January 03, 2004 | 「イティーハーサ」
■水樹和佳「イティーハーサ」,集英社 豪華版全15巻
読了。2000年に完結しているものだが,10巻目ぐらいまで買って,そのまま放ったらかしにしておいた。正月,古本屋で残りをたまたま見つけたのでまとめて買ってまとめて読む。
やはり,すごい,の一言につきる。すばらしい。予算と設備だけは重厚長大で作品自体は軽少浅薄のハリウッド文化とは対局の,複して豊潤,深遠にして緻密な日本マンガ文化を代表する秀逸な作品である,といっても過言ではない。複雑な味こそ滋味。よくできた「作品とはそういうもの。
というわけで,私自身は非常に気に入っているこの作品であるが,あえて辛口読後感を書いてみることにする。
あいかわらずの水樹節。非常に綺麗。美しい。それ自体がアトラクティヴな(魅力的な・惹き付けられる)芸術作品であると言えるだろう。しかし。美しすぎるのが,調和があり過ぎるのが,水樹和佳のむしろ欠点でもある,と私には思えてならない。水樹和佳の描く善神のような,瑕のない調和の取れた絵を見ると,つい,そういった天の邪鬼的考えを持ってしまう。ニーチェ風に言えば,アポロンに嫉妬するデュオニソスということか。
水樹和佳の描く善神は神々しいまでに美しく,悪神もまたそれなりにカッコいい。悪神があやつる悪の従士たち(人間)もそれぞれ美学がある。しかし,それは残念ながら「悪の美学」と呼ぶにはあまりにもキレイすぎる。美学がありすぎて,結局は「いい人」に還元されてしまうのだ。つまりこれでは,汚いところがない,匂いのない,偽悪的な「悪」に過ぎないのではなかろうか。
たしかに「悪」の描写は作品にも存在する。戦闘や殺戮のシーンは血しぶきが飛び散り,死体が散乱し,少女マンガとしては異例の「残虐さ」を敢行しているとも言える。しかし,その血には匂い(もしくは臭い)がない。暴力性がない。あたかも歌舞伎や浄瑠璃のごとく昇華された美しい血にしか見えないのである。作者自体が意図してそれを書いているのか,作者の意図に関わらず美しく完成された絵がそれを疎外しているのかは,わからない。しかし,吐き気をもよおすような,目を覆いたくなるような,ムッとくる生理的な匂いが,残念ながら希薄だと言わざるを得ないのである。
もちろん,昨今の安易な小説/マンガにあるように,やみくもに暴力的・残虐的な描写をすればよいというものではない。しかし,不快な死の匂いを暗示するすることさえしないのは,「悪」にとっては甚だ不公平な扱いではなかろうか。主人公たちは時折,人を殺めたことに対する快楽と悔悟の念を揺れ動く(かのように描写される)が,マクベス夫人の手のような生々しさは希薄である。悪もしくは暴力性につきまとう負のエネルギーとしての匂いが,暗示すらされないのはやはり残念である。
同様に,水樹和の作品には「汚い」ものも存在しない。古代では日常的であった屠殺,腐敗,排泄,といった物理的な汚さはもちろん,戦争に(残念ながら)つきもののレイプ,リンチ,拷問,弱者虐待,といった精神的な汚さまで,やはり残念ながら見事なまでに排除されている。こういった人間の本質に迫る暗部を敢えて無視してしまうことによって,善と悪の対立とその超克という作品全体のテーマは,残念ながら表層的なものにしかなり得ないのではないだろうか。
ここで,「少女マンガだから」とか「読者層が」などと言った言い訳はもはや通用しないだろう。作品の扱っているテーマ自体が壮大で崇高でもはや「子供向き」の領域を超えているのだから。安易な二元論に陥らない複雑で深遠なテーマはすばらしい。これこそが成熟した文化として日本マンガを代表する豊穣な作品であると言える。だからこそ,「少女マンガだから」と逃げ道を作らないような悪の本質に迫って貰いたかった・・・。愛すべき作品への,これはわがままな要求だろうか?
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