January 27, 2005 | 日本アニメの限界と臨界,プラネテス論。

NHKのアニメ,プラネテスが終わりました。正確に言うとBS版ではとっくに終わってるんで,地上波の再放送が終わったわけですが。ぽた家はBSが見れないので,ぽた家的には今回ようやく,という感じ。ま,それはともかく,毎週ほとんど欠かさず見てしまいました。ぽた家的には非常にに珍しい。それほどぽた家(=ぽた郎&ぽた子)としては原作に惚れ込んだ,ということですが,アニメの最終回を見終わって,二人で異口同音,「くっだらねーっ!」・・・と絶句。ネット上で見る限りアニメの方も評価する方は多いようですが,ぽた家的には非常に不満が残るアニメでした。いや,ディテールなどはよくできてるんですけどね。なんだかんだ文句たれながらも毎回見ちゃいましたし,楽しんだのは事実ですが。それにしてもヒドい。最悪ですわ。というのがぽた子さんとぽた郎の共通の評価。・・・というわけで,なぜ世間では好評だったのに,ぽた子さんもぽた郎も酷評するのか,その辺を分析的に書いてみたいと思います。感想 impression じゃなくて,批評 criticism,のつもり。

■幸村誠:プラネテス,講談社モーニングコミックス,全4巻 (2001-2004).
■アニメ版 プラネテス 原作:幸村誠,脚本:大河内一楼,監督:谷口悟朗, 2003年,サンライズ/NHK).

ジャパニーメション Japanimation という和製英語が国際的にも認知されつつあるように,日本のアニメーションは日本の主要輸出品として,あるいは現代日本文化の代表として,胸を張って世界に紹介できるものだと言えよう。精緻な設計と製作工程は浮世絵にも譬えられるし,勧善懲悪に堕さない巧妙なストーリーや背景は日本の近代文学にも比肩するとも言われている。これはイギリスやフランスなど海外に行ってちょっとした大きな街の比較的大きな書店に入ると,それが実感できる。たいてい本棚1ハイから2ハイ,それ全体で大きなコーナーを形成している。なにしろ日本文学や日本のガイドブックよりも,そして自国のコミックスよりも遙かに大きなスペースを取って陳列されているのだから・・・。ともあれ,それほどまでに世界中からリスペクトされている我が国の「文化」であるが,ひとつだけ,弱点というか,文化としての限界があるにように私は思えてならない。

日本のアニメはジェンダーが個化されている。それが日本のアニメの最大の欠点であり,文化的限界でもあると言えよう。日本アニメに登場する女の子はすべからく「良妻賢母」に描写され,それを見て育つ女の子も男の子も,そうなるように,それがアタリマエのよう幼少から「教育」されるようにできているのだ。アニメの女性キャラは魅力的だったり共感的だったり,コケティッシュだったりエロティックだったり,様々なキャラクターが存在するも,その通奏低音はみな,男の子(あるいは男)にとって都合のよい女としてしか要求されないことが透けて見える。ある時は「夫」が支配しやすい貞淑で誠実な「妻」のイメージであるし,ある時は「息子」が安心して甘えることのできる無限に優しい「母」のイメージでもある。彼女たちは時として判断をし,主張をし,行動するが,それらは全て「男」にとって都合のよい範囲内で許可された行動様式でしかない。もちろんこれはそのアニメの制作者や監督があからさまに意図したことではないし,表面的にはそうでないメッセージを送っているものもある。しかし,アニメはマンガや小説と異なり,制作にあたって発生した莫大な金額を回収せねばならないためある程度商業的に成功させねばならず,自ずと「万人に受け入れられる」「売れる」ものを作らざるを得ない。そこに大衆の深層心理としての保守的なジェンダー観が働く落とし穴が待っているのではないだろうか。

「男にとって都合のいい女」・・・。例えば,「プラネテス」を例に取って,例証することは容易に可能である。特にメインキャラクターのうちの一人であるタナベの人物描写が原作のマンガとアニメとでは雲泥の差だ。原作ではタナベは「自らの意志を持つ女性」として描かれている。最終的には結婚することになるハチマキに対しては最後まで安っぽい恋愛表現は見せず,淡々と飄々と彼女自身の独自の価値観で生き,行動し,そしてハチマキを受け入れることを選択している。テロリスト・ハキムに対して本気で引き金を引こうとするハチマキを,熱烈なキスを以て阻止するのもタナベの確固たる意志であるし(そしてこの重要で象徴的なシーンがアニメ版には欠落している),ハチマキと結婚後も働く女として自立して宇宙で活躍している(この設定もアニメ版では割愛されている)。深い信頼関係で結れているものの,依存関係にはない,自立した者同士の対等な関係して描かれるタナベとハチマキ。それが原作のキイとなる人物設定であり,それが故にエンディングの「愛することだけは止められないんだ」いう一見クサいセリフが,クサくならずに成功する絶妙な伏線を張っていると言えるだろう。

一方,アニメ版で描かれるタナベはまさにステレオタイプ的キャラクターに堕している。原作より若干年齢設定が若く童顔に描かれたり,ハチマキとの子供じみた恋愛場面が登場するのはまだいい。しかし,「愛です!」を安売り連発し元気がよいだけで思慮が足りない「若い女の子」として描写されるあたりから強い違和感を覚えてくる。アニメ版タナベの行動原理はほとんどハチマキを中心にしか動かないし(依存性),原作では見られないオロオロ感やウジウジ感がそこここに描かれている(非自律性)。普段は明るく強がりだがいざというときには守ってあげなきゃと男に思わせる,男にとっては甚だ都合がよい典型的な性格(そしてそれは原作とはまったく逆)。極めつけが最終回の最後のシーン。なんと彼女は妊娠している。いや,セックスや妊娠が悪いわけでは決してないが,原作で重要なテーマであった精神的な「信頼関係」(=「愛」)が安易に「妊娠」という物理的なものに転嫁されちゃってよいの?とツッコミを入れたくなる。どうせ妊娠まで描くのであれば,出産後も一児の母としてバリバリ宇宙で働く(原作のフィーのような!)強い女性というところまで描いてもよさそうなのに,それをするつもりはないらしい。しかも妊娠中はハチマキの実家で家事手伝いとして暮らしているようで,2070年代という設定の割には昭和時代のような家族観。おいおい,本気でこれで終わりかよ・・・,とゲンナリしたまま見ていたら,ほんとに終わってしまった。なんというステレオタイプの見本のようなアニメ・・・。

アニメ版プラネテスのディテールを見れば,非常に良くできたすばらしい作品であることは一目瞭然である。原作を旨く補完する緻密なSF的背景,ギミックな小物,スケールの大きい政治的ストーリー展開・・・。文句を垂れつつも最終回まで毎週ほとんど欠かさずに見てしまった所以の魅力は確かに認めたい。しかし,だからこそ,秀逸な舞台設定の上に立つ杜撰で保守的なジェンダー観がどうしても鼻につくのだ。そして,せっかく原作でいきいきと描かれていた新しい世代の「自立した女性」が,各断片的シーンを巧妙に繋ぎ合わせながら無惨にも改竄されるのを見るのは,全くもって忍びない。もしかしたらアニメを見慣れた人たちはそれに気づかないのだろうか。幼少の砌からアニメを見て世の男と女はこういうものだと教えられて育ってきているのだとしたら・・・。それが誰も意図しない,そして我々日本人が払拭することのできない不気味な大衆の深層心理にほかならないのだ。

今世界をリードする文化的最先端の日本のアニメーション。その地下水脈に流れる前時代的思想は容易には払拭しがたい。日本のアニメはこれが限界なのか? その暗闇にメスを入れ,この殻を破るアニメが出てきて欲しい。文化的狭視観の限界を臨界に変えた時,日本のアニメは真の意味で無限の発展を遂げ,国際的に評価されるとになるであろう。その日が来るのを切に祈って止まない。

Category: 2. comic
追記

ところで,蛇足ながら白状しておきますが,上記の視点は,特に私が発見したものではないのデス。すでに正鵠を得た穿つ批評がすでに存在しており,私の論調は単にそれの亜流にしかすぎないです・・・。その偉大なる先達とは,そう,読んでてもうおわかりの方もいるかと思いますが・・・,斎藤美奈子です。

■斎藤美奈子,紅一点論,ちくま文庫 (1998, 2001).
■斎藤美奈子:妊娠小説,ちくま文庫 (1994, 1996).

数多あるアニメ論の中で斉藤がひときわ光明を放っているのは,ジェンダー論の観点からアニメの一刀両断しているからだけではないでしょう。アニメというメディアをダシに,近代日本の教育や家族観にもみ込んで,日本文化の深層心理とも言えるレベルまでを俯瞰的に見透かした秀逸な批評であるからだと思います。私の拙い文章を読むより,百聞は一見に如かず。アニメが好きな方もアニメが好きでない方も,ゼヒ斉藤美奈子を読んで一度は打ちのめされて下さい。ほんま,おススメです。(^^)

コメントの一覧 (15件)

はじめまして。
プラネテスの感想を辿っていて、たどり着きました。

うーん、一つお聞きしたいことがあるのですがね。
あなたは、いわゆる普通の家で、普通の主婦として暮らしている女性を、「男にとって都合が良い存在だ」と感じますか?
星野家の母親、ハルコさんは、「常に男に振り回されている、依存性の強い女性」だと感じますか?

................. by kei (01/27 09:52)

keiさん,早速のコメント,ありがとうございます。(^^) さて,ご質問に対するご回答ですが・・・。
【問】あなたは、いわゆる普通の家で、普通の主婦として暮らしている女性を、「男にとって都合が良い存在だ」と感じますか? →【答】いえ,そうは思いません。専業主婦あるいは専業主夫は立派な職業であり,誇りをもってその仕事を遂行されている方はすばらしいと思います。理想的には,お互いのパートナー同士,職業や収入の多寡に関わらず,依存や支配の関係でない対等な信頼関係が築けるのがベストですね。
【問】 星野家の母親、ハルコさんは、「常に男に振り回されている、依存性の強い女性」だと感じますか? →【答】いえ,全くそうは思いません。上記の回答の通り,専業主婦であることと,「男にとって都合がよい」とか「依存性が強い」ということは全く同じではないと思います。原作でのハルコさんの気っ風のよさはアニメ版でも損なわれず,その点は評価したいところです。
いずれにしろ,ここで私の言いたかったことは,職業的自立や収入的自立ではなく,精神的自立です。わざわざ原作で設定されていたタナベの魅力(女性としての,というより人間としての)が,アニメ版ではかなり歪曲されてしまったのは残念であると言わざるを得ないと思います。

................. by ぽた郎 (01/27 18:55)

今,ちょいと読み直したら,あまりに文字の欠損が多いので(おそらくMovableTypeのバグ),それらを数カ所修正致しました。その他の表現・内容には変更ありません。

................. by ぽた郎 (01/28 01:33)

ぽた郎さんの記事を読んでいたら半年前に掲示板でも似たようなコメントがあったのを思い出しました。そのコメントは「女は家を守る港」みたいな考えは古すぎて海外では受け入れられない、という趣旨でしたが、本当にそうかなと思って海外のレビューサイトや掲示板を見て回ったところ、そういう部分に対する否定的なコメントは皆無でした。むしろ出征兵士を送り出す妻の心境に重ねて泣いた(恐らくは女性のコメント)、とか、肯定的なコメントが多かったくらいで。

アメリカやヨーロッパの友人と話していると、男女問わず日本のようなジェンダー論は持ち合わせていないようです。むしろ、ずっとマッチョですよ。逆に日本のジェンダー論のほうが奇形的に突出している印象です。もちろん、突出していること自体が悪いわけではないので、ぽた郎さんの感じ方を批判するつもりは無いのですが、一応参考までにということで(文中で「日本の」という言葉が多用されていて、海外にくらべて日本のジェンダー感覚?が古い、と感じられているような印象を受けましたので)。

あと、アニメ版のタナベは最初から原作とは全く違うキャラクター造形を与えられていて、普通の女の子が自分なりの強さを獲得するストーリーになっています。そこで例のキスをしたり、妙な「強さ(ぽた郎さんのおっしゃる意味での)」を見せられたら、むしろその不整合性が批判の対象になったでしょう。最初から違うストーリーとして描かれ、それを完遂したわけで、この部分は批判の対象にはならないのではないでしょうか。Impressionよりもcriticismとのことですが、ストーリーの前提に対する違和感はむしろimpressionそのものではないかと思います。

個人的には、表層的(経済的、行動上の)な強さだけで自立の度合いを測るのは違うかな、と感じます。このアニメで描いたのはもっと内面的な強さですよね。(長すぎ・・・orz)

................. by TON (01/28 20:38)

わぁ、コメント欄を読まずに書いてしまったので少しだけ追記を。

最終段落は、タナベの強さは最終話では十分表現されていると思う、ということです。それから、原作のタナベの強さは人間的な強さではないですよね。むしろそれを超越した強さとして描かれていると思います。タナベのそういう神様的な側面は、アニメでは部分的にノノに引き継がれたのかもしれませんね。

................. by TON (01/28 20:45)

TONさん,コメント有り難うございます。こうやっていろいろな立場の方と議論できるのは非常に嬉しいです。さすが,「プラネテス」の威力。(^^)

まず,発端としての違和感はたしかに Impression ですが,その発露はどこからくるのか?という分析をしてみた,という点で criticism を目指しております。ご了承を・・・。
さて,私はTOMさんとは反対に,日本のアニメのステレオタイプ的な gender role についての言及は,むしろ英語圏の方が多いかという印象がありますが如何でしょうか。例えば,ちょっとググって目に付くのだけでも
 ・http://web.mit.edu/rei/www/manga-gender.html
 ・http://www.abcb.com/ency/a/anime.htm
 ・http://eserver.org/bs/13/Newitz.html
 ・http://www.animeinfo.org/animeu/grjavan.html
などがあるかと思います(その多くが旧来のステレオタイプを指摘しているだけでなく,新しいアニメ作品の脱ステレオタイプ化を好意的に述べております)。ちなみに,欧米でも人種や性差に関して保守的な考え方を持つ人は少なからずいることは確かですし(幸い私の友人知人にはあまりいませんが),日本は遅れているとか欧米が進んでいるとかを云々つもりは私もありません。しかしそれを置いておいたとしても,ステレオタイプ的な gender role が再生産され,しかもそれが日本文化として世界に発信されちゃうというのは看過してよいものでしょうか? 良くできている作品なのに,これさえなければなぁ〜,と私は思います。しかも原作にわざわざあるものをカットし,ないものをわざわざ付け加えた結果のステレオタイプ化。やはり原作を先に読んだ者としては,アニメ版(の人物描写・心理描写)には少々失望せざるを得ません。アニメ版の人物描写の浅さは特に原作ファンからも少なからず指摘されているかと思いますが,私は特にジェンダー論の観点から,それを論じて見たかったわけです。

................. by ぽた郎 (01/29 03:54)

今度は,TONさんのコメントの後半部分へのご回答デス。

タナベの人物描写・心理描写ですが,やはり原作に比べ,アニメ版ははるかに薄く粗雑だと私は感じました。例えば,原作では挿入話的なエピソードでタナベの生い立ちが描かれていますが,これは非常に深淵で哲学的なテーマを扱っているとも言えます。確かにこれはアニメでは表現は難しいでしょうが,これなしにタナベの「愛です!」というセリフを安っぽく感じさせない方法はあるでしょうか? (余談ですが,フィーの家庭のエピソードもアニメ版では無視されてますね。「ママがママになるんなら パパは?」「パパになります 選手交代」というセリフは私すごい気に入ってるんですが。アニメ版ではこの発想は受け入れられなかったのかな・・・。) 結局,アニメ版では余計な登場人物が増えたせいか,メインのストーリーを重視したせいか,個々の人物の精緻な描写が割り引かれているのが否めないかと思われます。

というわけで,結論。サンライズさん,ゼヒ挿入話をOVAで出してそのへんを挽回してくれ〜。私もなんだかんだでアニメ版気に入って(気になって?)るんです。愛するが故の厳しい注文,ってことで・・・。(^^;

................. by ぽた郎 (01/29 04:28)

ぽた郎さん、すばやいレスポンスありがとうございます。それにしても、こういう評論ってずいぶんたくさんあるんですね~。

あんまり粘着的にコメントを返すのもなんですので、ごく掻い摘んで。とりあえず最初と最後の「評論」を読んでみました(個人的には突っ込み所満載に見えるのですが、それをやるとジェンダー論になってしまうのでとりあえず措いておきます)。1つ目の記事のようにアニメ(漫画)が平均値として男性重視だ、という批判は成り立ちうると思います。ただ、個々の作品に対してジェンダーに対する配慮を要求するのは違うかな、と。どんなストーリーの組み立てをするかは監督と脚本家が自らの信念に基づいて決めるものであって、ジェンダーに対する配慮などは本質的には政治的な、不純なものでしょう。どこかの掲示板で見ましたが監督が一番やりたかったシーンは24話の後半なのだそうで。あのシーンを盛り上げるためにそれまでの23話でキャラクターを練り上げ、そして成功したわけです。監督はジェンダー論よりも主人公の夢や愛を試すストーリーが書きたかったのでしょうから、そこにジェンダー論がない、という批判はさすがに酷だなー、と思ったわけです。

アメリカのドラマなどではキャストに一定数の黒人を入れたり、という配慮がありますが、あれは肌の色がシナリオにほとんど影響しないから出来ることで、性差の違いがはっきり表れる恋愛ネタでは、そういう配慮は難しいだろうと。

あと、平均値としての男性重視、という批判に対しても、視聴者・読者の男女比を考慮してからやってくれよ、という思いはありますね。漫画の男性重視も、単に少女漫画がビジネス的にダメダメな結果に過ぎないという側面もあるわけで。

................. by TON (01/29 21:55)

全然掻い摘んで無いじゃんorzと思いつつ、後半部分へのコメントを・・・

アニメ版のタナベの「愛」は相当に安っぽく描かれていると私も思います。ただ、それが監督の意図的な演出であったことが24話で示され、その組み立てに視聴者は感心したわけで。

フィーのストーリーも、別にジェンダー的にどうこうというよりも、あのエピソードをアニメ版のストーリーに入れるのは難しいからではないでしょうか。職場でのフィーの位置づけはハチとタナベというコドモに対する大人ですから、フィーのコドモなエピソードはハチやタナベが大人になった後か、フィーが大人の論理を語る「議長の馬鹿息子」のストーリーの前に入れる必要がありそうです。それは無理だろう、と。全体的に、ストーリーの構成は漫画よりもアニメが上だと思います(原作があるんですから当然ですが)。

どちらにせよ、個々の作品の評価はそういう政治的な要素ではなく、物語の完成度で決めないと作者の方々がかわいそうだなぁ、と思うわけです。あ、でも、私も原作とアニメどちらが好きかと言われると原作、と断言します。アニメ版のハチは強さよりも痛々しさが目に付いてしまって、そこは気に食わないんです(^ ^;
OVA(映画でも)、作って欲しいですねー。私はどちらかというとアニメ版のオリジナルエピソードを見てみたい気がします。 長居をしてしまいました。ではでは。

................. by TON (01/29 22:12)

はじめまして。知人にこの記事を紹介されてここへ参りました。
斎藤美奈子氏の紅一点論は名著です。
私はプラネテスのアニメ版を少し見た時、つまらなく感じたので視聴を継続もせず、
原作である漫画も読まなかったので、
プラネテスについてはあまりコメントできません。
ただ、アニメ化されたら改悪されて悔しい思いをする
というようなことはこの業界では日常茶飯事なので
ぽた郎さんの方に親近感を覚えます。
どんな物語もある意味政治的です。
また、誰かさんのように政治的なものを不純なものと扱うのは、
政治的なものを極端に嫌う日本人の日和見的なところが伺えます。
蛇足ですが、私の好きなアニメは「NOIR」と「MADLAX」です。
戦う女性は美しいです。

................. by Lily-yuuki (01/30 01:20)

Lily-yuukiさん,初めまして〜。コメントありがとうございます。
「どんな物語もある意味政治的です。」という意見には私も賛同します。特にステレオタイプというのは無意識下の政治的メッセージであり,作り手も受け手も特に政治的と意識していない分だけやっかいなものだと思います。反面,TONさんがおっしゃる通り,政治的なメッセージを全面に押し出すのも商業的成功には支障を来すのも事実で,それは日本に限らずどこの国でも多かれ少なかれ同じかと思われます。結局のところ,一流の作り手であればあるほど,政治的な問題(人種問題とかジェンダー的問題とかマイノリティーの問題とか)を軽やかにクリアーしながら,自らも観客も満足する作品を作るのでしょうね。そういう意味で,今回のアニメ版プラネテスは今一歩「一流」には届かなかったということかな。(もちろんだからといってその魅力的な部分が薄れるわけではありませんし,愛すべき要素は多いかとは思いますが。)
ところで,コメント欄では「誰かさん」など伏せ字的婉曲表現はできればお避け頂ければ幸いです。拙ブログは,批判があれば対象と理由を明確に,はっきりズバリもの申す,というのがモットーですので(その方が余計な誤解や感情論にならずに済みますし),その点ご理解頂ければ有り難く思います。(^^;

................. by ぽた郎 (01/31 00:04)

すみませんでした(^^;)
伏字的婉曲表現を使う必要のないブログなのですね。
了解しました。

................. by Lily-yuuki (01/31 17:10)

えっと、やはり私なりにお答えしたほうがよろしいでしょうか>Lily-yuukiさん

えー、まず、私は政治的なものを嫌っているわけではありません(そっちのほうが本職に近いですし)。「各種の政治的主張(ジェンダー、人種、宗教他)が反映されているかどうか」が個々の作品の評価軸になるのは間違っている、と申し上げたわけです。そもそも政治的主張は無数にあって全てに配慮することは出来ず(対立概念もありますし)、その中でどれを選ぶべきかという基準も存在しません。そんなもので一流かどうかは判断できないだろうということです。ただし、アニメやら小説やらの平均として、明らかにその描写に偏りがある場合には、社会現象としてそれらは批判の対象になりうる、というのがコメントの趣旨です。

黒人らしい黒人がひとりも登場しないプラネテスは人種差別アニメとして批判されるべきではないが、全てのアニメに黒人がひとりも出てこなければ「ちょっとそれはバランスおかしいんじゃない?」という批判は成立する、ということです。

各監督の描きたいものがはっきり存在する以上は、それと噛み合わない政治的主張は無視されてしかるべきであり、そういったものに時間を費やすことが一流へ近づくことだという考えは間違っているだろうと思うわけです(時間を無駄にせずそういう配慮をしてこそ一流というのがぽた郎さんのお考えのようにも見えますが、監督が配慮をしない別の演出アイデアを思いつき、そちらがよりよいと考えるならばそれを選択することこそが一流への道だという意味です)。

ではでは。(しかし、誰も読んでくれなかったりして・・・)

................. by TON (02/04 21:41)

読んでますよ〜。(^^)

確かに政治的なファクター「だけ」で教条的に作品を評価するのは極端で,私もそのような読み方には賛同しません。バランスが大事というのも理解できます。しかしここでは「プラネテス」そのものに問題を絞ると,やはりアニメ版と原作と間に横たわる大ききな溝にあるのではないかと思います。
すでにエントリ本文やコメントで指摘したとおり,原作で配慮されていたものがアニメ版では敢えて無視され,逆にあまり配慮のないストーリーや設定が敢えて挿入された例が数多く目立ちます。これはもう監督や脚本家が相当迂闊だったか,恣意的だったかどちらかではないでしょうか? 確かに監督や脚本家は原作とは違うことをやりたかったというのはわかりますが,それにしても原作の表層的な設定やストーリーしか借りてきておらず,材料だけ換骨奪胎して都合良く世界を作り替えちゃった,というイメージが拭えません。結局,原作は宇宙を書きたかっただけでなく人間を書きたかったのに対して,アニメでは宇宙を書きたかったが人間には大して興味がなかった(表面的な人間関係だけ),という違いになるでしょうか。

ちなみに,フィーは原作ではあきらかにアフリカ系(あるいはプエルトリコ系)アメリカ人として書かれ,特に彼女の叔父とのエピソードの中にマイノリティーの(白人社会の中の黒人としての,社会に適応しづらい人としての)問題が深く描かれています。また,政治的問題とは異なりますが,原作では随所に宮沢賢治の作品(のモチーフ)がさりげなく散りばめられており,原作者の深遠な世界観・宇宙観の片鱗が垣間見られます。こういった原作のもつ深い人間観察や哲学的テーマはSF的冒険活劇とはあまり関係ないんで,アニメ版ではスッパリ却下されちゃうんでしょうかね・・・。それを捨ててまで監督や脚本家がやりたかったことっていったい何なんでしょうね・・・? やはり,繰り返しますが,所詮アニメはこの程度なのか?という懸念をアニメ版「プラネテス」を見終わって強く抱いてしまいました。手厳しいようですが,それが私の感想です。アニメ版のファンの方,ごめんなさい。原作未読の方はゼヒ原作の方も読んで下さい。たぶん百倍感動します。

................. by ぽた郎 (02/06 02:05)

すみません、まさかお返事をいただけるとは思ってなかったんで読むのが遅れました。

おっしゃることは良く分かります。結局のところ、原作のエッセンスをどこだと感じるかが私とぽた郎さん(そして他の人も)で違うので、これだけアニメ版の評価も変わるのかもしれませんね。

私は原作版のエッセンスは「イグニッション」とそれ以降でハチ、フィーやロックスミスが見せる怒り(表面的な怒りではなく、内面的な)だと思っているので、アニメ版はそれをうまく組み替えて見せてくれたという点で十分原作を生かしていると思います。特にアニメ版のイグニッションはそれ以前に15話も積み重ねてきたほのぼのとした流れを「堕落」「夢に対する不誠実」に組み替えてひっくり返して見せたわけで、あの部分に限って言えば原作を超えたと思います。

私にはフィーの話で出てくる旦那像は単にフィーのキャラクターからの逆算で出てきただけのキャラであり、フィーの叔父も人種問題を語るためではなく、フィーの怒りと孤独を仮託するための存在であって、原作者は特にジェンダーや人種問題を語りたかったのではなかろうと思っています。だからそういった部分を完全に無視したアニメ版は正しいと思っていますが、この辺は人によって読み方は千差万別であるべきで、ぽた郎さんの見方に異議を唱えるつもりもありません。そういえば、宮沢賢治ネタはアニメでも入れるかどうか検討されたらしいですが、20分の中で十分に見せることは難しいということで没になったのだそうですよ。

ではでは。長くなりすぎました。今度こそお暇させていただきます。

................. by TON (02/14 09:16)
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