小津BOXもそうだったが,この手のDVDはやはり「いつ観るのか?」で躊躇してしまう。

ちなみに,ぽた郎の好きな三大「長回し」巨匠は,タルコフスキー,アンゲロプロス,ソクーロフ。静かで退屈で安易な感動を拒絶する温度の低い映画が好き。

March 26, 2004 | 「死刑執行人サンソン」
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ぽた郎の職場の書棚には,文庫本や新書本が何冊か無造作に放りこまれてある。職場でお昼や夜食を食べにひとりで外の店に入ったりするときに持って行くためだ。カモフラージュしている,といわけではないが,本にはそれぞれ同じ書店のカバーがかられており,どれがどれだか見分けがつかない。食事に出る際にあわててそのうちの一つをランダムに手にとり,ポケットに忍ばせる,というのがいつものパターン。たいていは食事が出てくるまでの極めて短い時間の読書なので,なかなか読み進まない。昨日あれを取っては,今日これを読む。あれ?この前はどこまで読んだっけ?という感じで,どれもちょっとづつつまみ食い状態。本を選ぶのも近くの本屋で瞬間的に衝動的に買うものばかり。ジャンルも傾向もまったくバラバラ。ま,しかしそれはそれで手持ちぶたさの掌を慰めるには充分なのかもしれない。で,本日,手に取った本はこれ。

■安達正勝:「死刑執行人サンソン」,集英社新書 (2003)

副題に「国王ルイ16世を処刑した男」とある通り,フランス革命史の裏面史である。フランス革命に関する著作は学生時代から結構あれこれ読んできたが(きっかけはご多分に漏れず「ベルサイユのバラ」です。ハイ。(^^; ),この本の白眉は旧体制でも革命派でもなく,支配階級でも非支配階級でもない特殊な職業からの視点に立ってフランス革命を読み直していることにある。「死刑執行人」という特殊な(かつアンダーグラウンドな)立場だからこそ,怒濤の革命期のパースペクティヴを怜悧に超然と描くことに成功していると言えるだろう。その点ではシャルル=アンリ・サンソンの自伝自身の教養の高さと先進的な思想に追うところが大きい。しかし,ベースはサンソンの自伝に則りながら,著者自身もさまざまな裏面史的なエピソードを盛り込み,かつ軽快な文章でぐいぐいと読ませる。非常にスリリングで含蓄の深い読み物だった。

と,非常に好感の持てる読み物であるが,ひとつだけ問題点が。著者の筆が非常に絶妙でぐいぐいと読ませるのだるが,その熱意を反映してか,描写が異様にリアルなのだ。如何にそれまで残酷な処刑が行われていたか・・・(リアルな描写),如何にギロチンというものが医学的人道的な見地から開発されたか・・・(リアルな描写),人道的考案にも関わらず,如何にギロチンというものが大量処刑の道具と成り果てたか・・・(リアルな描写),と延々と続くのだ。うーん,これは食事前に読む本ではないよな〜・・・と思いながら途中で断念し,本をパタンと閉じると,真っ赤なトマトソースのパスタが,目の前にコトリと置かれた。

March 25, 2004 | シニフィアンとシニフィエ
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自転車仲間のblogでにわかにblogのauthor論が盛り上がっているので,トラックバックの実験を兼ねて(大変失礼!),議論に参加することにする。

blog(あるいは般的なWebリソース)にauthor(あるいは署名,文責名)がありや,なしや? ということだが,結論かうと,ぽた郎としては,どっちでもよいと思う。いや,投げやりな保留的意見ではなく,どっちでもおもしろい,という積極肯定的見解ではあるが。

author とblog本文の関係はソシュールの記号論でいう,「シニフィアン」と「シニフィエ」の関係に似ている。つまり,「意味するもの」と「意味されるもの」。あるいは「記号形態」と「概念内容」。
例えば,ぽた郎という記号(シーニュ)は,「ぽ・た・ろ・う」という記号形態(シニフィアン)と「ああ,あのいつも真っ黒なヒゲのおっさんね・・・。」とか「ああ,あの軟弱者ね。」とかいう概念内容(シニフィエ)の二つの要素に分けられる。ネット上で普段ぽた郎とやりとりしている人やオフ会で会ったことのある人ならば,「ぽた郎」というシーニュが意味するところの「本人」や「ネット人格」(すなわちこれがシニフィエ)がある程度わかるが,はじめてこのページにやって来る人は「ぽ・た・ろ・う」というシニフィアンからはシニフィエが容易に連想できないので,シーニュとしての「ぽた郎」が何を意味するのか(どんな人なのか)わからない。逆に誰かがまったくの偶然で同じハンドル名を使い日記を書いたとすると,「ぽ・た・ろ・う」というシニフィアンから連想されるシニフィエ(この場合は,言い回しとか主張とか)がいつもと違うぞと,読み手は混乱する。
このように,普段,直接対面で会う対人関係と違い,ネット社会上ではシニフィアンとシニフィエは容易に乖離しやすい。シニフィアンとシニフィエの誤った(安易な)結合によって,誤解や先入観も生まれやすい。そういったちょっと特殊な空間が作り出されていると言えよう。

「blogにauthorがありや,なしや?」という議論は,まさにこのシニフィアンとシニフィエの乖離(および不完全な結合)が問題にされているのだと,ぽた郎は分析している。この理論から言うと,@nak(あ)氏の「サイトの書き手の自己(サイト)紹介はそのサイト・書き手のことを知るために必要なんじゃないかと私は思う」という主張は,シニフィアンとシニフィエの乖離によるコミュニケーションの阻害を危惧している立場であると考えられる。また,おのひろき氏のように「書き手の名前が必要だとも思わないです」という意見は,シニフィアンという恣意的なフィルターを介さずに,シニフィエが真に「意味されるもの」として理解されることを期待する立場であると言えよう。
同様に,たけもと氏の「簡単なプロファイルくらい置いてくれた方が、情報を読み取るためのフィルタを構築する助けになる」という見解はまさにシニフィアンの効果的側面を端的に表したものであるし,こぐ氏の「・・・というくらいの自己紹介なら、日記本文を読んだほうがよくわかりそうです」という言説はシニフィアンを通しての歪んだ視線を危惧しているとも言えなくない。

ボードリヤールの広告論を持ち出すまでもなく,我々の取り巻く(特に資本主義的商業主義的)環境は,このシニフィアンとシニフィエの乖離と結合が間断なく繰り返されるダイナミックな空間にほかならない。シニフィアンとシニフィエは完全に一致するものではなく,話者や視聴者によってその「意味するもの」と「意味されるもの」は微妙なズレを生じざるを得ない。それこそがコミュニケーションでなのだ。故に,我々はコミュニケーションに苦しみ,愉しみ,喜び,怒り,それを繰り返しながら成長し,生活していくしかないのだ。ネット上では,それがさらに加速し,先鋭化しているのかもしれない。

最後に,ぽた郎自身の見解。「おもしろければどっちでもよいです。(^^)」 発言者(シニフィアン)がわかるからこそ楽しめる読める記事(シニフィエ)もあるし,非常にうまい共感の持てる記事(シニフィエ)なら,発言者の名前や趣味などと行った妙な先入観(シニフィアン)がない方が面白い場合もある。要するに面白いものは面白い,面白くないものには興味は無い,というある意味残酷なスタンスです(笑)。いずれにせよ,blog(そして全てのWebリソース)は,良い意味でも悪い意味でも,消費されつづける「記号」に過ぎないのだ。

続きもあります。>>

March 21, 2004 | 書評の目,日記の目
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今週もなかなかやってくれました。朝日新聞の日曜日の書評欄。高橋源一郎はやっぱりうまいよね。

■高橋源一郎:星野智幸著「ロンリー・ハーツ・キラー」への書評,朝日新聞2004年3月21日(日)書評欄

小説を読んでいて「これは面白いな」と感じると,「書評してみたいな」と思いはじめる。でも,そういう時にはをつけなくちゃならない。途中から「書評をする」頭で読むようになりがちで,簡単にいうと,作品の「奥」に隠される「本質」を暴き出そうとしながら読んでしまうのだ。それはね,読書中には,ほんとはやっちゃいけないことなんだよ。
これはヤラれました。イタいとこを突かれた。ホンマにタカハシ大先生は,まるで冗談のようなフツー言葉でズバリ正論を吐かれる。脱帽。
この警句は我々アマチュアにもバッチリあてはまります。「書評をする」とか「本質を暴き出そう」とかそんな大それたことは意図せずとも,「日記を書く」目で物事を見るようになりがちになってしまうというのは,確かに見透かされてます。事実,ワタクシ,昨日の円山応挙展では,日記の文章を考えながら応挙の画を見てました。いかんいかん。これはあざとい。素直な眼で画をみなきゃ。感想を考えるのなんて,あとでもいいのに。反省至極。
そろそろ日記と言う麻薬が利き過ぎてきたかな。日記に支配されないように日記を書く。難しいですね。それは「日記」を「言葉」と置き換えても同じこと。

March 20, 2004 | 円山応挙展,もしくは混んでる美術館で愉しむ方法
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東京出張のついでに,ほんのちょっとだけ時間が空いたので,ダッシュで江戸東京博物館の円山応挙展に行く。この世界では超有名とは言えたかだか日本画の展覧会なんで,閑散としてゆくり見れるやろ・・・と思いきや,入口まで行ってビックリ。なんと,長蛇の列。しかも入場制限までしてる・・・。世の中,日本画ブームなのか? たぶんテレビなどで大々的に取り上げられたのだろうが,普段テレビのない生活をしているぽた家の一員としては,この現象はまったく不可思議に映る。いにしえの日本の文化が人気のあるのは悪いことではないが,それにしてもみんな「右向け右」なのか? この老若男女入り乱れての熱狂ぶり(?)はちょっとそら恐ろしい。というわけで,今回はうっかりタイミング悪く入ってしまった混雑した美術館で,イライラせずにどう愉しむか,について書くことにする。(応挙そのものについては,スゴすぎてなかなかスグには書けんので,また今度。)

ぽた郎はいつも美術館・博物館に行くと,勝って気ままにうろうろするのが好きである。決められた順路に沿って整然と(しかも行儀良く行列に並んで!)進むのはキライ。耐えられん。もちろん,行列に割って入ったり,人混みをワザと逆流したりというようなマナーに反する行為はしないように心掛けてはいる。が,やはり,旧社会主義国の配給のようにもくもくと行列を行進する・・・なんて行為は(少なくとも美しいものを見に行く空間では)耐えられないのだ。しかし,(特に日本の美術館では多く見られる光景ではあるが)人々は絵の掲げられた壁に沿って行儀良く順序良くノロノロと行進を続けている。ま,人それぞれの見方があるから人それぞれでいいのだが。しかし,なぜ皆そろいもそろって同じ行動をするのか? やはり「右向け右」なのか? アンビリーバボー。

で,しょーがないから,混んでる美術館でなんとかイライラせずに愉しむ方法を,ぽた郎は自然のうちに身に付けました。

まず,気に入った絵(できるだけ大きな絵がよいでしょう)を見つけて,その前に陣取る。壁に貼り付いた行列の行進をジャマしないよう,数歩下がって,できれば絵全体が俯瞰できる位置まであとずさる。しばらく(かなり)じっと待つ。以上。すると・・・,分厚く垂れ込めた雲間から突如一筋の光線が差し込み,雲が切れ光のカーテンが広がる・・・かのように,一瞬人の波が途切れ,お目当ての絵が眼前に広がる。暫しの,ほんのわずかな至福の時。静謐な空間。そしてまた雲が閉じ,雑踏の現実に引き戻される。そしてまた光を待つ・・・。こういった徒労を繰り返しているうちに,たとえ同じアングルから眺めているだけでも,さまざまなディテールに気が付く。人の影によって無惨に切り取られた部分も,それが見えない故に,網膜に焼き付いた像を記憶の底から手繰り寄せ,反芻し,補完する。隠された部分がある故に,構図が色彩が質感がより鮮明になる。黙々と古代ローマの奴隷のように列をなして歩む人影を遠目に,ときおり顕現する光を愛でながら,ひとりニマニマと佇む・・・。

以上,人いきれの,雑然とした,どーにも虚しい大人気の展覧会で,なんとかかろうじて正気を保つ方法でした。・・・ってそうでもなきゃ高いカネ払って,やってられーん!てかんじですけどね。やっぱり,閑散とした静かでひんやリした美術館がいいよ〜。せめて,路地裏の迷路のようなせせこましい空間配置はやめてくれ〜!>主催者殿

March 18, 2004 | マルクス大帝,失踪す。
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先日,ぽた子さんとの会話のなかで,ふと,話題にのぼり,そういえば・・・,ということで,それを求めて,書庫に降りていった。が,
・・・ない。
ないのだ。マルクス・アウレリウスの「自省録」が。ぽた郎が高校生の時に買った,もうボロボロになりかけてる青帯の岩波文庫が。
こうなると,もう大変。夜中の2時に家捜しを始める。誰かに貸したんだっけ? 去年の引っ越しのときに別の棚にまぎれたのでは? とブツブツひとりごちながら家中を捜索するも,ついに発見できず。これでは夜も寝られーん。と悶々と床につく(ま,すぐに寝ちゃったけど)。

本を所有する,ということはどういうことか。こういうときによくわかる。ぽた家の書庫は,運良く(運悪く?)ぽた郎もぽた子さんもお互いそれにブレーキをかけないので増殖する一方であるが,二人も特に「私有」にこだわっているわけではない。手軽にアクセスでるのであれば,図書館でもよいのだ。人から借りるのでもよい。二人ともこの世からいなくなったら,この本の集合体は散逸するであろう。それはそれでよい。では,なぜ本を買うのか? ・・・それは,夜中の2時にトツゼン読みたい!と思ったときに,スグに手に取る位置において置くためなのだ。思い立ったらもう止められない。特に本に関しては。これはもう欲求というより欲望,欲望と言うより煩悩に近いでしょう。自分でもそう認識してます。ハイ。ストイックなマルクス・アウレリウス皇帝が聞いたらなんと嘆くだろうか。

で,仕方がないから岩波文庫,買い直しました。出張先の東京で。問題の,夜も寝られず気になったフレーズはこれ。

■マルクス・アウレリーウス(神谷美恵子訳):「自省録」,岩波文庫 (1956).

魅惑的な歌,舞踊,角力(パンクラティウム)等というものも,ひとたびこれを分解して見れば,君はきっと大したものに思わなくなるであろう。たとえばもし君が美しい声の旋律を各音に分析し,その一つ一つについて,「こんなものにお前は心を奪われているのか」と自分に尋ねて見れば,そうだというのは気がひけるだろう。舞踏についても一つ一つの動作または姿勢にたいして同様なことをやり,また角力についてもやって見れば,以上と同じことがいえよう。要するに,徳と徳のもたらすものとを除いては,物事をその構成部分に解体して根底まで見きわめ,かように分解することによって,これを軽視するに至るべきことを忘れてはならない。同じ方法を人生全体に応用せよ。(第11章2節)

ああ,ようやく見つかった。20年も記憶の中で反芻すると,意味は同じでも表現がまったく違ったものになっちゃってるのに驚く。もちろん,軟弱煩悩主義!(笑)のぽた郎としては,これを批判的に読んでいるんですが。それはそれで,また後日書くことにしよう。

March 14, 2004 | AMBIENT
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■Harold Budd/ Brian ENO: AMBIENT2 The Plateaux of Mirror, EG Records (1980).

ぽた子さんが書庫の奥から何を思ったのかたまたま掘り出してくれた。実に10年ぶり?くらいに聴く。AMBEINTシリーズはいちおう全部持っているにも関わらずここ数年はイーノ自身の”Music for Airports”くらいしか殆ど聴いていなかったが(その理由を自分なりに思い出しながら考えると,やはり一曲一曲の曲の短さに起因していると思う。”Music for Airports”のようにいつまでもいつまでも続く,無限の螺旋のような気怠い音楽を私は求めているのかも知れない),久々に聴いてみると,アンニュイな日曜の午後にはぴったり。決して不協和音を含むことの無い安定した調性感はやや感傷的で鼻につくキライもあるが(と思うこと自体が天の邪鬼的な私の偏見だが),ボリュームをうんと絞って聴くと,静かで,美しい。窓の外から時々聞こえる車の走行音,子供の歓声,鳥の鳴き声(そういえばもう春か!)。それらのノイズをかき分けながら微かに聴こえる音楽を聴くともなく聞くこと,それ自体がアンビエントのアンビエントたる由縁だということに改めて気がついた。CDが終わり,街のノイズだけが残る。ふと見渡すと,部屋の中はもう暗い。静かで,よい日曜日だ。

March 07, 2004 | 赤川次郎は朝日新聞の社説
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■赤川次郎:「人形は口ほどにものを言い」,小学館

文楽好きのぽた子さんが買ってきた本。ぱらぱらとつまみ読みをする。本の内容に関しては「ぽた子日記」に譲るとして,ちょい雑感を。

これまで赤川次郎って単なる子供向けの流行作家だと妙な偏見を持ってましたが(すみません),文楽や歌舞伎,オペラなどにも造詣が深く,決して嫌味ではない薀蓄も楽しい好感の持てる本でした。本人が評論自体で食っていってるわけでないのが功を奏してか,関係者に遠慮なくズバズバものを言うストレートな表現も非常に気に入りました。
が,しかし。
やはり,私は赤川次郎が苦手です。どこが苦手かって,・・・その文体が。良い悪いではなく,好き嫌いの次元かもしれませんが。どーしても不快なんです。すみません。これってどこかで味わった不快感・・・,とよくよく考えたら,あ,そうか,朝日新聞の社説と同じだ。ということに気がつきました。
ほぼワンセンテンスごとに改行をするブツ切れの文章,リズム感がない澱んだ文章の流れ,接続詞が少なく論理的な制御が見られない構成・・・などなど。ま,確かに斜め読み・速読はしやすい構成ですね。その方が多くの読者にとって読みやすいんだとは思います。だからこそ,多くの人に読まれるんだと思いますが。でも,ここでは思いっきり私の個人的意見(ではないことを密かに期待しつつ)を敢えて述べさせていただきます。私はこういう日本語は好きではありません。ごめんなさい。
というわけで,内容は非常に面白ろくてためになったけれど,妙に釈然としない,まさに新聞の社説を延々読まされているような苦い苦い読後感でした。

March 06, 2004 | やわらかいものとかたいもの
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大学時代の友人,H氏に誘われて,太陽の塔の特別内覧会に行く。太陽の塔の内部はそれはそれで岡本太郎的(としか形容ようがない)で非常にカンドー的であったが,それはそれで,今日は別の話。
太陽の塔のあと,せっかく来たんだからと成り行きでどちらが言い出すともなく,国立民族博物館に入る。特別展のやっていない民博に入るのはもしかして初めてかもしれない。いつもいつも特別展を見終わったあと,駆け足で広大な常設展の会場を駆け巡るのだが,結局今日ものんびりまわり過ぎたせいか,最後の方は駆け足になってしまった。これだけの量と質を誇る博物館は恐らく日本でも他にないであろう。少なくとも,気合いとプライドとコダワリと愛着にかけては,追従をゆるさない,そんな空気がヒシヒシと伝わってくる。
ここ数日(いや,数週間?数カ月?数年?),お決まりの文句ではあるが仕事に追われ,自分では大丈夫,と思っていながら,体も頭もガチガチにこわばり,トゲトゲしいオーラを放っていたのかもしれない。民博のようなやわらかい空間に来ると,そのことにハッと気付く。壁にかかる竹,木,皮,布・・・。そういった,やわらかいものにかこまれると,不思議となごむ。ああ,普段,かたいものばかりを相手にしすぎてるな・・・ということを改めて気が付かせてくれる。
民博の巨大な迷路をめぐりながら,H氏とたわいもない会話を続ける。インドネシアでの輪タクの乗り方について,稲作文明の環境調和性と麦作文明の功罪について,月琴とリュートの関連性について・・・。たまにはこんな会話もしないと,平凡なサラリーマンになっちゃうね。とお互い同じことを言いながら,民博を後にする。
やわらかいものとかたいもの。余裕のない日常生活では,それすらも忘れてしまうのか。

March 02, 2004 | それは違うぞ!野ばらちゃん
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■獄本野ばら:「澁澤龍彦,ねぎらう」『恋愛の国のアリス』,朝日新聞2004年3月2日夕刊

獄本野ばらちゃんは最近ずいぶん売れっ子の作家になってしまいました。彼(彼女ではありません,念のため)がまだ大阪ローカルのフリーペーパー「花形文化通信」に『それゐぬ 正しい乙女になるために』という小さなコラムを連載してたころからファンだった我々(ぽた郎&ぽた子)としては,もう遠い人になってしまったのね・・・。という万感の思いです(故に,我々の間では「獄本野ばら」と呼び捨てにしたり「獄本氏」と敬称をつけたりせず,「野ばらちゃん」と呼び続けています)。実際,ベストセラーになってからの彼の文章でも,多少毒が薄まったとはいえ,他の人には真似できないような特異点からの眼差しは衰えていないどころが,ますます冴えわたるような気がします。が,ファンだからこそ,敢えて言いたい。「野ばらちゃん,それは違うぞ!」と。

澁澤さん,僕は貴方の血をひく者であると名乗っていいのですね? 芥川賞やノーベル賞を貰うより,僕は作家として最高の栄誉を授かりました。
これは野ばらちゃんが今回,澁澤龍彦の『黒魔術の手帖』の文庫本の解説を書いた経緯の中で述べた言葉です。もちろん,野ばらちゃんが奢りたかぶって自らの栄誉を吹聴しているわけではないのは,苦悩と逡巡に満ちた,それに至る文章から容易に読み取れます。実際,一部の批評家から彼の扱うジャンルが澁澤的であるという指摘もされており,彼にその発言をする権利(というものが文壇で存在するのかどうかはともかく)があるのは充分理解出来ます。それでも,やはり,「それは違うぞ!」なのです。
この違和感は何なのでしょうか? 野ばらちゃんは野ばらちゃん。澁澤龍彦は澁澤龍彦。それでよいのではないでしょうか? たまたま放物線を描いて澁澤の引力圏内に吸引されたとしても,また野ばらちゃんは野ばらちゃんの自由な弧を描いて去っていけばよいのではないでしょうか? 澁澤と言う途方も無い無限遠の消失点を追い求めることは,野ばらちゃんが野ばらちゃんでなくなってしまうような気がしてなりません。
というわけで,それは違うぞ!野ばらちゃん。野ばらちゃんは野ばらちゃんのままで,ずっといてくれることを切に願います。

(追記あるいは蛇足:ああ,そういえば,「ゴシック」や「ロリータ」は確かに澁澤の世界の一部だけど,「乙女(おとめ)」はやっぱりちゃうよなー。それはどうなのよ? とも思ったり。)

March 02, 2004 | MT移行化,ようやくひと段落。
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MTのCSSスタイルシートおよびHTMLタグと格闘すること一週間。ようやくなんとか,「さるさる日記」風のアピアランスになりました。ふう。疲れた。

参考にさせていただいたサイトをメモ的に列挙します。
BLOG質問箱 http://www.mylog.jp/blogs/q-box/
MASAHIKO ISSHIKI Web Site http://www.masahiko.info/blog/
Movable Type User Manual: TEMPLATE TAGS http://www.movabletype.org/docs/mtmanual_tags.html

・・・勉強になりました。ハイ。お世話になりました。

March 01, 2004 | 「文学的商品学」
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■斎藤美奈子:「文学的商品学」,紀伊国屋書店
読了。

いや,やっぱ,すごいですね,このヒトは。「文学は暗喩から腐って行く」だそうです。村上龍や辺見庸に対してこんな批評できるヒトって,やっぱ斎藤美奈子しかいないよね〜。「穿つ」とはまさにこのことですね。
時間があれば,また書こう。