ぽた子の軟弱な日々01/07
ぽた子が気が向いた時に気が向いたことを書いております。戻るときはブラウザの「戻る」でお願いします。
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7月29日 日曜日

■今日立ち読みした本(読んでない):嶽本野ばら(たけもとのばら), カフェー小品集, 青山出版社, 2001.
■最近カフェブームで、単なる喫茶店じゃない、オーナーの趣味を強く反映させたカフェがあちこちにできてます。でも、その一方で「カフェー」と呼びたくなるようなお店もまだあるのです。例えば京都の「フランソア」。扉を開けると、からからんと鳴る鐘。木製の焦げ茶の机とソファー。高めの天井にはアールヌーボー調のランプが吊られ、窓にはステンドグラス。「いらっしゃいませ」と声をかけてくれる薄水色のワンピースを着たウエイトレスは、女給さんという呼び方の方がぴったりくる。まるで、そこだけ時代が違っているかのような・・・。
■そんな今も実在している「カフェー」を12軒集め、そのお店へのインタビューも交えた小説が、「カフェー小品集」。小説仕立てですが、実用にも使えるよう最後にお店のデータが付いてます。
■ついにこういう本が出たか、という感じです。はやりのカフェだけじゃなく、ノスタルジー系カフェーの特集をやってくれ〜とずっと思っていたので。しかし、こういったお店は時代と共に潰れていくでしょうね。経営がしんどいそうです。個人的には大好きなんですが・・・。この12軒もなるべく続いてほしいものです。本に出てたお店のうち、ぽた子が行ったことあるのは、京都のフランソア、鎌倉のミルクホールでした。
■ただ、この本、自分に酔ったような文章がえんえん続きます。70年代少女マンガ風の、目に星が入ってる主人公がしゃべるような台詞だらけです。読めない人には全く読めないと思います。
■嶽本野ばらちゃんは乙女研究家で、90年代に「花形文化通信」という関西のフリーペーパーに「それいぬ -正しい乙女になるために-」というタイトルの連載をしてました〔同名の書籍になってます)。ぽた子は連載中ずっと読んでいて、好き嫌いはともかく、強烈に印象に残ってます。
■ちなみに、野ばらちゃんは男性です。
■追記(8/1)野ばらちゃんの公式HPはこちら


7月27日 金曜日

■昨日は、国立文楽劇場に文楽を見に行きました。今回は夏休み公演ということで、一日3部構成(それぞれ入れ替え)で、1部が約2時間という短さなので、ちょうどお手頃です。(普段は、一日2部構成で、それぞれ4時間半(!)もあるので、見るのにかなり気力がいる。)夜の部である3部は、人間国宝である吉田玉男さん、蓑助さんらが出てました。
■夏だけあって、お話だけで涼しくなるような親殺しの話でした。
■感情のもつれから義理の親を殺すなんて、ドラマでよくありそうな話だし、生身の人間が演じたらつまらなくなってしまうと思います。でも、それを人形で遣ると実に生々しいのです。
■一番リアリティがあるのは、生身の人間が演じることのはずなのに、人形には人間とはまた違うリアリティを感じるのです。「現実離れした現実」って感じ。顔の表情と手の動きに引き込まれてしまいます。文楽の人形の表情は殆ど変わらないのに(眉とか口とかがちょっとだけ動くようにはできているけど)、たくさんの感情を表せるのです。人形遣いは見えてるけど気にならなくなってきます。
■人間で演じるのが歌舞伎ですが、歌舞伎は人間が人形になるのかもしれません。そして、現実ではない架空の世界での現実を楽しむのです。本物の人間だったら生々しくなってしまうけど、「現実離れした現実」の距離感を作り出すことで、美しい義理人情の世界に浸ることができるような気がします。


7月23日 月曜日

■昨日の訂正。「分け入つても分け入つても青い山(種田山頭火)」には季語は無いらしいです。山頭火の特徴なんだそうです、季語や五七五調にとらわれないのって。ぽたババ(ぽた郎の祖母)とぽたママ(ぽた子の母)に電話して聞きました。偉いヒトほど季語が無くても許されるそうです。でもぺーぺーは季語を入れないと先生に怒られるらしい・・・。うろ覚えでモノをしゃべるとぽた子に日記に書かれちゃいますね。>ぽた郎さん
■あと、ぽた郎さんは「自然への畏怖を感じる」という仏教的な感じの解釈もしたということでした。昨日書いたような、のーてんきなだけの解釈はしてませんでした。どうも、ぽた子の受け取り方が違っていたようです。もしかして、新聞の読み取りも違ってるのかも(^^);


7月22日 日曜日

■昨日7/21付け日経新聞夕刊の「旬の一句」のコーナーに取り上げられていた句は、「分け入つても分け入つても青い山(種田山頭火)」だった。
■ぽた子が学校でこの句を習ったときの感想は、「それがどうした」。「山の中歩いてて、進んでも進んでもまだまだ山が続くなぁ」っていうだけで、それだったら「片づけても片づけても宿題の山」と同じやん。正しい意味も習ったと思うけど、それは忘れてしまった。よっぽど印象に残らなかったんでしょう。
■解説者によると、「われわれは、人生の曲がり角で、ふと、衝動的に日常のしがらみから解放されたくなる・・・山頭火の作品は、(そんな時)われわれの魂を癒してくれる」とのことだけど、この句のどこが、魂を癒してくれるのかさっぱり分からん。
■で、ぽた郎さんに聞いてみた。「ねえねえ、このコーナー読んだ?」「読んだよ、山頭火の句、いいねぇ」「どこが?」「えー、だって、緑深い山の中を歩く様子が書かれてる訳でしょ。入っていっても入っていっても美しい木々があって、それがすごい解放感じゃん。季語は青いだよ、夏の季語。」「????」
確かに、ぽた郎さんみたいに解釈すれば、解説者の言い分と合うけど。
■でも、普通「○○しても○○しても」に続く言葉って、「××できない」じゃないだろうか。だとしたら、「分け入っても分け入っても青い山(が終わらん、しんどい、疲れた)」、「分け入っても分け入っても(続く)青い山(は何と無常なことよ)」、なんていう解釈も成り立つ気がする。喜んで山道を歩いてるんじゃなくて、辛い気分や無常感を抱えながら歩いていく。「青い山」がぴかぴかにきれいな分だけ、さらに気分が暗くなりながら山道を徘徊する。
■そうなると、この句は日常に疲れた現代人をさらに疲れさせる句になっちゃうなー。でも、解説者やぽた郎さんの解釈って、ぽた子にはいまいちピンとこない。句の感じ方もいろいろあるのだ。


7月21日 土曜日

■今日はぽた子のお友達の結婚式でした。久しぶりに、ばっちりお化粧しておしゃれして出かけました。高い靴を履いて、足が痛くなってしまった(^^);
■披露宴は、中之島の朝日新聞ビルにある「アラスカ」というレストラン。お料理がホテルの披露宴と比べて格段に美味しかった。さすが、新婦が「料理で決めた!」と言うだけある。新郎新婦もぱくぱく料理を食べる披露宴もめずらしいかも。「絶対食べる」って言ってたし、そういう式次第になっていた(笑)。会費は18000円だったけど、「全部料理代で、トータルで赤字やねん〜」、あれだけのお料理が出たら、そりゃそうかも。
■この「アラスカ」、「ベークドアラスカ」っていう、アイスクリームにメレンゲ乗せたものに火をつけて、表面の砂糖を焦がしたデザートが有名で、谷崎潤一郎の「細雪」にも出てくるらしい。そういえば読んだ気がするけど、どこで出てきたかが分かんないなー。
■あ、最後になっちゃったけど、新郎新婦には幸せになってもらいたいものです。


7月20日 金曜日

■今日読み終えた本:有馬朗人監修, 研究力, 東京図書, 2001.
■時々参加している勉強会の課題図書。たぶん、理系の人が選んだのだろう。一流の(理系の)研究者になるには、という視点から10人の科学者が自分の体験を語っている。それぞれの専門分野の解説はさっぱり分からなかったけど、みんな殆ど同じことを語っていた。
■要約すると、「コミュニケーション能力を持つ」「自分の頭で考える」「一流の人たちと付き合う」「論文はきちんと発表する」ということ。当たり前のようでいて、これが一番難しいということか。ただ、中村修二氏だけはちょっと異質だった。この人は研究者である前に体制への反逆者なのかも。
■その他、この本には書いてないけど思ったことをいくつか。
・科学者の倫理観についても考える必要があるのでは?例えば、あなたのやってる研究は兵器に応用できます、と言われたらどうするか?兵器が悪いと簡単に言い切ることもできないだけに、各研究者がそれぞれの考えを持つことは大切だと思う。
・ここに出てきた10人中、8人が大学教授。日本の産業は企業の占める割合が大きいのに、研究者となると大学になっちゃうのはおかしい気がする。
・研究だけやってればいい研究者というのは存在しないのだなぁ。大学の先生は研究者+教育者だし、企業研究者は研究者+製品開発者だ。もう一方の役割も忘れてはいけない・・。
・理系の場合、実験装置とかお金の問題などがあるから、組織に属していないと研究はできない。しかし、しかし、高木仁三郎氏などの例もある。(原子力の研究者で、東工大助教授を辞めて原発反対の立場で発言を続けた人、昨年ガンで亡くなった。)
■実は、このタイプの本はあんまり好きじゃない。成功者が語れば何だって教訓になるし、読む前からだいたい中身の予想がついちゃう。


7月2日 月曜日

■昨日、芦屋西宮ポタに行った。メンバーはレスラーさん、横井ご夫妻、ぽた家。谷崎潤一郎記念館、インドネシア料理(おいしい)、宮水、ヨットハーバーetc.
■夕方、キワチャリに乗ってて、段差を乗り越えられず転んでしまう。右目の横と手を擦りむく。ポタはお開きにしてそのまま帰宅。みなさん、ごめんなさい。
■久しぶりにケガしたな、と思った。擦り傷切り傷とはこの10年以上無縁で、子どものころ以来だ。こういうキズって、単純に「痛い」ですね。風邪引いたときの、のどや関節の痛さは、「痛い」というよりも「しんどい」っていう表現がぴったりで、「痛い」とはまた違う。こういう単純な痛さを経験するって、(特に小さいときには)必要なんだろうなと思う。今の子どもは他人への想像力がないから、すぐ人を刺したりする、なんてよく言われる。想像力っていうのは、痛いという経験があってこそ出てくるもので、痛い経験をしたことがなければ自分の痛みも他人の痛みも分かるはずがない。
■ぽた子自身、他の人に「手術した」とか「転けた」とか話をされたとしても、「大変だったのね」とは思っても「痛かったのね」とはすぐに思わなくなっていることに気がついた。最近は、無痛出産というのもあるらしいし。たまには痛くなってみるのもよかったかも。