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January 31, 2004 | CDを買う
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久々に梅田に出て,CDを買う。懐かしいもの,新しいもの。時間があれば書きたい。
・Saval & HesperionXX: Antonio Cabezon
・Hilliard Ens.: Morimur (Bach ViolinPartita)
・John Potter: Dawland Project
その他
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January 25, 2004 | LP復活
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実に何年ぶりだろう。フォノイコライザーを買って来て,LPプレーヤーを復活させる。
学生時代,擦り切れるほど聴いたクープランのヴィオール曲をかける。
針を落とすと,六畳一間の狭い下宿で,夜中にひとりスピーカーに対峙する15年前の私が,そこにいた。
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January 23, 2004 | 「Big Issue」
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仕事関係で梅田に出た折に「ビッグ・イシュー」日本語版を買う。
ページは薄いが内容は決して軽いものではなく、純粋に読み物として十分楽しめるものだった。さすがに硬派な記事が多いが、それでいて深刻さや悲壮感はなく、説教臭くもない。そのへんがエディターの力なのかな。
ぺージ数の割には200円は少々高いが、それはこの雑誌のコンセプトにかかわるところ。それを差し引いてもまた買ってみよう、という気になった。
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January 21, 2004 | 金原ひとみ
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毎年,芥川賞には興味はないし(ぽた郎はあまのじゃくだからベストセラーは読まない。ブームが去ってから読む(笑)),二人とも女性で最年少だから,とかも別段興味はないが,金原ひとみはちょっと惹かれるものが出てきました。1/20付の朝日の夕刊に載っていた文章をたまたま読んで,ああこの人はうまいな,と思わず唸ってしまいました。
ぽた郎が気に入ったフレーズ。「答えを求める人はこぞってハリウッドばかり観る。本当は答えなどないし,なくてもいいし,いらないし,バカバカしいのに。」
内容もさることながら,その文体が,一見テキトーに思いついたままに書きなぐられているような軽薄に(と軽薄な人にとっては)見える文体が,ぽた郎はいたく気に入りました。思わず,計算されてる・・・,と読後,呟いたほど。声に出して読むとよくわかります(おっさんが声に出して読んでも非常に見苦しいのでできれば女性に読んでもらった方がよいでしょうが)。これは喋り言葉ではありません。「言文一致」の文章です。
一見,だらだらと喋ったように見えて,(論理的に?直感的に?)丁寧に練られており,しかも古語(おやぢ言葉)ではない文章。バブル期の両村上や吉本ばなな,山田詠美とは違う軽ろやかさです。そう,地に足ついた軽やかさ,かな。うまい・・・。の一言です。
ま,新聞に寄せる単なる寄稿文だけでは即断できかねますが,それでも,読んでみてもよいかも,と多くの(少なくとも私だけではない)読者に思わせる魅力の光を放つものではありました。今後が楽しみ。
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January 07, 2004 | 「暮らしのことば 擬音・擬態語辞典」
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■山口仲美 編:「暮らしのことば 擬音・擬態語辞典」,講談社
この手の辞典はぽた家にはなかったので,本屋でおもわず衝動買いをしてしまった。読んで調べて非常におもしろい本である。労作,偉業。買って正解。
しかし,一点だけ非常に不満に思う点がある。それには触れないわけには行くまい。
それは「万葉集からコミックまで用例を徹底収集した決定版」との宣伝句である。特に,この「コミックまで」という浅薄な文言が甚だ不満。これが仮に「万葉集から村上春樹まで」とか「万葉集から江國香織まで」であれば非常に納得できる。本の趣旨から言ってもこれが妥当だ。しかし,「コミックまで」と豪語されては,残念ながら編集者の見識を疑わざるを得ない。少なくともコミックに関しては,「徹底収集」からはほど遠い散漫で恣意的な感が否めないからだ。
ここで取り上げられているコミック作家を列挙してみよう。「赤塚不二夫,東海林さだお,植田まさし,松本零士,あさりよしとお,うえやまとち,蛭田達也」。これだけである。残念ながらこれだけ。ホンマにこれだけ。これで「徹底収集」・・・とほんとうに胸を張って言っているのだろうか? 私にはタチの悪い冗談にしか受け取れない。
まずサンプル数の圧倒的少なさ。豊穣な日本マンガ文化の中から,あまたあるコミック作家の中からたった7人だけをピックアップして,それで網羅・徹底収集と言えるだろうか。あるいは,「量」で勝負せず「質」で勝負する見方もあるが,やはりこの組み合わせは厳選と言うにはムリがある。あさりよしとおとうえやまとちと蛭田達也はともかく(付け加えるなら,蛭田作品はおよそ蛭田作品の持ち味とは無縁のありきたりの普通のコマが1カット引用されているに過ぎない),それ以外の作家は残念ながら「マンガ史」のジャンルに属する作家であり,現代の「日本マンガ文化」にカテゴライズされる作家では既にない(と敢えて断言する)。つまり,この組み合わせはズバリ,「普段マンガを読まないオヤヂ世代が知ってる数少ないマンガ作家を無理矢理挙げたもの」に過ぎない,と私は断罪しよう。まるで小学生に「知ってる小説家を全部挙げて下さい」と訊いたに等しい体たらくさだ。
もちろん,本文中のカットコラムでマンガを引用するにはやぶさかではない。ビジュアルに示された用例は読者の理解の助けと微苦笑を提供するであろう。それは作者や編者の意図するところであると思われるし,それはそれで微笑ましく成功していると言える。が,しかし。それならそれであくまで「説明の補助のために」とか「作者の好みでマンガを集めました」で済む話ではないか(実際,「まえがき」だけ読むと編者のその謙虚な態度が読み取れなくもない)。それを,売らんがために大段に万葉集と並記し,「マンガまで」「徹底収集」とは,これは誇大広告としか言い様がない。これは一見,あたかもマンガというメディアを古典と等しく取り上げているというリベラルな態度を装いつつも,中途半端で恣意的な収集でもまあよしとする,マンガおよびマンガ文化に対する無知と無関心を隠そうともしない傲慢な態度にほかならない。繰り返して言うが,問題となるのは,本書の内容ではない。一方の文化(文学)には学術的に精緻で手厚く丁寧で,他方の文化(マンガ)には実は副次的にすぎないが「配慮してやる」というポーズを見せる(そして騙された読者が買ってしまう),この偽善的匂いが私には我慢ならないのだ。
ちなみに,個人的見解を付け加えるならば,マンガは擬音・擬態語の宝庫であり,まさに生きた言語の独創的な実験の場とも言える。それらが社会的な認知を受けているかどうかの議論は別の学問に任せるとして,せめてマンガを真摯に取り上げるのであれば,挿入コラムででも天才的な擬音・擬態語の創造者たちを論じて欲しかった。少なくとも高橋留美子と原哲夫は外せないでしょう。・・・と,私がしたり顔でこう書くと,なぜこの二人なのか,○○はどうした,と立ちどころに反論が出そうである。それほど,マンガ文化は奥が深いのだ。
マンガを読まない文学者よ,本を読まない若者をバカにするなかれ!
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January 05, 2004 | 「スシとニンジャ」
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■清水義範 :「スシとニンジャ」,講談社文庫
読了。
清水義範はうまい。下手をすると差別的な嘲笑になりがちな,あるいはお決まりのお涙頂戴物になりがちな異文化交流ドタバタ劇を,うまくさらりと,しかも渋く,まとめている。うーん,ストーリーテイラーやね〜。駆け落ちネタは,携帯電話が登場する以前の最後の時代,ということでご愛嬌。
「日光のゴテゴテした過剰な装飾が,外国人の目にどのように映るか心配」というヒロインの言葉は,フーコー的? と思わず深読み。(^^;
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January 03, 2004 | 「イティーハーサ」
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■水樹和佳「イティーハーサ」,集英社 豪華版全15巻
読了。2000年に完結しているものだが,10巻目ぐらいまで買って,そのまま放ったらかしにしておいた。正月,古本屋で残りをたまたま見つけたのでまとめて買ってまとめて読む。
やはり,すごい,の一言につきる。すばらしい。予算と設備だけは重厚長大で作品自体は軽少浅薄のハリウッド文化とは対局の,複して豊潤,深遠にして緻密な日本マンガ文化を代表する秀逸な作品である,といっても過言ではない。複雑な味こそ滋味。よくできた「作品とはそういうもの。
というわけで,私自身は非常に気に入っているこの作品であるが,あえて辛口読後感を書いてみることにする。
あいかわらずの水樹節。非常に綺麗。美しい。それ自体がアトラクティヴな(魅力的な・惹き付けられる)芸術作品であると言えるだろう。しかし。美しすぎるのが,調和があり過ぎるのが,水樹和佳のむしろ欠点でもある,と私には思えてならない。水樹和佳の描く善神のような,瑕のない調和の取れた絵を見ると,つい,そういった天の邪鬼的考えを持ってしまう。ニーチェ風に言えば,アポロンに嫉妬するデュオニソスということか。
水樹和佳の描く善神は神々しいまでに美しく,悪神もまたそれなりにカッコいい。悪神があやつる悪の従士たち(人間)もそれぞれ美学がある。しかし,それは残念ながら「悪の美学」と呼ぶにはあまりにもキレイすぎる。美学がありすぎて,結局は「いい人」に還元されてしまうのだ。つまりこれでは,汚いところがない,匂いのない,偽悪的な「悪」に過ぎないのではなかろうか。
たしかに「悪」の描写は作品にも存在する。戦闘や殺戮のシーンは血しぶきが飛び散り,死体が散乱し,少女マンガとしては異例の「残虐さ」を敢行しているとも言える。しかし,その血には匂い(もしくは臭い)がない。暴力性がない。あたかも歌舞伎や浄瑠璃のごとく昇華された美しい血にしか見えないのである。作者自体が意図してそれを書いているのか,作者の意図に関わらず美しく完成された絵がそれを疎外しているのかは,わからない。しかし,吐き気をもよおすような,目を覆いたくなるような,ムッとくる生理的な匂いが,残念ながら希薄だと言わざるを得ないのである。
もちろん,昨今の安易な小説/マンガにあるように,やみくもに暴力的・残虐的な描写をすればよいというものではない。しかし,不快な死の匂いを暗示するすることさえしないのは,「悪」にとっては甚だ不公平な扱いではなかろうか。主人公たちは時折,人を殺めたことに対する快楽と悔悟の念を揺れ動く(かのように描写される)が,マクベス夫人の手のような生々しさは希薄である。悪もしくは暴力性につきまとう負のエネルギーとしての匂いが,暗示すらされないのはやはり残念である。
同様に,水樹和の作品には「汚い」ものも存在しない。古代では日常的であった屠殺,腐敗,排泄,といった物理的な汚さはもちろん,戦争に(残念ながら)つきもののレイプ,リンチ,拷問,弱者虐待,といった精神的な汚さまで,やはり残念ながら見事なまでに排除されている。こういった人間の本質に迫る暗部を敢えて無視してしまうことによって,善と悪の対立とその超克という作品全体のテーマは,残念ながら表層的なものにしかなり得ないのではないだろうか。
ここで,「少女マンガだから」とか「読者層が」などと言った言い訳はもはや通用しないだろう。作品の扱っているテーマ自体が壮大で崇高でもはや「子供向き」の領域を超えているのだから。安易な二元論に陥らない複雑で深遠なテーマはすばらしい。これこそが成熟した文化として日本マンガを代表する豊穣な作品であると言える。だからこそ,「少女マンガだから」と逃げ道を作らないような悪の本質に迫って貰いたかった・・・。愛すべき作品への,これはわがままな要求だろうか?
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January 02, 2004 | 日記を書くこと。
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ぽた郎の日記は,(昔も今も相変わらずだが)その日のうちにあったこと,思ったことをその日のうちに書くということは殆どない。ある本を読んだら,あることを考えたら,それを延々とあるいは悶々と,気まぐれに思い出したときに反芻し,ようやく言葉という形になった時点ででろでろとこの世に表出させる。瞬時に考え瞬時に言葉に発する,それは仕事ではやらねばならないのでやってる(フリをしている)が,自らの日記にそんな日常まで持ち込みたくないのだ。反芻しても消化せずに流れていってしまったものは仕方ない。それに耐えられたものだけが残る,あるいは残す。故に「日記を書く」のは重い行為なのだな。そんなアホで徒労な行為がぽた郎はいたく気に入っている。(気に入りすぎて日常に帰られんようにせんとな。)
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January 01, 2004 | 日記を始める。
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かつてぽた郎は学生のころ,日記を書いていたことがあった。そして長らく日記を書くのを止めていた。意図的に。もちろん,「軟弱ポタリング日記」や「あるちゅ〜のーと」は毎年中断しながらも細々と続けているが,これは単なるメモである。戯れに「日記」と名付けたりもしているが,ぽた郎の中では「日記」ではない。日記を書く,というのはやはり特別な行為なのだ。
「日記を書く」という作業は重い。
ひとたび「日記を書く」ことを意識してしまうと,生活そのものが「日記を書く」ために存在してしまうかのようだ。日記を書くために考え,日記を書くために行動し,日記を書くために喋る。一挙手一投足,「これは日記に書かなきゃ」と思い,「これもまだ書いてない,あれもまだ書いてない」と苦悶の日々が続く。思考がすべて日記に支配されてしまうのだ(この関係はひとたびカメラをもつと,視線がすべてカメラに支配されてしまうのと似ている)。少なくともぽた郎にとっては甘美なまでの非日常的非生産的な行為であったのだ。
学生時代は有り余る時間を持て余し,日記に支配されながら生活を送ってもそれなりに低空飛行ながら破綻せずに切り抜けられた。陰々滅々で日記の泥沼にはまることもあれば,日記のおかげでなんとか精神的破滅にも陥らず危ういバランスを保てたと言える。しかし,今,(とりあえずまともな)仕事をもち,日々の雑務に追われる毎日ではたして「日記を書く」などという重い,愉悦の,自虐的な作業を続けることができるであろうか?
これが今まで日記を書くことを意図的に止めていた理由である。ではなぜ,ここにきて再開するのか?
ふと,なんとなくそろそろ頃合いかな,とある日突然思ったのだ。思ってしまったら,その瞬間から,「日記を書く」ことに支配されてしまう。1行たりとも日記を書かずとも,生活の全てが「日記を書く」ことを前提に一挙手一投足からめとられてしまう。甘い,悦楽の罠に。当面の目標は,日常とちゃんと両立できるか,かな。学生時代は2・3日日常に帰ってこれなくても,まあ許されたが。日常に帰ってこれなくなったら,仕事に破綻を来すようだったら,日記をやめよう。
「日記を書く」ことは重い。重いが故に己を己であることをあらためて思い出させてくれる甘美な装置である。故に,日記を始める。