January 22, 2006 | 情緒と合理,安心と安全
昨日に続いて,もひとつオヤヂくさい説教を垂れてもよかですか。今,新聞やテレビをにぎわせているもう一つの「大事件」,牛肉輸入問題です。これについても,まあ一億総評論家状態で数多の意見が出されてますが,やはり,誰もことの本質を言い当ててない。そんな気がします。唯一,それを言っているのは,しかも以前から予見しているのは,伏木亨の『人間は脳で食べている』(註1)くらいなんじゃないでしょうか? 結局のところ,日本政府もマスコミも,それから肉食大好きの国民も,首尾一貫としていません。場当たり的に右往左往。自分たちが何を求めているのか,相手にどう求めて行けばいいのか,わかってません。そりゃあ国際問題,良くも悪くも政治的駆け引きもあるでしょう。でも,首尾一貫とした戦略がなければ,結局は相手の思うつぼ。他の外交問題も含め,戦略なさすぎ。とほほ状態です。
今回,何故アメリカがこうもアッサリ非を認め,日本政府に謝罪をし,再び禁輸を呑んだのか,残念ながらあまり多くのマスメディアはそれを分析してくれていません。彼らが非を認めたのは,安全でないことがわかったからという科学的根拠に基づくものではありません。ましてや,安心でないことがわかったからという情緒的問題でも決してありません。単に,自らの落ち度で契約違反があったから,それだけなのです。これは欧米の契約社会(その精神的立脚は「聖書」にまで遡ります)を考えれば,容易にわかることです。情緒よりも合理,合理よりも契約。今回,それをちゃんとわかってるマスコミや評論家,そして消費者はどれほどいるでしょうか? 残念ながら,聞こえてくる意見は,「それみたことか,やっぱりアメリカ産はあぶない」「アメリカは信用できない」などなど・・・。どれも全く的はずれな議論です。
冷静に考えれば,すぐわかります。今回のアメリカ側のミスが発覚したことにより,日本に輸入されるアメリカ産牛肉の安全性は少しも下がったり上がったりした訳ではありません。問題の部位はアメリカ国内や他の国へは「安全」として流通しているものなのです。科学的な根拠に立脚すれば,20ヶ月齢以下の若い牛であれば,危険とされる部位(背骨)などを習慣的に食べても,人間が発症した例は存在せず,もしあったとしてもその確率は飛行機事故よりも自動車事故よりも喫煙で肺ガンになる確率よりも桁違いに低いのです。今回の混入問題発覚により,その発症確率が上がったり下がったりするわけではありません。アメリカは確かに日本に謝りました。何を? それは安全性の低下に対してではありません。日本向けに輸入しないと契約した危険(と日本が指定している脊柱)部位を混入させてしまったという,己の契約不履行を謝ったのです。ということは,その契約が再び結べる状態になったのなら,更に前回よりも語気を強めて,輸入再開を強く求めて来るであろうことは容易に予想できます。その時,日本はまた情緒的に応酬するのでしょうか? そうなったら国際世論として(国内世論ではありません),どちらに軍配が上がるでしょうか? 勝負は目に見えてます。
もちろん,情緒的な安心感,というものを,私はバッサリ切り捨てたいとも思いません。前述書の著者の言うとおり,人間の感じるおいしさは今や五感だけでなく情報から得るところも大なのですから,消費者行動として,それを全く無視するのもナンセンスだと思いますし,私自身も「情緒」という文化は大事にしたいと思っています。では,何が問題なのでしょうか? それは政府がちゃんとアメリカや他国に説明責任を行っていないからです。日本文化は風土的歴史的に他文化と比べ清潔感や清浄感をことさら重視する傾向にあること,それが消費や経済にまで多大な影響を与えること,など,相手の文化や価値観に即した翻訳を行って,自国の立場を相手に説明をしなければならないのです(例えば,情緒感や風評はマーケティング上重要なファクターなので,彼ら(契約型資本主義経済)に取っても重大問題であるという認識は十分共有化できるはず)。また,相手の価値観を分析して,次はどう行動するかどう反応するかを予測しなければならないのです。そういった説明の努力を怠ってる。まるで戦没者祈祷問題で揉めてるどこかの国の首相みたいですね(あ,自分の国のだった(笑))。同様に政府は,国民に対してもきちんとした説明責任を履行していません。十分な科学的根拠に立脚しない全頭検査をするということは,それだけ理由が不明瞭の予算をとるわけで,そのぶん他の予算が減らされるわけです。例えば,鳥インフルエンザ対策とかハンセン氏病補償問題とか出産費用無料化とか。それら大きな枠組みの中でどれを優先的に対処するべきか,というのが本来政治家や官僚の行うべき仕事ですが,彼らは目先の選挙と地元の利益ばかりを気にしたり,縦割り行政で既得権競争に終始したりと,大局的な視野に立って戦略を練るにはほど遠い状態です。これじゃあ国民が納得するような政策はでないのも当然。マスコミもマスコミで,いちばんタチが悪いのは,情緒と理論を場当たり的に都合良く使い分け,耳あたりのよいが首尾一貫しない論調で消費者の不安を煽る。冷静で理論的な分析はテレビ受けしないからあまりやらない。そういった政府やマスコミの首尾一貫のなさが,この問題をここまで大きくしている根本原因なのではないでしょうか?・・・そして,そういった政府やマスコミを,我々消費者が支えているのです,彼らに踊らせられながら。
では,消費者はどのような態度に出ればよいでしょうか? 重要なのは情報に煽動されて,惑わされないことです。己の立場を容易に豹変させないことだと私は思います。もしあなたが,どうしても牛肉をたくさん食べたいという快楽を追求したいのであれば,自己の生命に甚大な影響を与える確率でない限り,それを受容して摂取するのも一つの手でしょう(アメリカ人が牛肉を食べるように。喫煙者が煙草を吸うように)。もしあなたが,どうしても情緒的に感覚的に安心して牛肉を食べることができないと思うのであれば,情報に一喜一憂せず,長期的に牛肉を食べる機会を大きく減らしてみたりするのもよいかもしれません。(余談ですが,現代人は肉食依存症で,食べなくてもよいものを食べて栄養素を過剰に摂取しすぎです。それはまた別の話題として,いずれ書きたいと思います。)あなたが今から食べようとしている牛肉は,あなたが本当に食べたいと思っているものでしょうか? 五感としておいしいと感じているものなのでしょうか? あなたは情報を食べていませんか? 情報に食べさせられていませんか? 食の「安全」は政府や業者に厳しく追及しなければいけないことですが,「安心」は誰かに決めてもらうことではありません。そのことが,我々に一番足りない情報なのではないでしょうか。
ちなみに,この本では,タイトルの「脳で食べている」に象徴されるとおり,人間の味覚と情報の関係をわかりやすくかつ理論的に解き明かしています。その中で,ほんのわずかな部分ですが,「情緒的な安心感の構築」というキイワードで,BSE問題にも触れています。
■伏木 亨:「人間は脳で食べている」, ちくま新書 (2005).
BSEの全頭検査は,疾患の原因物質と考えられている牛肉の異常プリオンによる汚染を検出することが本来の目的である。これを行うことによって牛肉に対する安心が情緒レベルでも高められた。(中略)本の奥付をみると2005年12月発行とありますので,原稿を書いたのは数ヶ月前。まさにタイムリーな評論で,その後の輸入解禁から今回の混入発覚,再禁輸までを見事に予見する見事な分析と言えるでしょう。このエントリの話題とは大きく関係はありませんが,ご興味のある方はご一読を。
全部という言葉が非常に説得力を持つ。この言葉に国民は安心している気配がある。
一方,20ヶ月齢以下の若い牛から異常プリオンが検出された例はないこともあって,若い牛の検査にまで固執するのは科学的に意味がないとアメリカが主張する。余計な経費がかかるだけで科学的な意味がない。これも理屈である。(中略)
日本には全部の牛が検査されたという事実を基盤にした情緒的な安心感の構築があったのである。アメリカの牛の解体処理や検査がていねいに行われているかという疑問の声もある。それはさておくとして,科学的根拠に基づいて全頭検査を省略しても恐らく実質的には違いは生じないだろうが,情緒的な安心感には傷が付く。
このあたり,アメリカ農務省高官が理解するかどうかは本書の執筆時点ではわからない。しかし,食品に対する安心の確保が科学で割り切れるとするのは,日本の消費者心理に対する洞察を欠くのではないか。この問題がこじれる理由がそこになる。日本側の取るべき立場を諮問された委員会は噛み合わない二つの国の発想の板挟みになる。
全頭検査廃止問題には敏感に反応しながらも輸入禁止以前に貯蔵された米国産牛肉を使った牛丼は受け入れる。
「ヘンな日本人」
輸出側から見ると訳のわからない行動に映るだろう。たしかに論理的ではない。理解に苦しむ米国が「悪意があるのでは」と邪推する恐れもある。日本人の清浄感に対する科学で割り切れないこだわりである。 (下線部はぽた郎による)