February 11, 2005 | 弱きもの,汝の名は悪魔なり
物騒な凶悪犯罪が起こる昨今,迂闊に「悪魔」を擁護する論を張ると,ややもすると大な誤解と偏見を被りかねない。ここは慎重に行こう。ここでは,ひとまず,「悪」と「悪魔」の相関性は置くとする。確かに悪魔は悪を犯すかもしれない。しかし,「悪魔」と呼ばれる必要十分条件は「悪を犯すこと」ではなく,「神に悪魔と呼ばれること」なのだ。それに過ぎない。前回のミトラ神を追って,深い本の森に分け込んでしまった。迷うがままに彷徨ってみよう。以下,またしても恐縮だが,長々と引用。
■J.B.ラッセル(野村美紀子訳):「悪魔 古代から原始キリスト教まで」,教文館 (1984).
反対物の共在は天界の戦いという概念によって表現されることがある。しばしば一群の神々が若い世代の神々によって位を追われ,悪とみなされるようになる。キリスト教徒はギリシアとローマの神々からデーモンを作った。オリュンポスの神々はティーターンを有害な霊に変え,テュートン人の神々は巨人族を征服した。インド=イラン人の宗教にははじめ二組の神々がいた。アシュラ(インドではアシュラ,イランではアフラ)族とデイヴァ,またはディーヴァ族である。イランではアフラ族がディーヴァ族を征服し,アフラ族の指導者が主神アフラマズダ,光の神になった。ディーヴァは悪霊の地位を与えられて,闇の王アーリマンの手下になった。インドではディイヴァ族がアシュラ族を倒した。ある意味ではインドで起こった結果はイランの場合の反対だが,深い意味では,起こったことはきわめて近い。一群の神々が他の神々に征服されて全体として悪霊の地位へ逐いやられたのである。(中略)「神」と悪魔は永劫の昔から存在し,力を合わせてきた。あるいは両者は兄弟である。あるいは「神」が悪魔を創造する。あるいはさらに近い関係で「神」が悪魔を生む,あるいはみずからの本質から作り出す。
(中略)
ヘブル人ははじめ,ヤーウェが神なる原理の唯一の顕現である,と主張した。かれらの神は「神」になった。だがかれらは自分たちの唯一の神が可能な限り至善であることを欲した。こうしてかれらは暗黙のうちにまた無意識に,「神」の悪の面を善の面から分離して,善の面を主,悪の面を悪魔とよんだのである。それでもかれらの宗教の原理は本質的に一神論だったから,かれらはふたつの別々の原理の措定の前では踏みとどまらねばならなかった。そのため悪の精神である悪魔は変則的な地位にとどまることになった。一方では悪魔は悪の作り手であって,悪魔が存在することによって主は世界に存在する多数の悪に対する直接の責任を逃れた。その一方で悪魔は独立の原理ではなく,主の被創造物,さらには僕であるとさえされた。この変則性が潜在的な一元論と二元論との緊張を生むことになった。悪魔は旧約聖書ではめだつ存在ではなかったが,外典,黙示文学,新約聖書ではおおいに発達した。たんにつまらない迷信の添加などということではなく,悪魔は「神」自身のうちから生じたのであり,善の主の対をなす存在,双児の一方であり,神の影なのである。(下線部はぽた郎による)
■ジョルジュ・ミノワ(平野隆文訳):「悪魔の文化史」,白水社文庫クセジュ (2004).
そもそも,多神教は悪魔をそれほど必要としてはいない。それもそのはずで,数多の神々が存在するところお互いが牽制しあい競合関係が生まれるのは必定であり,しかも,こうした神々は,利害に応じて善人にも悪人にもなりうる曖昧な存在であるから,それだけで悪の存在を説明するに足りうるのである。一神教はこれとは正反対で,悪魔なしでは立ち行かない。唯一神である限り,その神がすべての源とならざるをえない。つまりは,善のみならず悪の源泉にもなってしまう。この大問題を回避する方法は一つしかない。すなわち,悪の存在を説明できる逃げ口上を,なんとか見つける以外にない。この逃げ口上がまさしく悪魔であって,これ以上に解決法は見当たらない。ただし,全能者の創造した世界を,なぜより劣った存在が混乱せしめうるのかを,まだ説明する必要は残されているが。
神は「絶対者」に近づけば近づくほど,より強力でより善良,かつより普遍的になるが,同時に,神にとって悪魔の存在は,もはや必要不可欠なものにならざるを得ない。悪魔の概念が,キリスト教という宗教において,最も高い完成度にまで練り上げられた理由も,この辺りに求めうるだろう。逆説的なことに,サタンのみが神を救いうるのである。サタンのおかげで,現世における理不尽な肉体的・精神的苦痛を説明することが可能となるからだ。もし,このサタンがいなければ,全能にして無限に善なる唯一神なんぞを,一体誰が一瞬たりとも信じるであろうか。完璧なはずの神が,これほど悲惨な世界しか作れないのだから,当たり前の話である。ジョン・ウェスリー(1703〜91年:英国の宗教改革者。メソジスト派の開祖)の喝破した通りで,「悪魔なくして神なし」ということに相成る。もちろん,逆も真なりであって,いわば,このカップルに別れ話はありえない。
(中略)
・・・すべての一神教は,実は偽装した二元論にほかならない。悪の神が下位にることを信じて貰おうとして,どんな言い訳をしたところで,この本質は変わらない。大抵の場合,至高の神という不公平な審判者を措定して,善に軍配を上げようとするのである。ユダヤ=キリスト教という一神教もまた,この枢要な問題に直面せざるをえない。すなわち,一体いかにして,悪の敵すなわち善なる唯一神の全能と,悪の執拗なる存在とを,両立させうるのか,という問題にである。(下線部はぽた郎による)
秀逸な批評の引用のあとには,多くを語るまい。とはいえ,ちょっとだけ蛇足を。(イブに知恵を与え賜うた楽園の蛇も足があれば疎んじられなかったろうか?) 「悪魔」とは「悪」を成したかどうかが問題ではない。「神」から烙印を捺された者がすなわち「悪魔」なのだ。そして,神は己の意のままにならない者には烙印を捺したがる。「神」を「合衆国」あるいは「ブッシュ」と,「悪魔」を「イラク」あるいは「フセイン」と置き換えて見よ。まるでかの国の国務長官(おそらく大天使長に相当するのだろう)の就任演説である。「神」はうっかり倒してしまった「悪魔」を懐かしみ,己の地位を守るために新たに「悪魔」を探すことに躍起になるよりほかはない。もちろん,「悪魔」に安易に同情するのは禁物であるが,「悪魔」=「悪」と直情的に結びつけるのは,それこそ「神」の思う壺ではないだろうか? 「神」からも「悪魔」からも離れて,怜悧な理性の目を以て物事を見よ。歴史は,そして宗教学は,そう教えている。
自己レスれす。
あうー,また長くなっちまった・・・。また字数カウントされちゃう・・・。>誰とは言わんが(笑)
もう寝よ。今日はたぶん勝ったな。( ̄▽ ̄) (誰に?何を?・・・)
誰です(笑)。
本日は約2800字です。ここまで起きていたので、ゴミ出ししてから寝ます。
これだけではあれなので、一言。古代日本でも厄災の大半を「もののけ」に押しつけては、為政者(含む僧侶)によって「規定」され「加持祈祷」されたことが思い起こされました。
................. by morio (02/12 04:24)morioさん,すばやいコメントありがとうございます。またカウントされちった。(^^;
ところで,なるほどー。「もののけ」ですか! 日本の民俗学は実はちと苦手だったんですが(それはまた機会があれば書きます),ちょっと精力的に読んでみようかな。やっぱり小松和彦あたりがよろしいでしょうか? あ,それと,まだ機会を逸して見てなかった「もののけ姫」も見なきゃ。(^^)
さきほど,誤字脱字を少々訂正しました。てゆうか,やっぱりMovableType,文字の欠損が多すぎ。これはMTのせい? Safariのせい?
................. by ぽた郎 (02/12 13:08)2/11付けで書いたこの記事の中で一部,精神疾患に関する記述があり,その部分が当該の精神疾患をお持ちの方を傷つける可能性がある,とある方からメールでご指摘受けました。私としては不用意な発言をしたとは思ってはおりませんが(十分に吟味した上で自分の考えを的確に述べたつもりですので),(i)ご指摘頂いた方の真摯な意見もなるほどわかるな〜と感じたこと,(ii)仮にその部分の表現を削っても本文の論旨に大きな影響を与えないこと,の2点から,当該部分の表現を削除することに致しました。ここにお断りをさせて頂きます。
................. by ぽた郎 (03/12 01:39)